第六百九十九話 呪い(前)
ウェイル川の戦いを終えたガンディア軍は、リネン平原を目指し、北西に進路を取った。進軍中も休憩中も、ウェイル川の戦いに於ける功の多寡が取り沙汰され、喧々諤々の議論に発展することも少なくはなかった。もっとも、そういった話題を口にするのは末端の兵士や傭兵たちであり、軍団長以上になると静かなものだった。報告書の作成や、つぎの戦いのことを考えなければならないから、というのもあるだろう。一方、末端の兵士や傭兵たちが戦功のことで議論を交わすのは、そうでもしないと恐怖を紛らわせることができないからかもしれない。
戦場は、常に生と死が隣り合わせだ。一歩間違えればだれだって死ぬ。一歩踏み込みそこねたことで一命を取り留めたものもいるだろうし、逆に、踏み込みすぎて死んだものもいるだろう。生と死をわけるのは、必ずしも実力ではない。経験が物を言うのは間違いないが、経験の豊富さを過信しても死ぬ。
油断こそ最大の敵だ。
などということを考えるのは、先の戦いの直後、敵の強襲によってレオンガンド・レイ=ガンディアが危機に晒されたからだ。もちろん、鉄壁の護衛に守られたレオンガンドが負傷するようなことはなかったものの、本陣深くまで敵に入られたのは、紛れも無く油断のせいだった。
(少し前まで、油断なんてしなかったのにな)
ぼんやりと夜の野営地を見やりながら、ミリュウはそんなことを考えていた。
ガンディア軍は、ウェイル川の戦場から北西の丘陵地帯に陣を張っている。本陣を中心に、正規軍、武装召喚師隊、傭兵団などの陣屋が配置されており、乱立する無数の天幕からならう野営地は、小さな町といってもいいほどの規模を誇った。
夜中。
真冬だというのに妙な暖かさが、ミリュウを包み込んでいる。空は明るく、星月の光も穏やかに想えた。思い過ごしかもしれない。が、そんなことがどうでもよくなるほど、冬の夜空を満喫できていた。
野営地の中心。本陣と呼ばれる領域に彼女はいる。たったひとりだが、彼女にはそれが性に合った。興味のない連中と群れるのは好きではなかった。得るものはなく、失うものだけがある。失うのはおそらくそういった連中へのわずかばかりの好意や思いやりといった感情であり、喪失してしまえば、今後の仕事がやりにくくなるかもしれない。個人的に問題がなくとも、隊としては問題が出てくるだろう。
孤独を愛しているわけではないが、戦功についてくだらない議論を戦わせている兵士たちの側には寄り付きたくもない。功の多寡になど興味もなかった。そういう意味では、本陣に身をおくことが出来るのは幸福だろう。本陣にいるのは国王を始めとするガンディアの首脳陣である。戦功の大小に頭を悩ませる必要のない人々ばかりだ。
そういう人々とは、無理に言葉を交わす必要もなかった。彼らは、彼女の立場というものをよく理解している。王立親衛隊《獅子の尾》隊士。噂によれば、《獅子の尾》隊長の愛人とされることもある。軍の上層部の人間が彼女をそんな目で見ることはないものの、末端の兵士たちや多くを知らない傭兵にはそう見えるものなのかもしれない。
(油断……か)
魔龍窟にいたころには考えたこともない言葉だ。油断をすれば死ぬのがあの地獄だった。いまの味方は一秒後の敵。そんな過酷な世界で、油断も隙も見せられるわけがなかった。それでも生き抜くことができたのは、ふたりの仲間がいたからだ。たったふたり。クルード=ファブルネイアとザイン=ヴリディア。ふたりは戦死してしまったが、彼らのことを忘れるようなことはないだろう。
魔龍窟の記憶とともに、死ぬまで抱き続けるのだ。
ミリュウは、近づいてくる足音に気づきながら、そちらを振り返りもせず、丘の麓を見下ろしていた。天幕の内から漏れていた光が、ひとつ、またひとつと消えていく。皆、眠りにつこうというのだろう。就寝時間はとっくに過ぎている。
「こんなところでなにをしている?」
「……見張りよ、見張り」
ミリュウは、相手を確認もせずに言い返した。相手は、ガンディアの軍師ナーレス=ラグナホルンだ。彼こそ、こんなところでなにをしているのだろう。疑問で返さなかったのは、彼と関係をこじらせるのは、彼女の最愛の人にとって迷惑でしかないからだ。
「警戒するなら、外を見張るべきだろう」
「あのね、あたしはただの兵士じゃないのよ。わかる?」
ようやく、ミリュウは背後に視線を注いだ。分厚い外套を着込んだ軍師が、仏頂面で突っ立っている。
それから、柄と鍔だけになってしまった剣を見せつける。
「ああ……召喚武装を使っているのか」
「疲れを残したくはないけど、この使い方にも慣れないといけないしね」
ミリュウの召喚武装は、刀身が砕け散ったように無数に分かれ、磁力のようなもので引き合うという特性を持っている。その特性を利用すれば、磁力の方陣を作り出すこともできるし、磁力の檻や警戒網を構築することも可能だった。そしていま、何百という刃片は、野営地の外周に配置され、長大な警戒線を張り巡らせていた。
