第六十九話 差し伸べる手
「やってくれるね」
クオンは、瞬時に理解した。
グラハムたちが屋敷に火を放ったのだ。騎士団長グラハム・ザン=ノーディスの私邸は、今や紅蓮の猛火に包まれつつあった。凄まじい炎の勢いは、この豪壮な邸宅を一夜にして灰燼に帰しかねない。盾の力によって肥大したクオンの感覚が、その絶望的ともいえる状況を冷ややかに把握していく。
騎士団員たちを邸内に大量に投入したのは、この策――などと呼べるものでもないが――があったからだろう。広いとはいえ、屋敷の中に所狭しと配置された人員は、その戦果を期待してのものではなかったのだ。
言うなれば、邸内に投入した騎士団員のひとりひとりが、クオンたちの脱出を阻む障害物なのだ。逃げ場のない空間である。交戦は避けられない。そして、その戦闘のすべてを一瞬で終わらせることができたとしても、それでいいという話ではない。そもそも、すべての敵を一刀の元に切り捨てられるはずもない。
クオンもスウィールも、敵を倒すような戦闘では役に立たない。邸内に投入された戦力を撃破しながら脱出するには、マナ、ウォルド、イリスの三人だけでは少々心許なかった。
(いや)
クオンは、胸中で頭を振った。相手がただの騎士団員ならば、勝算は十分にある。なんといっても、こちらは《白き盾》である。無敵の軍団、不敗の軍勢などと呼ばれる傭兵集団である。マナがスターダストを振るい、ウォルドがブラックファントムを叩きつければ、それだけでこの状況から抜け出せるに違いない。
哀れな騎士団員たちの屍を越えて、だ。
クオンは、またしても頭を振った。それではいけない。魂が叫び声を上げている。それでは駄目だ。
炎は、まだこの部屋に侵入してはいない。しかし、室外から流れ込んでくる熱気と煙が、世界を塗り替えようとしている。地獄のような光景、というのも言い過ぎではないだろう。紅蓮の猛火に包まれた屋敷の中、逃げ場はなく、いるのは敵対者だけ。しかし、だれも騒いではいない。悲鳴を上げるものも、悲嘆に暮れるものもいない。といって、予定通りという顔をしたものもいない。
騎士団員たちは、捨てられたのだ。
グラハムの冷酷な決断は、彼らの命をクオンたちもろとも焼き尽くすつもりなのだ。
それでも彼らが騎士団長への非難ひとつ口にしないのは、グラハムという男の本質を知っているからなのか、どうか。単純に、いまこんなところで文句をいっても仕方がないということかも知れず、グラハムの意見に同調しているからかもしれない。即ち、ここでクオンたちを始末しなければ、いずれベレルにとって大きな災いになるだろうという強迫観念にも等しい考えである。
その考えは必ずしも間違いとは言い切れない。だが、それは最初からわかっていたはずなのだ。傭兵など、契約期間中のみの関係だというのは、当然理解してしかるべき話だ。でなければ、傭兵という職業そのものが成り立たなくなる。傭兵とは、この戦火の絶えない大陸において一般的な職業といっていいのだ。
グラハムの考えは、その傭兵の在り方を否定するということに他ならない。もちろん、彼がクオンたちを抹殺するという結論を出したのは、《白き盾》の実力が他と比べて突出しているからというのもあるのだろうが。
クオンは、静かに嘆息を浮かべた。無敵すぎるのも考え物かもしれない。
「クオン様?」
「だいじょうぶだよ」
クオンは、マナに向かって軽く笑いかけた。濛々と立ちこめる煙と灼熱の渦が、彼女の顔から冷静さを失わせているように見えた。確かに冷静ではいられないだろう。団長であるクオンが命令を下していない以上、なんらかの行動を取ることもできないのだ。無論、盾の力が働いている以上、熱気は感じこそすれ、炎に焼かれるようなことはない。しかし、空気を奪われればどうしようもない。
騎士団員たちも恐るべきものではない。どれだけ悲壮な覚悟を決めようが、盾を掲げるクオンたちの敵ではなかった。
この空間に満ちた空気が焼き尽くされたときこそ、クオンたちの命数が尽きるのだ。
