第六百九十四話 サマラ樹林を越えよ(二)
(夜襲の可能性はない)
アレグリア=シーンは、闇の中で、孤独に震えながら考える。本陣に設けられた天幕の中、彼女は独りだった。だが、その孤独な寂しさと恐怖が、彼女に知恵を湧かせるものであり、だからこそ彼女は、ひとりになって戦術を練った。
ひとがいれば、つい頼ってしまう。アレグリアは自分が勇敢ではないことを知っている。力もなく、戦場に立つ勇気もない。血を見れば卒倒しそうになるし、戦いの前など、震えが止まらなかった。いまでも、この場から逃げ出したちという想いが強い。
自分に参謀など務まるはずがない――ナーレス=ラグナホルン直々に参謀局に誘われたときも、彼女はそういって断ったのだ。しかし、ナーレスの根強い働きかけと周りからの勧めもあって、参謀局への転属を受け入れ、彼女には第二室長という肩書が与えられた。
もっとも、軍団長から参謀局室長に肩書が変わったからといって、彼女にかかる重責に大きな変化はない。軍団長のほうが責任は大きいと思われがちだが、戦術を立案するという役割である以上、作戦の成否、損害の多寡に関わることに違いはないのだ。軍団員の面倒を見なくていいという意味では、参謀局室長のほうが彼女には合っていたのだが。
参謀局室長ならば、意図的に孤独を作り出すことができる。戦術を考えるといって、天幕に籠もることができるのは、参謀局の人間ならではの特典といってもいいかもしれない。
(敵がゼノキス要塞を発したのは一月三十日。休まず飛び続けているわけがない。必ず行軍を停止し、休んでいる)
皇魔も、人間や他の動植物と同じ生物だ。ただ発生した世界が異なるというだけで、本質に違いはないはずだった。皇魔も、人間と同じように食事をし、排泄を行い、睡眠を取るということは判明している。他の動物のように夜行性の皇魔もいないわけではないが、圧倒的に少ないといわれている。特に飛行型の皇魔にはいないとされており、その説が正しければ、アバード軍が接触する予定の皇魔の群れは、いま休眠中であるはずだった。
(物見に立った武装召喚師からの報告もない。だいじょうぶ。なんの問題もない)
問題があるとすれば、彼女の戦術が通用するかどうかだ。
アレグリア=シーンが参謀局に招かれたのは、彼女の戦術報告書が軍師ナーレスに目に止まったからだ。ナグラシアでの戦術を駆使した戦いが評価されたわけだが、臆病者の彼女にしてみれば、自分が戦場に立たずに済む作戦を実行しただけであり、決して褒められるようなものではないと思っていたのだが、評価されたというのならばそれを受け入れるだけだ。
戦術。
地形を考える。本陣は、丘の上に設けた。本陣を中心に部隊配置を決め、丘の上方に弓兵を集めている。今回の戦闘の要となるのが、弓兵をはじめとする遠距離攻撃手段だ。同じく、遠距離攻撃手段を持っている武装召喚師も、主戦力となる。あとは飛行能力を有した武装召喚師だが、その数は極めて少ない。
戦場は、丘の麓から北に広がるサマラ樹林、その上空となる。しかし、アバード軍の保有戦力では、上空の敵戦力を殲滅することは不可能に近い。上空からの攻撃で蹂躙され、逆に殲滅させられるだけだろう。だから彼女はルウファにすべてを託した。
ルウファ・ゼノン=バルガザール。王立親衛隊《獅子の尾》の副長にして宮廷召喚師である彼の召喚武装シルフィードフェザーは空中戦を得意としている。
彼を使い、敵軍の指揮系統を破壊する。
アレグリアは、闇の中で虚空を見据えた。脳裏に戦場の風景が浮かんで、消える。どれだけの味方が死ぬだろう。考えるだけで恐怖が走り、動悸が収まらなかった。
朝靄とともにアバード軍は動き出した。
そのときには既に北の空が騒がしくなっていたこともあり、ルウファは、アバード軍首脳陣全員と挨拶をかわす間もなく本陣を出ていた。
『無理だけはしないでくださいね』
出撃前、エミル=リジルのかけてくれた言葉が一番嬉しかった。そして、ルウファがアバード軍行きを命じられたとき、彼女の同行を許可してくれた隊長にも改めて感謝した。エミルが側にいてくれるということがどれだけ力になったかわからない。多少の無茶をしても、彼女が診てくれるだろうという安心感はなにものにも代えがたいものがあった。
黎明の空。東の彼方から朝日が登りつつある。大気は冷え込み、息は白い。真冬の早朝。寒いのは当然だった。ルウファは軽装の鎧を身に纏い、その上からシルフィードフェザーを羽織っており、防寒性も低くはない。
本陣のある丘の上から麓まで降り、ファリア=バルディッシュ、カート=タリスマと合流する。《協会》の武装召喚師たちも勢揃いしていた。翼系の召喚武装を装着したものが三人、弓系の召喚武装を手にしたものが五名いた。ファリア=バルディッシュは愛用の召喚武装、閃刀・昴を腰に帯びており、カート=タリスマは巨大な弓銃を携えている。
