第六百九十六話 サマラ樹林を越えよ(四)
「これはどうもご丁寧に。俺はルウファ・ゼノン=バルガザール。ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》副長であり、ガンディアの宮廷召喚師。そして、反クルセルク連合軍アバード軍強襲飛行小隊長でもある」
ルウファが告げると、ベルクは赤い目を細めた。醜悪な化け物とは思えないような表情には、つい引きこまれてしまいそうになる。
「……なんというか、随分と面倒なこって」
「人間社会って面倒くさいものさ」
「だったら、皇魔社会のほうが気楽だなあ。といっても、皇魔の社会も種族によってそれぞれ異なるけどさ」
「へえ」
ルウファは、相槌を打ちながら右手を掲げた。凝縮した空気の塊がベルクの顔面に殺到する。が、たやすくかわされ、ベルクの背後のウィレドを弾き飛ばしただけだった。
「ひゅー、危ない危ない。問答無用ってわけかい?」
「俺の任務はあんたを潰すことだ」
「ほう。俺を潰して、指揮系統を破壊すると、いうことか。考えることは同じだなあ」
(つまり、あいつはこのまま本陣を落とすつもりでいた、ということか)
ルウファは、下方を一瞥して、焦りを覚えた。空中を移動する立方体は、既にサマラ樹林の南部に到達しようとしている。このままでは本陣に辿り着くのも時間の問題だった。だが、本陣に近づいたことで、一部の攻撃が敵陣に届くようになってもいた。サラン=キルクレイドの矢が、シフを数体巻き込んで貫いたのが見えた。
遠隔攻撃部隊が、麓からでは攻撃が届かないと判断して、丘の上に移動していたようだった。カート=タリスマの攻撃も立方体の下層部に命中し始めている。だが、それではルウファたちへの援護にはならない。
そう、思ったのだが。
(あれは……?)
ルウファは、視界にありえざるものが飛び込んできた気がして、首を横に振った。同時に、後退する。光を帯びたベルクの右腕が、眼前の虚空を薙いだ。
「どこを見ている? 随分余裕じゃないか」
「余裕なんてないさ」
「そうかい。だったら目の前の敵に集中しなよ。じゃないと、死ぬぜ?」
忠告とともに二対の白翼が輝きを帯びる。攻撃が来る。
「そうだな」
(そんなことはいわれなくてもわかってる)
シルフィードフェザーを前面に展開した瞬間、猛烈な衝撃がルウファを襲った。白翼の盾を展開したまま、後方に押し流されるのがわかる。だが、陣形の中枢に赴く必要がなくなったいま、陣形の外まで後退するという選択肢もなくはなかった。わざわざ指揮官が出てきてくれたのだ。指揮官不在の敵本陣に乗り込む必要はない。ウィレドの一斉攻撃がルウファの前面に集中しているのがわかる。このままでは翼ごと破壊されるのが落ちだが、かといって防御を解くこともできない。
「翼は盾にもなるか!」
「もちろん、攻撃にも使えるぜ。ベルベットォォッスクリィィィィムッ!」
サデュー=シンディの絶叫とともに、大気が悲鳴を上げた。猛烈な旋風がルウファの周囲に吹き荒れ、ウィレドの光弾を逸らし、ウィレドそのものを跳ね飛ばしていく。攻撃力は低いものの、圧倒的な制圧力は並の召喚武装とは思えないほどのものだ。翼を開き、視界を確保したとき、ルウファとベルクの間を群青の翼が視界を横切って行くのが見えた。召喚武装を手にしたウィレドがサデューを連行していったのだ。マルーンとルカの援護がないのもそのためだろう。
間合いが広がってしまっている。が、なんのことはない。ベルクがこちらに向かって飛翔してきたこともあって、ルウファは後退すればよかった。下方、地上に近づきながら、翼を羽ばたかせる。風弾と羽の弾丸を同時に飛ばす。
「こうするのか?」
ベルクが白く輝く翼を全開にした。無数の羽が弾丸となって発射され、ルウファの眼前に弾幕を形成する。こちらの羽弾と風弾のいくつかが弾幕を削るものの、根本的な解決にはならない。ルウファは、迫り来る無数の羽弾を見つめながら、唇を噛んだ。ここまできたら出し惜しみの必要はない。
「シルフィードフェザー・オーバードライブ」
ルウファがつぶやいた瞬間、シルフィードフェザーの全能力が解放された。翼が無数に分裂し、増殖し、増大する。一対の翼ではなく、十二枚の翼がルウファの背に生えた。同時にシルフィードフェザーの支配力が高まり、前方に分厚い大気の壁が構築される。大気の障壁は、ベルクの羽弾のほとんどを受け止めて見せると、即座に撃ち返した。返し矢がベルクの全身をずたずたに引き裂くが、ベルクはむしろ面白そうに笑った。同時に、こちらとの間合いを詰めようと飛びかかってきている。
「そういうのは、最初から使うべきだったな……!」
「そういうわけにはいかないんだよ!」
ベルクの輝く両手と二対の翼を睨みながら、ルウファは叫び返した。十分、下降している。この高度ならば、もう逃げる必要はない。あとは攻撃に転じるのみだ。
(全能力解放はもって一分……!)