騎士団員たちを見遣る。室内には給仕姿の騎士団員が十数名と、室外から突入してきたのであろう甲冑姿の連中が無数にいた。彼らは、この轟然たる熱気の中で武器を構え、しかし攻撃することも適わず、こちらの様子を見守っていることしかできないという有様に絶望しているのかもしれなかった。
攻撃が無駄だというのはわかりきっているのだ。どれだけ力を込めて武器を叩きつけても、クオンたちには傷ひとつつかない。それどころか、突きつけた武器こそ刃こぼれし、使い物にならなくなっていくのだ。これではやりようがない。
クオンは、盾を頭上に掲げた。真円を描く純白の盾。《白き盾》の象徴にして、力の根源。彼がここに在る理由。彼のすべて。
「盾よ、謳え」
敵や仲間の視線が集中する中、彼は、盾の力を解き放った。純白の盾が鮮烈な輝きを発する。紅蓮の炎に曝された空間にあっても鮮やかで強烈な光は、瞬く間に世界を白く染め上げた。それは一瞬。鮮やかでありながらも柔らかさを失わない閃光が、邸内を照らしたのは一瞬の出来事に過ぎない。しかし、それだけで十分だった。
クオンは、なにが起こったのかわからず唖然とする一同の様子を認めて、満足げにうなずいた。彼らが理解できないのも当然だろう。盾の力でなにをしたのかなど、クオンにしかわからないことだ。いや、武装召喚術に精通しているものならば、正解に辿り着くこともあるかもしれない。が、少なくとも、マナもウォルドも感づいていない様子だった。視線で説明を求めてきている。
クオンが口を開こうとしたそのとき、騎士団員たちが突然気配を乱した。殺気がクオンたちに向かって飛来してくる。痺れを切らしたのかもしれない。
燃え盛る邸内。逃げ場はない。いや、彼らとしては逃げることも許されない。彼らは捨て駒である。捨て駒であり、《白き盾》の幹部たちを抹殺するために用いられた計略の一端を担っている。命を賭してでも、クオンたちの脱出を阻み、屋敷とともに焼き尽くされなければならない。それが嫌ならば、可及的速やかにクオンたちを殺害するしかなかった。
クオンたちを放置してここから脱出するという選択肢は、ない。彼らは騎士団の一員であろう。騎士団の支配者たるグラハムの目論見に背くということは、騎士団への背信行為であり、反逆であるともいえる。どのような仕打ちが待っているのかわかったものではない。
炎の中で焼け死ぬよりも惨たらしい結末が待っていないとも限らない。
ならば、いっそ――と、覚悟を決めたのだとしても何の不思議もなかった。無論、クオンにはその論理はわからなかったし、理解したいとも想わなかった。ただ、哀れだと想った。できるならば、彼らも救いたいと想っている、
「うおおおおおおお!」
獰猛な咆哮とともにクオンに向かって殺到してきたのは、甲冑を纏った騎士団員だった。熱気の中、甲冑の中は正に燃えるように熱くなっているに違いない。野太い声。男だろう。手にした大振りの剣を振り被り、クオンに叩きつけようとしていた。相手は、盾の力を知らないのかもしれなかった。
クオンは、気合とともに振り下ろされた剣の太刀筋に見とれながらも、その一閃が自分を切り裂くことはないという事実を知っているため、なんら反応を示さなかった。敵の刃が右肩に触れるのを見届けようともしない。むしろ、彼の行動が停滞していた室内の状況を一変させたことを喜んでいた。
騎士団員たちが、一斉に動きだしたのだ。給仕姿の連中も、武装した騎士団員たちも、クオンたちを包囲殲滅するための布陣を取ろうとする。広い空間。そのほぼ真ん中に集まったクオンたちを包囲するのは、必ずしも難しいことではない。
渦巻く猛火が、視界の端を赤々と彩っていた。あまり時間は無い。
重い金属音が、クオンの鼓膜を震わせた。騎士団員の剣が、クオンの肩に触れようとした瞬間、盾の力によって弾かれたのだ。兜の影に隠れているはずの騎士団員の目が、驚愕に見開かれたのが、なんとはなしにわかった。
