第七百二話 リネン平原の戦い(二)
反クルセルク連合軍ジベル軍がリネン平原に達したのは、二月五日のことだ。
リネン平原はクルセルクの中心であるリネンダールの北部一帯に広がる平原であり、だだっ広い大地には多用な動物が生息していることで知られていた。しかし、そういった動物たちは、魔王軍の成立と皇魔の跋扈を境に姿を見せなくなっていったという。皇魔の餌にされたという話もあれば、皇魔を恐れて逃げ去っていったのではないかといわれてもいた。南西にサマラ樹林があり、南東の丘陵地帯はウェイル山に連なり、ウェイル山からはウェイル川が流れている。
魔王軍がリネン平原、ウェイル山方面、サマラ樹林方面に軍を分散し、展開したのは、リネンダールを制圧する巨鬼の存在が大きいのだろう。連合軍もそれに対応する形で、軍を三つに分けた。戦力の分散は避けたいところだが、挟撃の可能性を考えると、個別に対応するほうが損害を抑えることが出来るのではないかと考えた。
ガンディア軍はウェイドリッド砦の北東、ウェイル川からリネン平原を目指し、アバード軍は砦の北西サマラ樹林からリネン平原を目指した。ジベル軍は、途中までアバード軍と行動をともにしていたが、ある地点で北に進路を取った。リネンダールを迂回するようにしながらも、連合軍の中で真っ先にリネン平原に辿り着き、布陣している。
軍師ナーレス=ラグナホルンがリネン平原を決戦の地と認定したのは、リネン平原がゼノキス要塞のちょうど真南に位置していたからだ。リネン平原を突破すれば、ゼノキス要塞に至る。逆を言えば、リネン平原を越えなければ、ゼノキス要塞、さらにその北のクルセールに辿り着くことはできないのだ。もちろん、大きく迂回すれば、リネン平原を無視することもできるが、そのような時間的余裕はない。そんなことをしているうちに兵糧が枯渇し、遭難するのが目に見えている。
連合軍には、もはや短期決戦の道しか残されていなかった。
「敵が部隊を展開しているところを見ると、我々の到着を待ち受けていたようですね」
「部隊を展開……という次元ではあるまい」
軍議の席上、ハーマイン=セクトルが渋い顔をしたのは、エイン=ラジャールの言葉が軽かったからかもしれない。ジベル軍の名の通り、ジベルの将軍ハーマイン=セクトルがこの軍団の総大将を務めている。ルシオンの王子ハルベルク・レイ=ルシオンではないということでハーマインには多少の遠慮がないではなかったが、クルセルク戦争が始まって以来のことであり、慣れてもいた。
軍師役のエイン=ラジャールも、板についてきている。
「まあ、それはそうなんですが」
暗雲立ち込めるリネン平原には、魔王軍の陣地が築きあげられていた。とても自然物とは思えないような壁がこちらの射線を防ぐように立ち並び、進軍経路さえも限定されている。地の利は間違いなく相手にあり、地形の上でも、戦力の上でも、こちらが劣勢なのは火を見るより明らかだった。兵数ではこちらが凌駕しているものの、人間と皇魔の力量差を考えれば、多少数で上回ったところで大きな影響はない。
もちろん、ジベル軍の戦力が、他の軍団の戦力に比べて劣っているということはない。《獅子の尾》からはファリアが参加していたし、死神壱号ことレム・ワウ=マーロウもジベル軍の陣列にいた。リョハンの四大天侍のうち、シヴィル=ソードウィンとニュウ=ディーのふたりが強力に援護してくれている。ほかにもルシオンにはファリアの知人である優秀な武装召喚師が参加しており、総合的に見ても他の軍団に引けを取らない戦力であるはずだった。
「魔王軍がここに軍を展開するとは思っても見ませんでしたよ。もっと早く遭遇するものだとばかり。そのための準備が無駄になっちゃいました」
「確かにな。敵は、リネン平原で我々の到来を待ち受けていた。かの軍勢がまっすぐ南下していれば、リネンダールの辺りで接触していたはずだ」
「敵も、こちらの動きに合わせて戦略を変えた、ということか」
ハルベルクがつぶやくと、エインが大きくうなずいた。
「ということで、こちらも戦術を変えませんとね」
「どうするのだ?」
「ある方のおかげで、敵軍の構成、敵陣地の様子は大体わかりました」
「ほう」
「だれだね、ある方、というのは」
「シヴィルさんですよ。シヴィル=ソードウィンさん」
エインはにっこりと微笑むと、盤上の地図に駒を並べた。
地図には、リネン平原の地形が細かく描き込まれており、その上から魔王軍が作り上げた陣地が描き足されている。長大な壁は、敵軍の射線のみならず、自軍の射線も防いでいるようなのだが、基本的に弓のような射程兵器を使うことのない皇魔には関係のないことなのかもしれない。進軍路が限定されるのも、敵味方同じだ。広大な平原に隘路ばかりが形成されており、衝突地点も限定されているようだった。射線が通らないということは、近接戦闘が主体とならざるをえないのだが、その近接戦闘すらまともにできそうにはない。そして、それこそが敵軍の思惑なのだろう。
