第六百九十七話 サマラ樹林を越えよ(五)
「無事ですかああ!?」
マルーン=メディックが飛んできて、ルウファの落下を阻止してくれた。翼はもはや動かない。それどころか、大気を支配することすらできなくなっている。しばらくは戦えない。つまり、この戦いでの出番は終わったということだ。
前方、ファリア=バルディッシュがゆっくりと降下しているのがわかる。彼女の滞空時間の長さは、天流衣とかいう召喚武装の能力によるだったはずだ。手には閃刀・昴が握られている。敵陣の真っ只中。周囲の皇魔は、あまりの衝撃にファリア=バルディッシュを迎撃することさえ忘れてしまっている。
「ルウファちゃん、よく敵大将をここまで引きずり下ろしてくれたわね。助かったわ」
「結局、俺じゃあ倒せなかったんですが」
「あなたは与えられた任務を十全に果たしたわ」
「……それにしても、どうやってここまで?」
「カートちゃんが撃ち落とした皇魔を足場に飛び移ってきたのよ」
大召喚師は事も無げに言い放つと、実際に足元のウィレドを踏み台にして跳躍してみせた。そして、おもむろに閃刀・昴を振り抜く。剣閃は一筋。だが、斬撃は、太刀の軌道上に無数に発生した。彼女の周囲にいたウィレドが断末魔を上げて死んでいく。
「は?」
「へ?」
ルウファは、マルーンと顔を見合わせた。地上からこの高さまで、落下する皇魔を乗り移りながらやってきたという。常識外れというものではない。規格外にも程がある。もちろん、ルウファは、彼女がこちらに近づきつつあったのは知っていた。だからこそ、全力を出しきることができたのだ。戦女神の後援を期待できるのならば、すべてを出し切っても問題はないと踏んだ。だが、まさか仲間が撃ち落とした皇魔を足場にしているとは思いもしなかった。なんらかの召喚武装の能力によるものだと考えるのが普通だ。
「若いころは矢を足場にしたものだけれど、もう年ねえ……あの頃のようにはいかないわ」
周囲の皇魔をあらかた片付けたファリア=バルディッシュのつぶやきに、ルウファは絶句した。
「サマラ樹林南東に向かって、敵軍大将と思しき皇魔が落下中!」
伝令の報告が、先陣の各地に伝播されていく中で、シーラ・レーウェ=アバードは、自身の装備を確認した。軽装ながらもしっかりとした鎧と召喚武装ハートオブビースト。過度に装飾された斧槍は、指揮官として目立つ上でも役に立った。
シーラたちはいま、本陣のある丘とサマラ樹林のちょうど境界辺りに部隊を展開している。敵軍は、ほぼ真上にあり、大量の皇魔が上空を埋め尽くす様は、脅威を覚えざるを得ない。戦いこそすべてだと公言してはばからないシーラですら、震えた。
恐れと、喜びに。
「大召喚師様がやってくれたようだな!」
脳裏に浮かぶのは、柔らかな微笑を湛えた老女の姿だ。リョハンの戦女神の二つ名は、シーラもよく知っている。寡兵でヴァシュタリアの大軍を撃退したという逸話を持つ、英雄の中の英雄だ。そんな人物が味方になってくれているのだ。心強い、などというものではない。
負ける気がしなかった。
だから、シーラはこの戦いも最初から勝つ気でいたし、魔王が討てないとしても、連合軍の最終的な勝利を疑ってはいなかった。
「敵陣に乱れがないということは、生きている可能性が高そうですよ」
「地上に落としてくれたんだ。あとは俺達の仕事でしょう? それに、よく見てくださいよ」
シーラがセレネ=シドールに槍の切っ先で示したのは、敵群の高度が下がりつつあるという事実だった。敵陣に混乱が起きているのは間違いなさそうだった。その上、上空の敵陣から血の雨と無数の死体が降ってきているのもわかる。
「敵将が陣から離れただけでこれだ。つまり、大将さえ討てば、後はどうにでもなるってことだ」
シーラは、そう言い切ると、全軍の指揮を本陣に任せ、自分は武装召喚師小隊とともにサマラ樹林に突入した。
空が遠ざかっていく。
同胞が、配下のシフやネグルベフが、地上へと落下するベルクに対して指示を仰ごうとして、諦めるように天を睨んだ。咆哮が飛び交い、さまざまな攻撃が空を彩る。だが、密集した自陣内で全力の攻撃をしかけることはできない。敵を目の当たりにしたウィレドたちですら、その攻撃は控えめだった。当然だ。避けられれば、味方に当たってしまう。ただでさえ仲間意識の薄い連中だ。ちょっとしたことで同士討ちが始まりかねない。敵が突貫してきたのは、そういう狙いもあったのかもしれない。
落下中、彼が考えたのはそのようなことだ。そして、落下が止められないという事実にも愕然としている。
(俺たちは天の支配者じゃなかったのかよ)
胸中で毒づく。
翼が思うように動かなかった。召喚武装だけでなく、自前の飛膜さえも動かず、大気への干渉さえままならない。全力解放の反動だとすれば予想より早すぎるが、可能性としては皆無ではない。しかし、彼はそれが原因ではないことを身を以て理解していた。
ベルクは、致命的な一撃を叩きこまれていた。一瞬の隙を衝いた斬撃は、見事に彼の右腕を切り飛ばしただけでなく、胴、肩、左足、翼、飛膜をも切り裂いていた。そして、ダメ押しに叩きこまれた蹴撃が、彼の地上への落下を決定づけたようだった。
