第六百九十一話 ウェイル川の戦い(三)
洪水が起きた。
ウェイル川上流に起きた異変によって、凄まじいまでの量の水流が下流に押し寄せ、大地も雑木林も皇魔も、なにもかもを飲み込み、遥か南西に押し流した。
ウェイル川の下流一帯が水浸しになり、その影響はウェイドリッドに及ぶらしい。大水害といっていい。
無論、ウェイドリッド砦が水没しないように対策済みだ。
「敵は浮き足立っている! 全軍、攻撃を開始せよ!」
ナーレスは、全軍に総攻撃を命じた。魔王軍の先陣、およそ二千ほどが濁流に飲まれ、戦場から消えている。大半が溺死したと見ていい。皇魔がいかに凶悪な化け物であっても、生物に違いはない。呼吸ができなければ死ぬ。それだけのことだ。
南西の大地が水没していく様を見遣りながら、
「軍師の旦那もやるじゃねえか!」
シグルド=フォリアーは、獰猛な笑みを浮かべると、突撃の号令を出した。
傭兵団は、予想だにしない事態に立ち竦む魔王軍の横腹を突いた。ルクス=ヴェインが皇魔の群れのまっただ中に飛び込むと、小型も中型もつぎつぎと沈んでいった。もちろん、ルクスだけが気炎を吐いたわけではない。《蒼き風》、《紅き羽》、《銅竜騎兵団》の三組織は、ザルワーンで散っていった傭兵仲間の無念を晴らす機会を待っていたのだ。
《銅竜騎兵団》の騎兵部隊が火の如く攻め立てて皇魔の陣列を粉砕すると、《紅き羽》の傭兵たちが怪気炎を上げて敵陣の傷口を広げていった。シグルドの戦鎚が唸り、ジン=クレールの戦術眼も冴え渡る。団長、副長の働きに触発されたのか、《蒼き風》の傭兵たちがいままでにないほどの力を発揮して、皇魔の群れを圧倒した。
無論、魔王軍に突撃したのは、傭兵団だけではない。
ガンディア軍の全部隊が攻撃に参加し、魔王軍に強烈な一撃を叩き込んだ。
覇獄将ハ・イスル・ギは、山上から押し寄せた激流が、ミトラ隊二千を飲み込み、ウェイル山麓一帯が水浸しになっていく様を目の当たりにした。
先陣を務めるはずの二千もの皇魔が洪水に飲まれ、流されていく光景は圧巻というほかなかった。
全軍が立ちすくむのも無理はない。戦場全域が水没しそうなほどの水勢には、皇魔でさえ恐怖を覚える。多くの同胞が濁流に飲まれて死んでいったことを理解したところで、怒りよりも恐れが生まれる。それが生物的な本能というものだろう。
そして、その隙を逃すガンディア軍ではない。予想外の位置から出現した人間たちが喚声を上げながら、覇獄衆の横腹を突いた。小型の類いは瞬く間に討ち取られていき、中型の皇魔さえ、隙を衝かれればなす術もない。
全軍、浮き足だっていた。
本隊が中央で分断され、敵は前方の部隊に殺到した。激しい戦いが起きた。
(小娘が……!)
イスルは、胸中で吐き捨てると、分断された後方の部隊に檄を飛ばした。
「策を弄せど、地力はこちらが上! 負ける要素などはない!」
イスルの親衛隊が敵陣に斬り込むべく、真っ先に動いた。敵は北から攻め寄せている。本陣もそこにあるに違いない。本陣さえ落とせば、敵司令官さえ討ち取れば、人間など取るに足らないものと成り果てる。イスルは親衛隊に命じるとともに、自身は陽動を買ってでた。イスルが人間を殺せば殺すほど、敵はイスルを放置できなくなるだろう。
「征け!」
イスルの命令に、親衛隊は奮起した。だが、敵兵を蹴散らし、山林に押し入った親衛隊を待ち受けていたのは、敵武装召喚師による迎撃だった。
七色の剣閃が走り、ベスベルが七体、ほぼ同時に息絶えた。
「いくら地力があったって、ぼくには関係がない」
血しぶきの中でさらに三体を処理しながら、武装召喚師の男が嘲笑った。親衛隊は残り十体。親衛隊は、覇獄衆の精鋭中の精鋭なのだ。それをこうまであっさり撃破するなど、予想だにしないことだった。
(強いな)
イスルは、認識を改めた。七つの剣の武装召喚師を倒さなければ、覇獄衆に勝利はない。彼は吼えることで命令を伝えると、自身の召喚武装の能力を解放した。
身に纏う甲冑が、イスルの召喚武装のひとつだ。外骨格の上に鎧を纏うのは奇妙な感覚だが、能力を向上させるという点において全身に装着する鎧兜ほど優れたものはなかった。光背を持つ白銀の甲冑は、群青の外骨格によく馴染んでいた。