「ご覧のように、魔王軍はこちらの戦力を徹底して分断するつもりですね」
「なるほど。人間の強みを殺し、皇魔の強みを生かすということだな」
「我々と対峙している魔王軍はリュウフブスとリュウディースのみで構成されています。御存知の通り、リュウフブス、リュウディースは魔術、魔法の類を得意とする種。非力な人間がそれらに打ち勝つには、力を合わせて戦うほかはない。しかし、この戦場ではそのような戦術を取ることは難しい。敵がリネン平原で待ち伏せていた理由がよくわかる」
エイン=ラジャールは、戦術を考え始めると、途端に人が変わったようになった。ただ綺麗なだけの少年ではなくなるのだ。数多の視線をくぐり抜けてきた猛者だけが持つ気配とでもいうべきものが、彼にはある。
「進軍経路は数えるほどしかなく、そのわずかばかりの進軍経路も、白兵戦を行える人数は制限され、かといって援護の弓射もあまり効果的ではない。通常の射撃さえ通りませんからね。相手は、こちらが白兵に当てられる人数が少なければ少ないほど自分たちが有利だということをよく理解しているんですよ」
人間と皇魔の根本的な能力の差、とでもいうべきか。
ブリークやグレスベルのような小型皇魔ですら、人間の基本的な能力を上回っているという。リュウフブス、リュウディースは中型皇魔の中でも極めて人間に近い体格の種ではあるが、その能力は小型とは比べ物にならないほど高い上、魔法を使う。少人数の戦闘ならば向こうに分があるのは、だれの目にも明らかだ。
「まともに戦えば、こちらが一方的になぶり殺されるだけでしょう。リョハンの四大天侍や、《獅子の尾》隊長補佐が気炎を吐いたところで、あちらの武装召喚師を当てられるだけ。そうなれば、こちらはお手上げです」
「では、どうするのだ?」
「援軍、待ちますか?」
「援軍……セツナ様が巨鬼を撃破するまで持ちこたえる、というのも、選択肢のひとつとしてないわけではないのですが」
エインが、ちらりとこちらを見た。ファリアは、内心の動揺を隠すように涼しい顔をした。セツナが巨鬼とともに光に包まれて、数日が経過した。光の中でなにが起きているのかわからない以上、不安を感じないはずがなかった。セツナを信じていないということではない。セツナと黒き矛ならば、巨鬼を討ち倒すことは疑いようがなかった。だが、現実としてセツナと連絡が取れなくなった以上、心配せずにはいられないのが人情というものだ。クオールの消息も不明だ。クオールは、セツナを巨鬼に送り届けるという重要な役割を与えられているものの、彼の役割はそれだけであり、送り届けたあとはすぐに戦場を離れているはずだった。
無事に戦場から離脱したのならば、いずれかの軍と合流を果たしているはずだ。彼の翼ならば、それができる。
「ここは、我々だけで切り抜けるべきでしょうね。いろいろとありますし」
エインが言葉を濁すと、ハーマインが眉根を寄せた。
戦後の発言力の低下を恐れているのは、どこの国も同じだ。特にハスカ領を欲するジベルにとって、ここでの失態が発言力の低下に繋がることが恐ろしいのだ。ルシオンの王子は、領土分配には無関心のようだが、彼に関心がなくとも、彼の父であるところのハルワール王が関心を持っているはずだ。ルシオンも、領土を欲している。
「それで、どうするのだ?」
「敵の思惑に乗っからなければいいんですよ」
エインは朗らかに笑った。
天幕の中、彼の考えを理解しているものは、ひとりとしていなかった。
「ぐえええ……」
蛙が潰れたときのような声を発した美女の有様に、彼は同情を禁じ得なかった。
「よくやりましたね。さすがは四大天侍随一の破壊者といったところですか」
「もうだめ、わたし、使いものにならない」
シヴィル=ソードウィンの褒め言葉も彼女の耳には届いていなかった。ふらつく足取りで、こちらに向かってくる。全身から流れ落ちる汗が、真冬だということさえ忘れさせた。
「ええ、よくわかっていますよ。ゆっくり休んでいてください」
「あとはよろしく……」
そんな言葉を言い残して、彼女はその場に崩れ落ちた。ニュウ=ディーの召喚武装ブレスブレスは、その能力の汎用性、強力さが示すように、消耗が激しいのだ。消耗を抑えて使うこともできるが、攻撃範囲と威力を求めれば、消耗を抑えてなどいられない。そして、今回の場合、彼女とブレスブレスにしかできないようなことだった。
もちろん、彼とローブゴールドも協力したが、彼女ほどの広範囲を破壊することはできなかった。
「……まったくたいしたものだ」
更地になった戦場を見やりながら、同僚の召喚武装の性能に恐ろしささえ抱いた。
リネン平原の南部一帯が、ニュウ=ディーとブレスブレスによって更地と化したのだ。