制限時間が経過すれば、その途端、シルフィードフェザーの全能力が激減する。回復するまで空を飛ぶことさえできなくなるだろう。全能力解放は、負担と消耗の激しい能力であり、奥の手中の奥の手といってもよかった。とはいえ、この能力を使えるようになったのは、クルセルク戦争の直前である。理論は完成していたのだが、実際に駆使することができたのは最近だった。そして、理論以上の力をルウファにもたらしたが、予想以上に消耗が激しく、戦闘では使いものにならないと判断せざるを得なかったのだ。だから、使えなかった。
(だが、いまは違う!)
ルウファは、シルフィードフェザーの十二枚の翼を最大限に展開した。羽の一枚一枚が力を帯び、光を発し、無数の巨大な翼を形成している。いままでにない万能感がルウファの意識を塗り潰していく。否応なく高まる感情。昂揚する想いを止められない。天空の支配者にでもなってしまったかのような錯覚とともに、迫り来る悪魔にすべての力を叩き込む。
最大風力と羽弾、そして翼による斬撃がベルクに襲いかかった。
「なるほど、こうすればいいんだな」
瞬間、二対の翼が二十四枚の翼を作り出し、ルウファの攻撃をすべて、遮断した。大気の支配権がベルクに移行したのだ。
「セラフィックフェザー・オーバードライブとでも名付けようか」
「ふざけろ」
「術式の構成を読み取るのは難しいことじゃない。あんたが術式に施した細工もな」
一対の悪魔の翼と十二対の天使の翼を広げた皇魔は、至極当然のようにいってきた。呪文を聞いたり、術式の展開を見ることで構成を読み取るのはわからなくはない。術式とは呪文そのものでもあるからだ。しかし、召喚武装から術式を読み取ることなど不可能に近い。少なくとも、人間に真似のできることではなかった。
ルウファは愕然としながら、ベルクの攻撃をかわした。風圧による追撃も、翼の盾で防ぎきる。羽弾も、風圧砲も、翼を前方に展開すれば自分を守り切ることは不可能ではなかった。だが、それでは攻勢に移ることができなくなる。ルウファは焦りを覚えた。時間がない。少しでもベルクの体力を削り、勝利に貢献したいという想いがある。
ベルクの攻撃が止んだ。羽弾を発射しながら翼を開き、視界を確保する。ベルクの手が、目の前にあった。手には無数の羽弾が突き刺さり、血まみれになっていた。いや、血まみれなのは手だけではない。全身に羽の弾丸を受け、暗紅色の外皮から血を流している。
ベルクの手が、ルウファの首を掴んだ。
「自分の血を流すのは怖くないんだ」
ベルクがそういってきたとき、ルウファの六対の翼のうち、十枚の翼が無数の羽になって散った。全能力解放の限界がきたのだ。
「時間切れのようだな」
「あんたもすぐに切れるさ」
「残念だが、俺のは五分は持つ。そして、残り四分もあれば、あんたら四人を全滅させることは難しくない。四人の中であんたが一番強いからな」
ベルクの言葉に嘘はなさそうだった。召喚武装そのものが違う以上、同じような細工を施しても結果が異なるというのは往々にしてあることだ。
「そいつはどうも……だが、俺たち四人だけを見ているから、足元を掬われるのさ」
「じきに本陣上空に到達する。総攻撃で本陣は落ちる。本陣が落ちれば、軍は瓦解する。そういうものだろう?」
ベルクの声は穏やかだ。首を掴む手に力を込めれば、それだけで勝利することを確信しているからなのか、元々の気性なのかはわからない。
「本陣が落ちれば壊乱し、総大将が死ねば混乱する。確かに軍隊っていうのは、そういうものだろうさ」
「だから、あなたは死ななければならないの」
冷徹な老女の声とともに、剣閃が走った。ベルクの右腕が切り飛ばされ、ルウファの体は自由落下を始める。そのとき、さらに五つの剣閃がベルクの体や翼を切り裂くのを目撃する。さらに老女の蹴撃がベルクの胸に突き刺さり、悪魔の巨体を地上へと叩き落とさんとした。
ファリア=バルディッシュだ。