他にもいくつか剣戟の音色が響いた。マナやウォルドたちが攻撃されたのだろうが、無傷に間違いなかった。
「やめましょう」
クオンは、目の前の男に向かって話しかけた。騎士団員はぎょっとしたようだったが、構わずに続ける。
「ご覧の通り、あなたがたの武器では、ぼくらを殺すことは愚か、傷つけることもできません。それは、理解できるでしょう?」
クオンは、騎士団員たちを見回した。給仕姿の騎士団員たちの素肌からは大量の汗が流れ落ちていた。発汗は体力を奪うものだが、その点に関してはもはや心配する必要はないだろう。盾の力に守られたクオンたちは、吹き荒れる熱風の中でも汗ひとつかいていなかった。
眼前の騎士団員は、盾の力に弾かれた剣を構えなおしている。聞く耳も持たないというつもりなのか、どうか。その剣先がわずかに震えているのは、この絶望的な状況が原因なのかもしれない。
「グラハム・ザン=ノーディスの目論見がぼくらの抹殺であるのだとしても、あなたたちではそれを果たすことができない。盾の加護がある限り、ぼくらは無敵なのだから」
「し、しかし、ここで足止めしておけば……!」
眼前の男の台詞に、クオンは、ただ微笑を浮かべた。
「確かに、それならぼくらを殺せるでしょうね。空気がなければ、人間は生きていくことができない。ですが、それはあなたがたの死をも意味します。命を捨てる覚悟はありますか?」
「覚悟なら、とっくにできている!」
「そうか。だが、そっちがその気なら俺たちだって黙ってはいられないんだぜ?」
そういったのは、ウォルドである。彼の獰猛なまなざしは、騎士団員を射竦めるには十分すぎたのかもしれない。ただの男の持つ眼ではない。百戦錬磨の戦士のみに許される眼光だった。
「そうですね。こんなところで焼け死ぬなんて、考えたくもありませんわ」
「クオンは、護る……!」
マナとイリスが、クオンの左右を守るように並んだ。ふたりの放つ殺気だけで、騎士団員たちの接近を防げそうなほどだった。彼女らも歴戦の猛者である。クオンなどより余程修羅場を潜り抜けてきたに違いなかった。
クオンは、スウィールがウォルドの背後で汗を拭っている様子を見遣ってから、目の前の男に視線を戻した。彼は、こちらの気配の変化にこそ驚いていた。ついさっきまで戦う素振りさえ見せなかった連中である、その変化はあまりにも大きく、ひとによっては腰を抜かしかねないものがあった。
「皆さんが命を賭してでもぼくたちの脱出を阻止するというのなら、それでも構いません。皆さんの屍を越えて脱出するだけです。ぼくたちは《白き盾》。不敗にして無敵の傭兵集団。この程度の状況、どうとでもなるんですよ」
クオンは、冷ややかに告げた。事実を通告したに過ぎない。盾の保護下にある以上、戦闘においてクオンたちが負けることはありえないのだ。そして、マナとウォルドが武装召喚術を行使し、イリスがその戦闘技能を発揮すれば、状況は一瞬で変化するだろう。辺りは瞬く間に血の海と化し、地獄というに相応しい光景へと激変するのだ。
その未来は、彼の本意ではないのだが。
騎士団員は、クオンの言動に気圧されたかのように黙り込んだ。渾身の一撃がまったく効果がなかったという事実が、クオンの言葉に重みを与えていた。さらに言えば、クオンたち《白き盾》が今日までに積み重ねてきた実績がそれを助長するのだ。そして、目の前で起きた現実を否定することは何者にもできない。
抗おうにも抗えないのだ。
グラハムの騙し討ちのような計略の中、彼らは覚悟を決めざるを得なかった。この火の海を脱したところで救いはなく、かといってクオンたちを殺すには決定的に火力が足りなかった。そして、グラハムはそうなることもわかっているに違いなかった。
彼らは、クオンたちが炎に焼かれ、死ぬまでの時間稼ぎとして消費される捨て駒に他ならなかった。死ぬことが求められている。彼らはその冷酷な事実を理解しながらも、グラハムの思惑を拒絶することはできなかった。
