第七百話 呪い(後)
手のひらを見下ろす。
月明かりに照らされて、手首の辺りに血管が浮き上がっているのがよくわかった。考えるのは、血管に流れる血についてだ。ザルワーン五竜氏族リバイエン家と、オリアス=リヴァイアという呪われた男の血が混ざり合っている。
呪われた血。
(呪い……)
『聖皇の呪いは、聖皇六将全員にかけられたそうよ。聖皇は、六将の裏切りを許さなかった。当然よね。力を合わせて大陸を統一し、聖皇の治世はこれからというところだったもの。まさか側近に裏切られるとは想ってもみなかったのでしょう。そして、現実を認め、彼らを呪った。彼らの末の末まで、呪った。呪いながら、死んでいったそうよ』
まるでその現場を見てきたかのような口ぶりは、彼女が伝え聞いたことをそのまま言葉にしたからかもしれない。
『聖皇六将の裏切りと聖皇の最後については、歴史の闇に葬られたわ。そのことをアズマリアが知っていたのは、彼女が呪われた六将のひとりである可能性を示しているけれど、それはまた別の話ね』
アズマリアに聞けば、もっと深いところまで知ることが出来るのかもしれない。ふと、そんな考えが過ったが、彼女は胸中で頭を振った。血の宿業を知ったところで、彼女には関係のないことだ。この体に流れる血が呪われていようと、自分の人生には関わりがない。
真に呪いを継承しているのはオリアス=リヴァイアだ。ミリュウではない。ミリュウは不老不死ではない、ということだ。ただ、通常人よりも老化が遅いというのは本当のようだ。年齢よりもずっと若くみられることが多いのは、そういうことだったのだ。
聖皇の呪いを知って、合点がいったことがある。
オリアス=リヴァイアの言葉の意味だ。彼は、ミリュウに殺されたがっていた。ミリュウにこそ、殺されなくてはならないといっていた。それは、リヴァイアの血を引くものにしかなしえないことだからだ。
『血の継承者は不老不死。けれど、ある方法を用いれば、死ぬこともできるそうよ』
それが、血縁者による殺害であり、血の継承なのだという。
オリアスは、ミリュウを凶悪な武装召喚師として育て上げる過程で、彼女がオリアスを憎み、呪い、殺意を抱くように仕向けていた。それもこれも、ミリュウに殺され、ミリュウを血の継承者に仕立てあげるためだった、と考えれば理解できなくもない。
彼はみずからの呪いを解くために、実の娘に新たな呪いを施すために、魔龍窟の総帥として君臨し、狂気と殺戮の宴を開催したのだ。
だからといって納得できることではないし、認められることでもない。許しようのないことだ。それでも、オリアスがなぜ、ミリュウに殺されることを望み、殺せなかったという事実を嘆いたのか、いまならわかった。そして、それがわかったところで、彼を殺せるはずもないという現実に変化は訪れないのだ。
どれだけ憎んだところで、父は父だ。
(殺せるはずがない)
不意に、剣の柄が震えた。野営地外周に張り巡らせた剣の結界に何者かが侵入してきたのだ。野生動物ではない。磁力の結界は、金属反応を検知し、ミリュウに警告しているのだ。ミリュウは椅子から立ち上がると、検知した方角を睨んだ。
「どうした?」
「侵入者よ。北西部にひとり……ひとりだけね」
たったひとり。ならば目的はひとつだ。連合軍総大将レオンガンドの暗殺。それ以外には考えられない。
ナーレスも、瞬時に理解したのだろう。手短にいってきた。
「すぐに手配しよう」
「いえ……ここはあたしに任せて。敵がひとりなら、いくらでも戦いようはあるわ」
「……頼む」
「任せといて。軍師殿は、メリルを守ってあげてね」
「ああ……!」
ナーレスの返事を聞かぬまま、彼女は駆け出していた。メリル=ラグナホルンはこの本陣にいる。彼がなぜメリルを従軍させているのか理解できなかったが、時間がないという話を聞いて納得できた。少しでも長くメリルの側にいようという彼の配慮なのかもしれない。それは冷酷な軍師らしからぬ情け深さを感じるのだが、決して気分の悪いものではなかった。むしろ、そういう彼だからこそ、周囲の人間もついていくのかもしれない。
そう考える間にも侵入者は野営地に接近しているのだが、彼女は侵入者が本陣に到達することは不可能だと踏んでいた。柄を握りしめ、展開中の刃片に指令を送る。数百の刃片が反応し、侵入者を中心とする多重方陣を形成しながら範囲を狭めていく。
(捉えた)
ミリュウは、用心しながら、磁力方陣の中心に向かって進んだ。
侵入者は、野営地の北西部、ログナー方面軍の陣地と外の森の境界に立っていた。
やはり、たったひとりだ。たったひとりだが、一目見て、たったひとりで十分すぎるほどの戦力だということがわかりすぎるくらいにわかった。
