第六百九十五話 サマラ樹林を越えよ(三)
朝焼けとともに敵が動き出すのはわかりきっていた。
だからこそ、昨日のうちに陣形を整えておいたのだ。目が覚めてから陣形を構築していたのでは、間に合わなかったかもしれない。もちろん、陣形のまま休眠することなど、さすがの皇魔でも不可能だ。ウィレドもシフも、ネグルベフもベスレアも、地上に降りて、休息しなければならなかった。
当然、サマラ樹林に降り立ったわけではない。樹林は、身を隠す場所こそいくらでもあるものの、夜襲の危険性があった。いや、夜襲そのものは怖くはない。焼き討ちされる可能性がある。皇魔は、人間やこの世界に生きる動物よりも強力な生命体だ。だが、炎に巻かれればそれらの動物と同じように苦しみ、死ぬ。ましてや炎に包まれれば、生き延びられるはずもない。
炎そのものに強い耐性を持つ生物もいるだろうが、ウィレドを始め魔天衆に属する皇魔は、炎に強いというわけではない。
そういう理由もあって、魔天衆は、サマラ樹林の北部で羽を休めた。
目覚めとともに陣形を整え、サマラ樹林上空を南下し始めている。その間、指揮系統の頂点に立つ魔天将ベルクが発する言葉のひとつひとつが、魔天衆の皇魔たちの行動を制御していた。一切の乱れが生じなかった。不平不満もなく、すべての皇魔が魔王ユベルへの忠誠を誓っている。
魔王ユベルの制御下にある限り、無駄な殺戮は不要となる。
その点では、魔王による支配も捨てたものではない、と彼は考えている。彼は人間のみならず、他種族を手に掛けることを嫌った。もちろん、同族殺しなど以ての外だったし、大君による粛清も押し留めさせるほど、血を見るのが嫌いだった。
大君は、生命の本質は闘争にある、と宣っているが、彼には、どうしても納得出来ないのだ。雲のように空を流れ、山河を見下ろし、花を愛でる――そのような生命があったとしても、良いのではないか。
ベルクは常日頃考えている。だが、人間と皇魔の共存がありえないという事実も認識している。所詮絵空事だ。魔王の能力の上に築かれた空中楼閣にすぎない。そんなもの、魔王が死ねばあっという間に崩れ去ってしまうだろう。人間も皇魔も、本能的に互いを嫌い合っている。憎み合っている。
(五百年)
譲歩し、理解し合おうとするには、あまりに長い間、殺戮の歴史を積み上げてきてしまっている。
彼も、みずからの手を汚さなければならないときがきていた。
彼が立案した戦術陣形・護正方陣の先陣に敵飛行部隊が食らいついたのだ。彼の目は、敵の姿を明確に捉えている。召喚武装の恩恵だ。それによって、彼の視界は否応なく広がり、聴覚も限りない精度を得た。
翼を生やした人間が四人、シフの群れを蹴散らしながら護正方陣に穴を開けていく。地上からの攻撃も、護正方陣の下層部に直撃しはじめている。
「全軍、高度を上げよ!」
ベルクは、護正方陣の滞空高度を上昇させるとともに、供回りのウィレド四体に目配せした。護正方陣の乱れの小ささが、敵の対空攻撃手段の少なさを明確にしている。陣に纏わりついた連中さえ叩き落とせば、こちらは労せずして敵本陣に接近することができる。
敵本陣を落とし、指揮系統を破壊する。そうすれば、これまでの戦いがそうであったように、敵軍はおのずと瓦解を始めるだろう。
無駄に血を流さずに済む、ということだ。
「踊れよ大気、唸れよ天空! ブルーショックウェェェェェィブ!」
群青の翼を羽ばたかせるサデュー=シンディの周囲に、無数の小さな竜巻が生まれた。小さな竜巻は、うなりを上げながら大きく旋回し、彼に殺到したシフの群れをでたらめに切り刻み、血飛沫と悲鳴をあげさせる。前方に大きな空隙が生まれた。そこへ真紅の翼が突貫する。マルーン=メディックだ。
「どりゃあああああああああ!」
温和でのほほんとした女性という普段の印象からは考えられないような雄叫びとともに、彼女は拳を斜めに突き上げた。紅い渦のようなものがマルーンを包みこみ、前方で壁を作ったシフの胴体を打ち砕き、後方から迫ってきたウィレドの頭蓋を粉砕した。さらに繰り出した蹴りが、ウィレドへの牽制となった。ふたりが敵陣に抉じ開けた血路を通り、立方体の中枢を目指す。総大将ならば、中心か後方にいるのが常識というものだ。
皇魔は、常識に囚われているはずだ。
シフの層を抜けると、ウィレドの層に到達する。ウィレドだけでも凄まじい数だ。ベスレアとネグルベフは見当たらないが、こちらに向かってきているのは確かだ。そして、陣形そのものが上昇を始めていることに気づいた。ルウファたちも陣形に合わせて飛行しているため、すぐにはわからなかったのだ。
地上からの援護は、もはや期待できない。だが、そんなことは最初からわかりきっていたことだ。覚悟もしている。
「大いなる守護者よ、天より降りて、我が前に立ち塞がりし愚者どもに制裁を加えよ……!」
後方から、呪文の詠唱のような声が聞こえてきたと思った瞬間、ルウファの前方で大気が爆ぜた。指向性の衝撃波が、絵に描いたような悪魔の群れを薙ぎ倒し、吹き飛ばす。ルカ=ファードの召喚武装の能力だ。それによって、さらに敵陣中枢への道が開けた。その空隙を突き進んでくる影があった。ウィレドが四体。それぞれが得物を手にしている。
(召喚武装か!)