どのみち、ここで死ぬしかない。数の力で圧倒しようともクオンたちに傷ひとつ負わせることができないのだ。障害物となって、クオンたちが燃え盛る紅蓮の中で息絶えるのを待つしかなかった。
引くも地獄、進むも地獄。ならば進むしかない。といって、突き進んだところで刃が届くわけでもない。敵の脱出をわずかに邪魔することで精一杯なのだ。
どうしようもない。
救いなど見当たるはずもなかった。
だが、だからこそ、クオンは彼らに慈しみに満ちた視線を投げ掛けるのだ。猛然と渦巻く熱気の中、視界はゆらゆらと揺らめいている。が、炎が痛みを伴って全身を包み込むようなことはない。盾の力が、クオンたちへの炎の侵攻を妨げていた。つまるところ、屋敷を覆う猛火そのものは恐ろしくもなんともないのだ。
酸素を奪われることだけが恐ろしい。
クオンは、目の前の男の眼を見つめた。沈黙する男の瞳には、この状況でも余裕の表情を崩さないクオンたちの姿が映りこんでいるのだろう。
「一緒に、ここから逃げ出しませんか?」
「……!」
クオンの眼前の男が、唖然としたように口をぱくぱくとさせた。クオンの予想だにしない申し出に頭の中が真っ白にでもなったのかもしれない。確かに想像もつかない言葉だったかもしれない。実際その通りだろう。
「な、なにを言っている?」
「一緒に逃げ出す、だと!」
「笑わせるな! 一緒に逃げ出したところで、救われるのは貴様らだけではないか!」
「我々は誇り高きベレル王国騎士団の一員だぞ! ここで貴様らを見逃すなど、万死に値する!」
騎士団員たちが、口々に叫び声を上げてきた。しかし、その叫びの裏側に揺らめく感情は、怒りとも戸惑いともつかないものであり、クオンの申し出が必ずしも即座に拒絶されたわけではないことを告げているかのようだった。無論、本当に怒声を張り上げたものもいるのだろうが、大多数がそうではなかった。
この地獄のような惨状からいますぐでも逃げ出したい、というのは人間、いや、生命としての本能に近いのかもしれない。
「……騎士としての誇りを持っているようなお方なら、こんな姑息な手段は取らないとは想いますけれど」
そう独り言のように言ったのは、マナだ。騎士としての在り方になにかしら想うところでもあるのかもしれない。彼女は、かつて一国の方針を左右するほどの権勢を誇った名家の生まれであり、騎士の称号を持つようなものたちとの関わりも深かったのだ。その家もいまは没落し、彼女は、みずからの身を守るためだけに武装召喚術を学ばねばならなかったのだが。
マナの目は、冷ややかに輝いている。騎士団員たちに対して、いささかの同情も抱いていないようだった。むしろ交渉を失敗したがためにクオンたちを殺害しようとし、あまつさえ屋敷に火を放ち、部下をも巻き添えにしようとしているあの騎士団長への侮蔑をあらわにしていた。
そして、それに付き従わざるを得ないものたちも軽侮している。彼女だって、彼らが反論さえ許されない立場だということはわかっているはずだ。しかし、彼女にしてみれば、美しくない、ということだろう。
運命を享受し、未来を諦めるようなものを認めないのだ。
彼女自身がそうであるように。
「貴様、団長を愚弄するか!」
「あんたは、なにも感じないのか?」
激昂する男を一瞥したのは、ウォルド。彼の巨躯は、火影の中でより一層大きく見えた。まるで巨人のようだった。
「!」
「たかが一個の傭兵集団を支配できなかったからといって、安易に抹殺しようという男のやり方になんの疑問も抱かないのか?」
ウォルドは声を荒げた騎士団員に問いかけたものの、端から返答を期待してなどいないのは彼の態度から明白だった。彼にしてみれば、この猛火の中で騎士団員たちが何人死のうとも生き残ろうとも、どうでもいいことなのだろう。興味がないのだ。
彼は、己に与えられた使命を果たすことに全身全霊をかけている。それは例えば《白き盾》団長クオンの護衛であったり、一部隊の指揮であったりと状況によって様々に変化するが、ともかく彼は自分の任務を最優先に考える人物であり、そこに感傷の入り込む余地はなさそうだった。