光背を構成する部位が稼働し、六つの腕に変形する。腕の先には手があり、手はそれぞれ光でできた太刀を握りしめた。六本の光の太刀が、イスルの武器となった。
「貴様など、我が神成之鎧にて討滅してくれる!」
イスルが叫ぶと、七つの剣を携えた武装召喚師が、こちらに注意を向けた。親衛隊がその武装召喚師の間合いから離れることに成功する。
「面白い召喚武装だ」
武装召喚師が、七つの剣を前方に展開しながら目を細めた。
神成之鎧は、オリアスをしてうならせた召喚武装である。
イスルは、さらに腰に帯びていた召喚武装・裂塵之太刀を抜いた。太刀を両手で握り、構えると、合計七本の刃を展開したことになった。召喚武装を併用していることによる感覚の増大が、戦場の風景を脳裏に描き出し、彼に勝利を確信させる。一時的に押されこそしたものの、いまや戦況は変わりつつある。元より皇魔と人間では地力が違うのだ。冷静ささえ取り戻すことができれば、戦況を覆すことくらいどうということはない。
敵も、七つの剣を展開している。一撃必殺の力を持つ七色の剣。凶悪な召喚武装であるのは間違いない。
イスルと敵武装召喚師の戦いに口を挟もうとするものはいなかった。両者の間合いの外で、激闘は続いている。リネンダール北東の山林。どこからともなく流れ落ちた濁流によって、なにもかもが水浸しになった戦場。イスルたちの足も水で濡れた。
陽の光が、水面に輝いていた。
「数は同じ……勝敗を分けるのは地力の差って?」
「いうに及ばず!」
イスルは、一足飛びに間合いを詰めた。浮遊する剣は遠隔攻撃こそ得意とするが、近接戦闘は不得手と見たのだ。
「っ」
敵は飛び退きながらこちらを差した。赤の剣が火を吹きながらイスルに飛来するが、鎧の腕が自動的に反応し、叩き落とす。それで終わりではない。電光を帯びた剣、暴風を纏う剣が次々と襲いかかり、イスルの接近を阻もうとする。イスルは、確信とともに殺到する剣のことごとくを弾き飛ばし、さらに踏み込んだ。敵の剣はあとひとつ。地に落ちた剣が再び動き出すより早く間合いを詰めることができれば、イスルの勝ちだ。
そして、間合いがなくなった。
敵が左手で虚空を撫でた。光の剣が地を這うように飛んでくる。イスルは、裂塵之太刀の峰で受けた。閃光が走り、視界が白く染まる。その寸前、敵が冷笑したのを彼は見ていた。そして、イスルに六つの剣が殺到した。撃ち落としたはずの剣たち。一瞬で復帰し、飛来してきた。全周囲。逃げ場はない。
イスルは、鼻で笑った。
(ふっ)
それも、読み切っている。
神成之鎧の六つの腕が剣を捨て、イスルに殺到した六つの剣を受け止めた。受け止めることで、封殺したのだ。
イスルは、目眩ましの光が消えた瞬間、敵武装召喚師の愕然とした顔を目撃した。光の剣が、裂塵之太刀によって地に落ちる。イスルは踏み込んだ。今度こそ、太刀の届く間合いに入る。振り下ろしたままの太刀を跳ね上げ、突きに転じる。
(捉えたっ!)
「惜しかったね」
敵の声が聞こえたとき、衝撃がイスルの胸を貫いていた。地に落ちた剣から発せられた光が、神成之鎧を突き破り、ベスベルの外骨格をも貫通したのだ。だが、それも想像の範疇にあった。彼の思惑は、その先にある。
「はっ……」
イスルは、敵召喚師のすべての攻撃手段を封じたと認識した。同時に、敵召喚師の背後に、彼の“忍び”が迫った。“忍び”は伝令と諜報のみならず、暗殺技能にも長けている。
“忍び”がイスルを一瞥した。主君の死に対してもなんら感情の変化がなかった。ただ、義務として見届けようとでもいうのかもしれない。“忍び”の手にした刃は、敵召喚師の首に迫っている。
瞬間、
「そういうわけにはいかないんだなあ、これが」
“忍び”の手首が切り飛ばされたかと思うと、無数の矢がベスベルの頭部や胴体に突き刺さり、力を失った五体が水浸しの地面に崩れ落ちた。
(おのれっ!)
ハ・イスル・ギは、残る力で敵召喚師に迫ろうとしたが、頭を光に貫かれて絶命した。