一体が吼えると、その進路上のウィレドが一斉に動いた。それぞれが両手をルウファたちに向けてくる。手の先に光の塊が生まれた。
「来るぞ!」
ルウファは、シルフィードフェザーの飛行速度を全開にして、血路の中を突っ切ろうとした。数多のウィレドが放つ光線の中を掻い潜り、四体のウィレドの連続攻撃をかわしていく。左腕に衝撃が走った。衝撃は瞬時に激痛となる。左手が動かない。骨が折れたらしい。が、その程度で済んで良かったと考えなおす。腕が吹き飛んでいてもおかしくはない。
「ライトブルーエクストリィィィィィム!」
「こんにゃろおおおおおおおお!」
「最愛なる守護天使よ、我が前に現れ、残酷な運命に立ち向かう力を与え給え……」
後方から聞こえてくる戦闘音を無視するように、彼は前方に意識を集中した。
(最悪、誰かは死ぬさ)
そんなことは最初から織り込み済みだ。だが、生還することができれば、他では得ることのできない賞賛が待っている。彼らにとってはこれ以上にないものだろう。仕官先も選び放題だ。
(死んだらおしまいだけどね)
三人が開いた血路は、既に閉ざされている。目の前を閉ざすのは悪魔たちの集団であり、掲げられた両手に灯る光が、ルウファの運命を暗示しているかのようだ。いや、死の運命をもたらすのは前方の悪魔だけではない。
背に冷たいものを感じて、ルウファは、翼を展開しながら後ろを振り返った。瞬時に硬質化したシルイードフェザーの翼が、ウィレドの曲刀を受け止める。羽が散り、視界を彩った。
ウィレドの悪魔めいた醜悪な容貌が、驚愕に染まっていた。
「遅い」
右手をウィレドの隙だらけの腹に押し当て、風力を解き放つ。凄まじい衝撃がウィレドの内臓を破壊する。背後――つまり進行方向から発射された光弾のいくつかがルウファの体を掠めるころには、ウィレドは召喚武装の曲刀を手から落とし、そのまま落下していった。
視界に味方武装召喚師たちの姿が見当たらないものの、だれも脱落していないのはわかる。三人が三人とも、個性的な掛け声とともに敵陣を蹂躙しているからだ。召喚武装持ちのウィレドと戦っている最中かもしれない。
「人間というのは不便なものだねえ。召喚武装で翼を作らないと空を飛ぶこともできないんだからさ」
背後からの声にぎょっとしたのは、その殺意のなさや飾らなさのせいではない。皇魔が、あまりに流暢に大陸共通言語を操っていたからだ。
「作りが違うんでね、仕方がないさ」
振り返ると、やはり皇魔だった。ウィレド。単純に天魔とも呼ばれている。天を我が物顔で支配する皇魔である。伝説上の悪魔を思わせる姿形は、ウィレドをして皇魔の一般的な印象を決定づけたといわれるほどであり、人間が一番最初に接触した皇魔がウィレドだったことが、人間と皇魔の絶対的な隔絶を生んだのではないか、といわれることもあった。
暗紅色の外皮に醜い容貌、眼孔からは赤い光が漏れている。人間のような四肢を持ち、一対の翼は蝙蝠を連想させた。飛膜であり、シルフィードフェザーのような翼とは大きく違うものだ。もし、ウィレドの飛膜がシルフィードフェザーと同質のものであったとしても、彼らの醜悪さを覆すことはできないだろう。もっとも、皇魔が美貌を誇っていたとしても人間には受け入れがたいということは、リュウディースやリュウフブスの例を考えればわかることだ。
ただ、目の前のウィレドは、他のウィレドとは異彩を放つものがあった。彼からは、皇魔特有の嫌悪感を覚えないのだ。人間は、皇魔と対峙したとき、どうしようもない不快感や嫌悪感に苛まれるものだ。人間の魂の奥底に刻まれた根源的な恐怖が呼び起こされているとでもいうような現象であり、それはどれほどの視線をくぐり抜けたもので拭いきれるものではないらしい。
それを感じないことは、不思議としかいいようがなかった。
「俺はベルク。この魔王軍空中機動軍魔天衆を預かっているものさ」
目の前のウィレドは、そう名乗ると、本来の黒い飛膜と二対の純白の翼を広げてみせてきたのだった。