先ほどの問いは、彼が主と仰ぐクオンの意を汲んでのものに違いなかった。
クオンは、騎士団員の激昂が収まったのを見計らって、口を開いた。炎の勢いは衰えていない。あまり時間的余裕はなかった。
「そもそもぼくらとの交渉や、それが不調に終わった場合の後始末に関して、イストリア国王陛下はご存知なのですか?」
「それは……」
騎士団員たちが、顔を見合わせたが、そこからクオンの求める答えが生まれるようなことはなかった。ただ時間を浪費している。命を消耗している、
これでは駄目だ、とクオンは結論を急いだ。とにかく、彼らの命も救いたいのだ。しかし、強引な手段を取ることはできない。盾を展開している以上、騎士団員による包囲網を突破するということもできないのだ。かといって、盾の力を解除することは、彼らを見放すと同意である。それもできない。
救える命は全部救う。
それがクオンの信条だった。
「だれもわからない、と。それなら、騎士団長殿に直接問い質しませんか?」
「なにを馬鹿な……!」
騎士団員が血相を変えるのは当然だっただろう。相手は騎士団長にして、ベレルの権力者なのだ。逆らうことさえできないというのに、問い質すなど、恐れ多いにもほどがある。数の力を頼みに問い質すことができたとして、その後が恐ろしい。どのような手段を以て報復してくるのかわかったものではない。
もっとも、長年騎士団長を務めているほどの男がそこまで器量の小さい人物だとは思えないし、その程度の人物ならばむしろ恐るるに足らないだろう。
「団長殿が恐ろしいというのなら、陛下に直接お伺いすればいい」
クオンは、極めて穏やかな調子で提案したのだが、その態度が彼らの逆鱗にでも触れてしまったようだった。
給仕姿の女が、手にした剣を閃かせた。
「それこそ馬鹿げている! 陛下が、一介の騎士団員如きに会ってくださるものか!」
「貴様は、我らを言葉で篭絡するつもりなのだろうが、そうはいかんぞ」
「そうだ……。貴様の口車に乗って一緒に脱出したときこそ、我らの終わりなのだ。屋敷を出た直後、切り捨てるのだろう? あの男のように!」
屋敷を焼く猛火の如き様相を帯びてきた騎士団員たちの怒声はもっともだと思いながらも、クオンは、軽く徒労感を覚えなくもなかった。意味のない問答を繰り返しているような気にさえなってくる。それはきっと、彼らが置かれた状況に大きな原因があるのだろうが。
正気では居られないのだ。
指揮官の姿はいつの間にか消え失せ、気づけば当たりは火の海だ。逃げ出そうにも、目の前には抹殺すべき対象がいて、それらは無敵の盾に守られている。それを放置し、ここから抜け出すなど、団長命令を放棄するのと同じであり、騎士団の一員である以上それだけは許されない。かといって、《白き盾》の鉄壁の防御を突破する方法もない。炎は、屋敷を包み込んでいく。
死が、忍び寄っている。
狂わざるを得ない。
クオンたちと炎の中で心中するだけが彼らに許された最後の手段だった。
だからこそ、クオンは、彼らに慈愛に満ちた視線を注ぐのだ。救われない未来しか用意されず、絶望に抗う方法すら見出せない哀れな魂たち。
手を差し伸べよう。
「そんなことはありえない。そんな手間をかけるくらいなら、いますぐ斬り捨ててでも脱出しますよ。少し考えれば、わかることでしょう?」
クオンは、優しげに微笑した。常軌を逸したこの状況にあって、彼らは冷静さを保ってなどいられないのだ。感情だけが、彼らの行動原理となっている。激情が、彼らの心理を支配している。
クオンが彼らの立場でもそうなっていたかもしれない。理不尽にも突きつけられた死という現実的な終わりを前に、理性など保っていられるものだろうか。
「……確かに」