「名無しの召喚武装だったな」
「命名、しないと駄目なんだけどね」
「そういうものなのか?」
「名は命。名は力。命名することで、召喚武装と召喚者の絆が深まる……らしいわ」
ミリュウが召喚武装に名付けないのは、相応しい名称が思いつかないからに過ぎない。別にこの召喚武装が気に入っていないというわけではなく、むしろ、彼女の手によく馴染んでいた。
「ほう。武装召喚術も面白そうだ」
「なんなら、教えてあげよっか? 軍師殿」
ミリュウが提案すると、彼は驚いたようだった。しばらく呆然としていたものの、すぐに表情を戻す。
「ふっ……やめておくさ」
「なんで? 軍師殿ならいい線いくとおもうけどな」
「そういってくれるのはありがたいが、武装召喚術の習得には時間がかかるものだろう? 熟達するには並大抵の努力では不可能と聞く」
「そうね。一朝一夕にはいかないわ」
だから、武装召喚術を学び始めるのは子供の頃がいいのだ。遅くとも十代前半がいい。体が出来上がる前から武装召喚術の知識を学び、ゆっくりと鍛えていくというのがリョハンのやり方らしい。魔龍窟は、リョハンとはまったく異なる、それこそ非効率的なやり方で強力な武装召喚師を作り上げようとし、半ば失敗し、半ば成功した。
失敗とは、最終的にたった五人しか生き残れなかったことであり、成功とは、そのたった五人がとてつもなく強力な武装召喚師となったからだ。だが、その五人のうち、四人が死んだ。生き残ったのは、ミリュウだけだ。
ナーレスは、そうだろう、とうなずいた。
「だからさ。なにぶん、わたしには時間がない」
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。死が迫っている」
「どうしてよ? メリルを不幸にしたら、許さないわよ」
ミリュウが険しい顔をすると、さすがの軍師もたじろいだようだった。まさかここで妻の名を出されるとは思わなかったに違いない。
「……そういえば、君はメリルと仲が良かったんだったな」
「十年前の話だけどね」
ミリュウは舌を出した。笑い話にしなければやっていられないほど、彼女との隔絶は大きかった。十年。幼い娘だったメリルは、立派な女性に成長していた。精神的にはミリュウよりもよほど大人であろう。
「彼女はいまでも君のことを慕っているよ」
「嬉しいな」
「嘘じゃない」
「ありがとう」
ミリュウは、視界が滲んでいることに気づいて、慌てて視線を逸らした。目に入ったゴミを取るような素振りで、涙を拭う。
「……それで、どういうことなのよ。死が迫っているって」
「いろいろあってな」
「いろいろじゃわからないわ」
「君に話すべきことじゃない」
「あっそうですか……いいわよ、もう」
「すまない」
ナーレスは謝ってきたが、謝られてもどうすることもできないのがもどかしかった。別に謝ってほしいわけではない。真実を知ったところで、きっとどうすることもできないのだ。彼には死期が迫っていて、だから、焦っているのかもしれない。
「メリルには、伝えているの?」
「ああ」
「あの子、あなたのことを愛しているわ。心の底から」
「ああ……わかっているよ」
「大切にしてあげてよ」
「ああ」
ナーレスの返答には実感が籠もっている。彼なら、メリルを幸せにしてくれるだろう。たとえ、ほんのわずかな時間でも、幸福の絶頂というものを与えてくれるはずだ。そのあとに永遠の別離が訪れたとしても、幸福の記憶はそう簡単には消え去ったりはしない。
(命……か)
ミリュウは、ナーレスに残された時間の短さと、自分の命の長さについて考えざるを得なかった。
『オリアス=リヴァイアについて知っていることといっても、通り一遍のことしか知らないわ。そもそも、オリアス自身については、あまり知らないもの。知っていることといえば、リヴァイア家のことよ。それでもいいの?』
そう前置きした上で、ファリア=バルディッシュは教えてくれたものだ。
『リヴァイア家は、聖皇六将のひとり、龍将レヴィアを祖とする家系よ。聖皇六将の例に漏れず、聖皇を裏切り、聖皇の死に関与したため、呪われたとされているわ』
聖皇六将とは、聖皇に付き従い、大陸統一事業に携わった六人の武将のことだ。だが、その六将が聖皇を裏切り、死に関わったというのは初耳であり、ミリュウだけでなく、その場にいただれもが驚愕していた。
『レヴィア――つまり、リヴァイア家の呪いとは、不老不死。といっても、全員が不死になるわけではないらしくて、ただひとり、血の継承者だけが無限に長く生き続けなければならないそうよ』
オリアンがあのとき、嘆いていた理由を垣間見、合点がいったものの、納得はできなかった。
『それがオリアス=リヴァイアだと、アズマリアはいっていたわ』