侵入者は、召喚武装に身を包んでいた。全身を覆い隠す漆黒の甲冑である。それは極めて威圧的な形状をしていた。全身凶器といってもいいのではないかと思うような刺々しさであり、人間相手なら軽く殴るだけで殺しきれるに違いない。能力は不明。だが、知る必要はない。
ミリュウが息を呑んだのは、漆黒の鎧に気圧されたからに他ならない。
「……残念だったわね、どれだけ優秀な鎧を着込んでいても、あたしの結界に捕らえられたら意味が無いわ」、
侵入者の周囲に刃片が展開している。二重、三重、幾重にも展開する無数の刃片は、磁力の牢獄を作り出し、侵入者をその場から動けなくしていた。手を動かすこともできないのだ。このまま圧殺することも、不可能ではないはずだった。
だが、その前に搾り取れるだけの情報は搾り取っておかなくてはならない。
「あんたがどこのだれで、なにを目的にここを訪れたのか、話してもらいましょうか?」
ミリュウが問うと、鎧の侵入者は黙殺した。磁力の渦の中で、もがいている。手が動いた。わずかにだが、磁力の結界の中で動いたのだ。ミリュウは目を細めた。警戒を強めるとともに、さらに遠方の刃片を呼び集める。結界の強度を上げるのだ。
「答える気はないってわけね。まあ、いわなくてもわかるけど!」
ミリュウは気配の変化を感じて、黒鎧との距離を取った。同時に後方から相当数の足音が近づいてくるのがわかる。ログナー方面軍陣地に配置されていた物見が軍団長にでも報告したのかもしれない。野営地の直ぐ側だ。なにかあれば、軍団長としては放っておくことなどできまい。部隊が差し向けられている。
ミリュウが後方に注意を向けた直後だった。獣の咆哮のような雄叫びが黒鎧から漏れ、磁力刃による拘束が外れた。大気がたわむ。黒鎧が地を蹴った。跳躍する。ミリュウは黒鎧の殺気が自分に向けられていることを確認した上で、左に飛んだ。一部の刃片を鍔に戻し、短刀を形成する。黒鎧の拳が、直前までミリュウの立っていた地面を抉った。土砂が柱のように立ち上る。
彼女は、残りの磁力刃と呼び集めた刃片で、再び拘束を試みた。手応えはあった。土煙が薄れると、黒鎧の立ち尽くした姿が確認できる。だが、胸を撫で下ろしている場合ではない。
「なんだこれはっ!?」
ログナー方面軍の兵士が二十名ほど、ミリュウの視界に入り込んできていた。しっかりと武装しているところを見ると、いつでも出撃できるように準備をしていたようだ。ログナーの兵は精強だというのは、こういうところからきているのかもしれない。
兵のひとりが、ミリュウを見つけて、声をかけてきた。
「《獅子の尾》のミリュウさんですよね?」
「ええ」
「これはいったい?」
兵士たちは、漫然と立ち尽くす黒鎧の姿に戦々恐々といった様子だった。黒鎧の攻撃力はその目で見ているはずだ。黒鎧が地に拳を叩きつけた瞬間には、彼らはこの場に辿り着いている。
「見ればわかると思うけど、敵よ。偵察部隊や物見の警戒網を掻い潜ってきたところを見ると、あの鎧の能力は暗殺向きだったようね」
夜の野営地。偵察部隊が周囲を警戒し、物見が陣地の内外に目を光らせているのが普通だ。そして、その上でミリュウのような武装召喚師が網を張っていたというわけだ。もちろん、武装召喚師も交代制であり、マリク=マジクやカイン=ヴィーヴルがひとりで担当することもあれば、《協会》の武装召喚師たちが複数人で分担することもあった。
敵国領土内。しかも、その敵国は皇魔を使役する国だ。警戒してしすぎることはなかった。
「つまり、陛下の暗殺を狙った……と?」
「陛下だけじゃなくて、ガンディアの首脳陣……軍師様や将軍閣下の首もついでに頂こうって算段でしょうね」
「しかし、ミリュウさんがいた、と」
「……いまのうちにマリク=マジクを叩き起こしてきなさい。あたしが抑えている間に」
兵士たちと会話を続ける気にもなれなかったのは、単純に暗殺者の能力が高いからに他ならなかった。ミリュウが制圧していることで安心しきっている場合ではないのだ。
「はい?」
「早く!」
叫んだが、遅かった。
磁力刃の結界が内圧によって破壊されたつぎの瞬間、兵士たちの肉体が宙を舞っていた。兵士たちはなにが起きたのか理解することもないまま、五体をばらばらに砕かれていた。血の雨が降る。血だけではない。内臓や体液が降り注ぎ、死のにおいが充満した。悲鳴が上がる。攻撃範囲外の兵士が、剣を抜いた。ミリュウは磁力刃の斥力で兵士たちを遠くに吹き飛ばすと、黒鎧の殺気を感じて、すぐさまその場から飛び離れた。黒鎧の右足が大地を貫いた瞬間には、衝撃波がミリュウの全身を突き抜けている。
(強いっ)