クオンの言い分にうなずいたのは、たったひとりだ。百人以上はいるであろう騎士団員の中で、たったひとりだけだったのだ。しかしクオンは、その事実に落胆するよりも、ひとりでも冷静さを見失っていない人物がいたことに喜びとともに驚きを禁じ得なかった。
一同の視線が、声を発した人物に集中する。
男というのは、声でわかった。低くもよく通る声音だった。若い。とはいっても、クオンよりは年上に違いない。この場合、クオンが若過ぎるというべきなのだが。甲冑を着込んでいることから、後から投入されたのだと知れる。長身。どういう体格なのかまではわからないが、兜のバイザーを上げていることから、彼の顔つきはよくわかった。
秀麗、という言葉がよく似合う顔立ちをしていた。その瞳は、炎を反射してきらきらと輝きながら、まっすぐにクオンを見据えている。まるでこちらの真意を見抜こうとでもしているかのようだった。
(良いな……)
クオンは、その眼に強く見据えられながらも、不快に感じることはなかった。むしろ、ほかの騎士団員たちとは異なるまなざしに好印象を覚える。素晴らしいと想うのだ。この絶望的な状況下にあってなお己を見失わず、為すべきことを見極めようとしている。ただ上の命令に従っているだけではない。
無論、それも状況による。常ならば、兵士は上の命令に唯々諾々と従うほうが良い。
しかし今回、彼は死ねと命じられたようなものなのだ。傲然と、地獄に投げ入れられたのだ。異を唱えたくなる気持ちもわかるし、なんとかして生き残りたいと想うのも当然といえる。その方法を探すのは、生き物として正しいのだ。法に支配された騎士団の一員としてどうかはともかく。
彼は、クオンの眼を凝視したまま続けてきた。
「あなたの言う通りだ。現状を打ち破れる力を持っている以上、我々を騙す必然性がない」
「だ、騙されるな! 相手は敵だぞ。敵の言葉に惑わされてはいけない!」
「いや、彼らを信じてもいいと想う」
男は、彼を押し留めようとした騎士団員を一瞥した。その声音は怜悧そのものであり、この地獄のような光景の中にあって寒気を感じるほどの冷ややかさを伴っていた。クオンは、ますます彼に興味を持った。彼の涼やかな立ち居振る舞いは、ただの騎士団員として埋もれさせておくのは惜しいと思わせるほどのものがあった。もっとも、ベレル王国騎士団以上に華々しい舞台をクオン如きに用意できるはずもない。それに用意されたからといってどうなるものでもないだろう。
彼は、ベレル王国騎士団の一員であり、同時にベレル国民であるのだ。クオンたちとは違う。
そして、彼は同僚たちを見回した。騎士団員の多くは、怪訝な表情を浮かべている。彼の言動が理解できないのだ。当然だろう。彼らの意識は、狂乱の渦の中にある。理性的に考えることを放棄しているといってもいい。もちろん、彼らがみずからの意志でそうしたわけではない。追い詰められただけだ。
紅蓮の猛火によって。
男が、だれとはなしに言った。
「気づかないのか?」
「なに?」
「……この炎の中で、俺たちはなぜ無事でいられる? どうして、彼らのように突っ立っていられるんだ?」
「あ」
「それは……」
「え、ええ? どういうことだ?」
彼の問いかけに、動揺とも驚愕ともつかない反応が騎士団員たちの間に生まれた。確かに彼の言う通りだった。屋敷全体を包み込む猛火の中、渦巻く熱気は物凄まじい。なにもかもが燃え尽きようとしている。そんな中で平然と立っていられるのは、普通では考えられないことだ。
クオンは、こちらを直視する彼の理知的なまなざしに頬を緩めた。
「あなたがその盾の力で守ってくれているのでしょう? クオン=カミヤ」
「ぼくは、皆さんの命も救いたいんです。それはいけないことですか?」
それは、クオンの素直な気持ちだった。本心。救えるものはすべて救わなければならないという想いは、どこか強迫観念にも似ていたが、明らかに違うものだと彼は想っていた。
これはそう、使命なのだ。
救いを求めるものに愛の手を。
絶望には希望を。
闇には光を。
そのためにこの世に生を受けたのだと、彼は本気で信じていた。