「準備万端といった様子ね、ルウファちゃん」
「大召喚師様こそ」
「援護は任せてもらうわ」
「よろしくお願いしますよ。あの数の中に突っ込むんですから」
ルウファは、大ファリアとカートに視線を送ると、上空に視線を戻した。夜の間、地上で羽を休めていたらしい皇魔の群れが空を覆っている。数えきれないほどの銀の翼が瑠璃色の空に瞬き、まるで空が白銀に染まったかのように思える。
シフが魔王軍飛行部隊の主力だということだ。
「勝てるかどうかはおまえ次第、ということらしいな」
獣姫シーラ・レーウェ=アバードが馬上から声をかけてきた。アバード軍の総大将である彼女は、本来ならば本陣に留まっておくべきだった。しかし、召喚武装ハートオブビーストの使い手である彼女には、本陣に留まるよりも戦場に出てもらうほうが、アバード軍全体にとっていい結果をもたらすだろう。そのことは彼女自身が一番良く知っている。
「《獅子の尾》の名を汚すような結果にはなりませんよ」
「ああ。期待している」
「お任せあれ」
シーラが、槍を掲げた。ハートオブビーストの穂先が朝日を浴びて輝くとともに、先陣の空気が重々しさを増す。そんな中、ルウファ率いる強襲飛行隊の武装召喚師たちが、つぎつぎと翼を広げていく。赤い翼、青い翼、黒い翼、そしてシルフィードフェザーの純白。色とりどりの翼が、アバード軍の陣地にきらめいた。
「征け!」
シーラが槍を振り下ろすのと同時に、ルウファは大地を蹴り、飛び上がった。翼が大気を叩き、彼の肉体を空高く運んでいく。重力の鎖を断ち切ったかのような解放感と浮遊感。尖鋭化した五感が前方上空の敵陣の変化を認識した。敵が、こちらの動きを察知したのだ。だが、敵陣が動き出すよりも速く、強襲飛行隊は敵陣を目前に捉えている。
「シフだけで数千……! ひでえって次元じゃないっす!」
「そんなこと、最初からわかっていたはずだ!」
いまさら泣き言を言うものじゃない、とルウファはいいたかった。敵は既に眼前。泣いて喚いたところで、現状が変わるはずもない。
敵の陣形は、地上に展開するもののような平面ではない。積層多重構造とでもいうべき陣構えであり、巨大な立方体の様相を呈していた。立方体の一角をこちらに向けており、そのまま巨大な要塞となって迫ってきていたようだった。上空での戦いだけを考慮したもの、というわけでもない。地上に近い部分には白兵戦の能力が高いベスレアやネグルベフが集められている。それは、対空攻撃への防御力も高いということになるが。
「目的は敵指揮官の撃破!」
ルウファは、即席飛行隊の隊長として意識して強く発言した。部下は《協会》の武装召喚師――つまり、協会員仲間ばかりであったが、遠慮する必要はない。彼らも活躍し、戦後、国に仕官することを夢見ているのだ。真紅の翼のマルーン=メディック、蒼き翼のサデュー=シンディ、漆黒の翼のルカ=ファード。
「それ以外は極力無視しろ!」
「指揮官はあ、どうやって見つけ出すんですう?」
「昨日もいったが、魔王軍も結局は人間の軍隊と同じだ。兵には兵の、将には将の格好というものがあるはずだ!」
「具体的に教えて下さいい」
「召喚武装を装備している奴を叩く!」
『了解!』
部下たちが威勢よく反応した直後、地上から放たれた一糸が前方のシフの胴体を貫いたのを目撃した。大きな矢は、召喚武装のそれではない。
「普通の弓で当てるとか、まじかよ」
「普通の弓じゃないですよお」
(あれは……)
本陣付近で、イシカの弓聖サラン=キルクレイドが巨大な弓を構えていた。
(バハンダールの剛弓……)
ルウファの脳裏に浮かんだのは、バハンダールを難攻不落の城塞都市とした一因である。ベイロン=クーンだけが扱うことができたという剛弓は、戦後、ガンディア軍の倉庫に死蔵されたものと思われていたのだが。
(貸し出したのか)
弓聖と謳われる人物ならば扱えるかもしれない――誰かが抱いたかすかな期待が、アバード軍の戦力を底上げしたようだった。
アバード軍から敵陣への攻撃は、それだけに留まらない。カート=タリスマを始めとする武装召喚師たちの射撃が、敵陣最下層の皇魔たちに当たり始めていた。だが、それでは敵戦力を削り切ることはできない。敵は飛行能力を持っているのだ。上空に移動すれば、こちらの攻撃は届かなくなる。もちろん、そうなれば相手も攻撃しにくくなるのだが、高所に陣取ったものが有利という原則は揺るぎようがない。
「行くぞ」
号令とともに、ルウファの飛行速度は最高速度に到達した。