機能不全に陥ったのは、瀕死の重傷を負ったからにほかならない。セラフィックフェザーの十二対、全二十四枚の翼は未だ健在であり、限界が来たわけでも、消耗し尽くしたわけでもないことはめいはくだった。
意識が、召喚武装にまで回らなくなっていた。ただ、それだけのことだろう。
体が震えている。恐怖がある。死が背後に迫ってきているのだ。瀕死の重傷を負ったという事実を否定することはできない。死を回避するには、この戦いを早急に終わらせ、傷を癒やすほかない。
(無理だな)
彼は、サマラ樹林の木々の真上で、ようやくセラフィックフェザーの能力を行使した。大気を制圧し、滞空する。風圧に木々が揺れ、ざわめきが鼓膜を震わせる。
(俺は死ぬ)
震えが、止まらない。
右腕の切り口から止めどなく血が流れ落ちている。暗紅色の体を濡らす赤黒い血。人間と変わらぬ血液の色は、同じ生物であることを示しているかのようではある。が、そんなことはどうでもいい。綺麗な切り口だった。思わず見とれてしまうほどの切断面は、敵の技量を示している。
斬撃は一度。だが、切られたのは六ケ所。ファリア=バルディッシュの閃刀・昴の能力に違いない。オリアス=リヴァイアによれば、当代最高峰の武装召喚師であるという。連合軍で注意するべき戦力として、黒き矛以外に挙げられた人物でもあった。そんな人物が相手なのだ。
相手が、悪すぎた。
(まったく、運が悪いねえ、俺は)
オリアスに見出されてしまったのが、すべてなのかもしれない。
彼に見出されず、魔王軍魔天衆の一ウィレドとして従軍していれば、こうはならなかったかもしれない。
(その場合はとっくに死んでいたかもしれないけどさ)
この戦争が始まって今日に至るまで、既に何百もの同胞が死んでいる。ベルクを恨みながら死んでいったものもいるだろうし、魔王に従うからだ、とでも思いながら命を落としたものもいるだろう。人間への憎悪を膨張させたものもいたかもしれない。
様々な死に様が、このクルセルクの大地に刻まれたことだろう。ウィレドだけではない。シフも、ベスレアも、ネグルベフも、魔天衆以外の皇魔も、人間も、数えきれないほど死んでいる。この大地には死が溢れ、死で溢れている。
いまも、死んでいるものたちがいる。多くは皇魔だ。上空に展開する護正方陣は、人間たちの独壇場となりつつあった。命令しようにも、ここからでは届かない。部下たちもそれがわかっているのだろう。こちらの意志とは無関係に、滞空高度を下げ始めていた。
敵の通常兵器による攻撃が、下層部の皇魔に届くほどの高度。それは、こちらの攻撃が敵陣に降り注ぐということでもあるのだが。
(……まったく)
二十四枚の翼を思い切り広げ、すべての力を解放する。
輝く風が、周囲の木々を薙ぎ倒し、土も草も巻き上げ、敵陣への視界を確保した。地上、サマラ樹林を突き進む敵部隊の存在を感知したのだ。彼は、それらを撃破し、さらに敵本陣への突撃を考えていた。敵本陣さえ潰せば、あとはどうとでもなる。自陣に戻っている時間はない。
(ルウファ・ゼノン=バルガザールか)
あの白い翼の武装召喚師が奥の手と思しきものを使ってきたのがまずかった。あれさえなければ、通常のセラフィックフェザーで乗り切れたはずだ。倒せたはずだ。勝てたはずだ。そして、あのとき、ルウファたちを倒すことができていれば、敵本陣を上空から攻撃し、敵軍を敗走させることに成功していただろう。
(まったく、ついてないねえ)
彼と出遭いさえしなければ、死なずに済んだかもしれない。
だが、遭遇し、戦闘してしまった。それが現実であり、現状なのだ。
セラフィックフェザーの生み出す輝く暴風が、なにもかもを吹き飛ばしていく。樹林は更地になり、さらに整地されていくかのようであった。木々は根こそぎ吹き飛んでいき、草花も動物も天に飛ばされていく。前方から迫り来る敵小隊も、この暴風には抗えないはずだ。
ベルクは前進しながら、前方の敵を見ていた。
敵小隊。騎兵である。数人。たった数人の人間だ。通常戦力ならば話にならない相手だが、武装召喚師ならば話は別だったし、武装召喚師以外をぶつけてくるわけがなかった。敵も愚かではない。地に落とされたベルクが、魔天衆の総大将であると認識し、主力を差し向けてきたのだ。
前方、男が掲げた大斧で地面を殴りつけた。大地に煌めきが走り、進路上に氷の壁が作り出される。巨大な氷壁は、輝く暴風を遮る防壁かと思われた。
(そんな壁じゃあ、俺を遮ることはできないぜ)
ベルクは、暴風を前方に集中させると、氷壁ごと敵小隊を蹴散らそうと考えた。そして、そのまま敵陣を蹂躙し、小高い丘そのものを破壊しようと思った。残る力を使いきれば不可能ではない。
瞬間。
「うおらああああああああ!」
殺気が、頭上から降ってきた。氷壁によってベルクの暴風圏を飛び越えた敵騎兵が、馬ごと飛びかかってきたのだ。
仰いだとき、槍の切っ先が陽の光を反射するのが見えた。槍が頭蓋に触れる瞬間、彼は、残る力を解放した。
だが、彼がその結果を見届けることはなかった。
暴風がすべてを吹き飛ばすよりも、槍の穂先が彼の脳髄を貫くほうが速かったからだ。