第六百九十三話 サマラ樹林を越えよ(一)
サマラ樹林は、リネンダールの西側一帯を覆う広大な樹林だ。サマラ樹林を形成するのは針葉樹ばかりであり、樹林を貫く街道は一般に刺の道、針の街道と呼ばれているらしい。
リネンダールがクルセルクの交通の要衝となった一員に、サマラ樹林の開拓がある。
サマラ樹林は、人目を嫌う皇魔にとって、巣を作るのに格好の場所だった。実際、いくつかの巣が作られていたらしいのだが、数百年前、クルセルクの騎士団がそれらを焼き払い、街道を整備していった。騎士団は、樹林に皇魔が巣を作るたびに討伐部隊を繰り出し、皇魔が諦めるまで手を緩めなかったという。
いまはなきクルセルクの騎士団の活躍により、サマラ樹林は安全な街道として認識されるようになったのだ。
「敵が飛行型でさえなければ、樹林ごと焼き払えばよかったんですが」
サマラ樹林を目前に控え、アレグリア=シーンが発した一言にルウファは目を丸くした。アレグリアはどこか幸薄そうな印象を与える美女だ。そんな美女の口から発せられる言葉の物騒さには、ルウファも驚かざるをえない。無論、彼女の立場は理解している。
ガンディア軍参謀局第二室長が彼女の肩書であり、連合軍内の再編成においてアバード軍の軍師的な立ち位置となっていた。
「エインくんみたいなことを……」
「しかし、良い策ではありますな。敵は皇魔。遠慮する必要はない」
「そりゃそうだ」
「で、サマラ樹林焦土作戦が使えないなら、どうするんだ?」
シーラが樹林の上空を睨みながら尋ねた。アバード軍という名称からわかるとおり、この軍勢の指揮官は彼女である。アバードの王女であり、獣姫の異名を持つ男装の戦士。指揮能力の高さもさることながら、戦闘要員としても優秀なのが、シーラ・レーウェ=アバードという人物だった。補佐に、イシカの弓聖サラン=キルクレイドが名乗り出ている。
メレドの国王サリウスがこの軍勢の中で一番の権力者だったが、発言力が最も高いのは別人であり、サリウス王は、彼女に遠慮したのか、ウェイドリッドを出発して以来、発言を控えている。また、ベレルの豪槍騎士団と重盾騎士団が組み込まれているが、ふたりの騎士団長に発言力はない。ベレルがガンディアの属国である以上、そうならざるをえないだろう。
アレグリアが残念がったように、これからアバード軍が戦おうとしている相手は、飛行能力を有した皇魔の軍勢であった。一万もの皇魔が空を埋め尽くす様は圧巻であり、巨鬼の活動停止によって上がった士気が一時に下がるのも無理はなかった。
東の彼方に聳え立つ光の塔が、巨鬼の現状だ。召喚武装を手にしていないものにでもわかるほど巨大な光の柱。天を貫き、宇宙の闇にさえ届くかのようなのだが、なにが起こっているのかわからないのは困ったものだ。少なくとも、巨鬼の攻撃が止んだことは疑いようのない事実であり、セツナたちがどうにかしたのは間違いなさそうではあるが。
「制空権を取らなければ、勝ち目はないですね。取れますか?」
「俺?」
「そうね、空中戦はルウファちゃんに任せるのが一番ね」
朗らかに告げてきたのが、このアバード軍の中で最大の権力者ともいえるファリア=バルディッシュだった。老いを感じさせない溌剌な笑顔が魅力的な老女は、リョハンの最高指導者であり、戦女神と謳われるほどの人物だ。伝説的といっていい。武装召喚師ならば知らないものはいないし、知らないのは恥としかいいようがない。武装召喚術の始祖アズマリア=アルテマックスの高弟にして、現代の武装召喚術の基礎を築き上げたひとり。リョハンの独立自治をヴァシュタリアに認めさせた女傑としても有名であり、彼女の雷名を知らぬ武人もいないはずだ。四大天侍と呼ばれる精鋭を引き連れてクルセルク戦争に参加したファリア=バルディッシュは、連合軍の中では特別な立ち位置にいた。盟主国の王レオンガンドですら、彼女の命令することはできない。強要すれば、四大天侍とともに連合軍の敵となるだろう。
連合軍内においても、大ファリア、大召喚師と呼ばれているのは、彼女の孫娘であるファリア・ベルファリア=アスラリアと同じ名前であり、混同する可能性を考慮してのことだが。
「いやいや」
ルウファは、屈託のない大召喚師の笑顔に引き込まれそうになりながら、慌てて首を横に振った。だが、アレグリアはこちらの意見を黙殺した。
「ということで、ルウファ殿には敵指揮官を地上に引き摺りおろして頂くことに決定~」
「ちょっ」
「援護は任せてね、ルウファちゃん」
「ははっ、頼んだぜ、《獅子の尾》!」
大召喚師と獣姫のふたりに背中を叩かれて、ルウファは、息ができなくなったりした。
サマラ樹林が東西に渡って横たわっている。南北への広がりは薄く、南から北に突破するには時間はかからないだろう。街道は東西に走っているだけではない。
その針葉樹群の南に小高い丘があり、丘の上に連合軍の本陣がある。丘から樹林に向かって展開された陣容は、こちらを迎え撃つ気でいるというようなものであり、諦めを感じずにはいられなかった。