後ろにあった樹の幹に背をぶつけたことで止まったものの、損傷は小さいものではなかった。全身に痛みが生じていたし、口の中の唾液に血の味が混じった。内臓がやられたのかもしれない。揺れる視界で敵を捉えようとしたとき、目の前が真っ暗になった。鉄の冷たさが顔面を覆う。黒鎧の手が、ミリュウの顔面を掴んだのだ。反撃に転じる間もなかった。わずかな浮遊感の後、後頭部を地面に叩きつけられる。
頭が割れるような痛みの中で、ミリュウは磁力刃を黒鎧に叩きつけている。拘束を諦め、目的を暗殺者の撃破に移行する。視界が確保された。黒鎧の手が顔面から外れたのだ。枝葉の隙間、輝く星が見えた。強引に立ち上がる。頭がくらくらする。激痛は全身からだ。
距離が開いた。磁力刃によって生じた斥力場が、黒鎧を弾き飛ばしたからだ。
「容赦ないわね」
軽口を叩くだけの余裕を見せながら、彼女は死というものを意識した。いつ以来だろうか。黒鎧の暗殺者が平然と立ち上がるのを見やりながら、それが死の形なのかもしれないとも思った。
生き残った兵士たちの姿はない。応援を呼びに行ったのだ。マリク=マジクさえ叩き起こすことができれば、黒鎧の殺戮は終わるだろう。彼女は、安堵とも絶望ともつかない気持ちを抱いた。
安堵は、王立親衛隊としての役目を果たせること。
絶望は、もう二度とセツナに会えなくなるということ。
(死ぬって、そういうことでしょ)
これまで数多の命を奪ってきたのだ。因果は廻り、自分の番がきたというだけのことだ。それ以上のことはない。運命などというつもりもない。
黒鎧の様子から、磁力刃による攻撃は一切通用していないことがわかる。別の召喚武装を呼び出す時間はない。呪文を唱え始めたら最後、黒鎧に殺されるだろう。せめて、すべての磁力刃を集めることができればいいのだが、それさえも時間が許しそうになかった。
磁力刀の刃片を前方に集め、斥力場の壁を作り出す。正面からの攻撃を凌ぐだけの壁。ふらつく思考ではこれが精一杯だった。左手で後頭部に触れる。生温い液体に触れる感覚。指先が傷口に入り込んだ。
不意に、黒鎧が吼えた。森が震撼し、黒鎧の姿が掻き消える。頭上。仰ぐ。いない。殺気は前方。見下ろす。黒鎧の拳がミリュウの目の前にあった。拳の生み出す風圧だけで、彼女は顔をわずかに逸らした。
拳は、止まっている。
ミリュウの顔面に触れる直前で止まったのだ。もし、黒鎧が拳を止めなければ、ミリュウは黒鎧の拳に顔面を貫かれて即死していただろう。
嫌な汗が吹き出すと同時に、黒鎧が攻撃を止めた理由がわからず、困惑する。
敵は、殺すべきだ。利用価値が無いのならば、生かしておく理由はない。セツナがミリュウを生かしたのは利用価値があると判断したからだろうし、ミリュウが黒鎧の拘束を試みたのも、なんらかの利用価値があると判断したからだ。たとえこちらのいうことを聞かなくとも、ガンディアにはウルという秘密兵器がある。彼女に支配させてしまえば、利用価値は無限に生まれる。
だが、黒鎧の場合はどうだ。黒鎧は、おそらく暗殺任務の遂行のためにこの野営地を訪れたはずであり、目撃者は殺す以外にはないはずだった。もちろん、すでに暗殺は見破られ、本陣にいるはずの要人たちは避難している。それでも、黒鎧ほどの力があれば、それなりの爪痕を残すことは出来るだろう。
たとえば、ミリュウひとり殺すだけでも、ガンディア軍には痛手となる。
黒鎧は拳を引くと、ミリュウに近づいてきた。ミリュウは磁力刃を黒鎧の背後に展開しながらも、もはや意味は無いと悟っていた。磁力刀と黒鎧との相性は最悪のようなのだ。
「なによ」
ミリュウは、顔を覗き込んできた相手に、それだけをいうのがやっとだった。
黒鎧の素顔は、見えない。全身、あますところなく装甲に覆われている。召喚武装の装甲。強固で、簡単に破壊できるものではない。斥力場による傷痕も見当たらない。弾くだけで精一杯というところのようだ。勝てるわけがない。
「さっさと殺しなさい。あんたのほうが上手だった。それだけのことよ」
諦めとともにつぶやいたとき、黒鎧はミリュウから離れると、磁力刃を軽く薙ぎ払った。そしてこちらに背を向け、森の中に消えた。
ミリュウはあまりのことに呆然として、見送ることしかできなかった。追いかけて攻撃を仕掛けることはおろか、磁力刃の警戒網を構築することさえ忘れた。
しばらくすると、マリク=マジクがやってきて、エレメンタルセブンによる遠距離攻撃を試みたようだが、黒鎧の能力によって防がれたということだった。
「防がれた?」
「うん。強いね」
「そうね。強いわ」
「死んでいてもおかしくなかったよ」
「いまにも死にそうよ」
皮肉ではなく言い返して、ミリュウは意識を失った。