(さすがに連戦連勝の連合軍も、勝ち目が薄いと見たか)
制空権は、こちらにある。いかな弓の名手であっても、上空から飛来する数多の皇魔をすべて打ち落とすことなどできまい。
だが、ベルクは油断しなかった。ベルクはザルワーンの戦いを見ている。連合軍には、絶大な力を持つ武装召喚師が何人もいるということを把握しているのだ。なんでも、リョハンの戦女神と呼ばれる人物が、連合軍に参戦したらしい。彼の武装召喚術の師である魔王軍総司令官オリアス=リヴァイアがうなるほどの人物であり、その人間の部下であるところの四大天侍も中々に凶悪らしい。
幸い、連合軍は軍勢を三つに分けており、リョハンの戦女神と四大天侍が勢揃いしている可能性は低そうだった。もちろん、連合軍の戦力はそれだけではないことも理解しているが、目下注意するべきは戦女神と四大天侍であることに変わりはない。
(慢心しないことだ。制空権を保っていれば、勝てる)
彼は、自軍の戦力を確認した。魔天衆は、飛行能力を有した皇魔の集団だ。シフ、ベクロボス、ネグルベフ、ベスレア。このうち、もっとも数が多いのがシフで、五千体。白銀の翼を広げ、空を覆う様は、人間に威圧感を与えるだろう。つぎにウィレドであり、三千体の天魔がこの戦いに参戦している。ベクロボスは百体程度。残りはネグルベフとベスレアが半々といったところだ。
ウィレドのうち、ベルクと供回りの二十体が武装召喚師、あるいは召喚武装の使い手である。ベルクは十体に、自身の召喚武装を貸し与えていた。召喚武装の維持には精神を消耗するものだが、ウィレドなどの皇魔は人間と比較にならない精神力を持つものらしく、十の召喚武装を維持することくらいわけがなかった。もっとも、それも召喚武装の質によるものらしく、高性能の召喚武装ではないのだから当然だ、とオリアスが苦い顔をしていたのが印象的だった。
ともかく、戦力としては申し分ない。
ベルクは、多層構造の陣形を展開しながら、遥南方の敵陣を見遣った。敵の動きは極めて慎重だ。サマラ樹林を強引に突破するつもりはなさそうに思えた。
つまり、今日中に激突することはない、ということだ。
「敵は、飛行型の皇魔ばかり。こういう場合、翼系の召喚武装を呼び出すか、遠隔攻撃の得意なニュウちゃん辺りに任せるのが、わたしたちのやり方よね」
ファリア=バルディッシュは、本陣から最前線に向かって丘を下りながら、カート=タリスマに話しかけていた。カート=タリスマは四大天侍のひとりだが、昔から言葉少なであり、寡黙という言葉を体現したような人物だった。口が縫い合わされているのではないかと疑うほどの寡黙さは、類を見ない。
眼下、アバード軍と呼称される連合軍の一軍団が、武装し、布陣している。アバード、イシカ、メレド、ベレル――様々な国の軍旗が彩りを添えるかのように揺らめいていた。戦闘を目前に控えた独特の緊張感が彼女にも伝わってくる。
「ニュウちゃんのブレスブレスなら、ある程度は撃ち落とせそうね。でも、ブレスブレスは消耗が激しすぎるし、ここはおとなしく別の召喚武装を使うのが手よね」
見上げれば、北の空から皇魔の群れが近づいてきているのがわかる。無数のシフの銀翼が、夕闇の中で輝いていた。シフだけで何千もの数だ。普通に考えれば、こちらが負けるのが道理だろう。敵は空を制している。地上から空を攻撃する手段はあまりに少ない。通常の弓では届くはずもないような距離から急降下してくるのがシフであり、ベスレアやネグルベフといった皇魔は、遠距離攻撃を得意とする。ウィレドもだ。
「アバード軍は、現有戦力ではまともに戦うのは不可能だと判断したようね。こちらには対空攻撃があまりに不足しているもの。悪くない判断だわ」
アバード軍には、ファリア=バルディッシュたち以外の武装召喚師も従軍している。いわゆる《協会》の武装召喚師たちであり、彼らは《協会》の総本山であるリョハンの戦女神と四大天侍に対し、一定の敬意を払っていた。
それはそれとして、だ。彼らの中には、もちろん、遠隔攻撃を得意とする武装召喚師はいる。が、そういったものばかりではない。白兵に特化した、射程攻撃手段を保有していないものも少なくはなかった。
制空権を取った相手に対し、遠距離攻撃だけで戦うことは不可能と見ていい。
「もちろん、それだけではどうにもならない。だから、相手を地上に引きずり下ろすことにしたのよ」
敵は皇魔。だが、軍事的な訓練を受けた皇魔であり、普通の皇魔とは別物と思っていい。軍隊とは、明確な指揮系統があって初めて機能するものであり、指揮官が戦死するなどして指揮系統に乱れが生じた瞬間、瓦解を始めるものだ。もちろん、それがすべてではないにせよ、魔王軍の皇魔たちは、指揮官を見失った瞬間、本来の能力を発揮できなくなるのは間違いない。
それが、連合軍の付け入る隙となる。
「とはいっても、ルウファちゃんひとりに行かせるのは、見殺しにするようなものよ。わたしたちがしっかりと援護しないとね」
「御意」
寡黙な男のはっきりとした返事に、彼女は満足した。
サマラ樹林の戦いは、明朝にも始まるだろう。