第六百九十話 ウェイル川の戦い(二)
ウェイドリッド砦は、百年ほど前に建造された砦だ。現存する砦の中では新しい方だといえる。東方のドレイン山に源流を持つドレイン川が、砦の東から南に向かって流れているのはよく知られている。ドレイン川が自然の要害となって、砦の防衛に役に立つ、らしい。
もっとも、ドレイン川の水勢は弱く、また浅いため、敵に対してそれほど効果が見込めるものとは考えにくかった。実際、連合軍は、ウェイドリッド砦攻略にはドレイン川の存在を気にも止めなかった。その程度の川だ。
対して、リネンダール東部を北東から西南に流れるウェイル川も、同じようなものだった。とはいえ、ウェイル川はリネンダールの防衛構想には入っていないようであり、その点では別物と考えるべきだろう。
ナーレスは、ウェイル川の浅さを見つめながら、時が来るのを待っていた。
二月三日。
連合軍がウェイドリッド砦を出発して一日が経過し、状況は大きく変わった。
リネンダールの巨鬼が光の柱となって沈黙し、遠方から攻撃される可能性を考慮する必要がなくなったのだ。巨鬼を完全に倒したとは言い難いが、行動不能状態に陥ったのは間違いなさそうであり、ナーレス=ラグナホルンは賭けに勝ったのだと認識した。
セツナ・ラーズ=エンジュールとクオール=イーゼンが巨鬼を止めたのだ。
それによって連合軍の士気は否応なく上がった。まるで魔王を倒したかのような盛り上がりぶりであり、喧騒が夜のウェイル川に響き渡るほどだった。
夜は、もちろん、川岸に陣を張り、休んだ。交代で見張りを立てたが、見張りは武装召喚師の役割だった。武装召喚師が召喚武装を手にすることで得られる超感覚は、物見にも斥候にも警戒にも役立った。
ナーレスは、利用できるものはすべて利用する気概で、この戦いに臨んでいた。自分の戦術が、後を継ぐものたちの糧となり、力となるのだ。
ガンディア軍は、夜明けとともに陣を引き払い、行軍を再開している。
目的地はリネン平原だが、目的地に至るまでに敵と遭遇するのは想定済みだった。敵は三つの軍団を投入し、南下してきている。連合軍もそれに対応する形で軍勢を三つに分けた。一軍団で一軍団を撃破するという算段は、皮算用という他ないが、そのために戦力を振り分けたのだ。もし、いずれかの軍団が苦戦したのならば、勝利した軍団が加勢すれば良い。距離はそこまで離れていない。援軍を差し向けることも不可能ではない。
そして、ナーレスは、マリク=マジクという武装召喚術の申し子のおかげで、敵との遭遇地点を決定することができた。敵の現在位置と自軍との距離関係がわかったのだ。行軍速度を調整することで、敵を目的の場所まで引き入れることができるだろう。
ウェイル川の下流。朝靄が立ち込めていて、周囲の状況はよくわからないといった有様だ。それでもガンディア軍が安全なのは、広大な感知領域を誇る武装召喚師が随行しているからだった。
「面倒なの。全部ぼくたちに任せればいいのに」
マリク=マジクが、簡単なことのように言い放ってきた。敵は皇魔の群れ。リョハンの武装召喚師に頼り切ってもなんら問題はない。だが、ナーレスは、できるかぎりのことはするつもりでいる。軍師としての仕事を果たして上で、マリクを使うのだ。
「そういうわけにはいかない。武装召喚師の力に頼ってばかりでは、ガンディアに未来はない」
「セツナ伯に頼りきっている国のいうことかなあ」
「だが、彼ひとりで勝利をもぎ取ってきたわけではない」
「うん。知ってるよ。彼が、それを悔いている」
「彼……?」
ナーレスがマリクを見ると、彼は、虚空に浮かせた七つの剣を弄んでいた。炎の剣、水の剣、光の剣――様々な性質を持つ魔法の剣。
「セツナ伯のこと」
「なにをセツナ様が悔いることがあるのだ。それに、どうして君がそれを知っている?」
「記憶に触れたからね」
「ミリュウ=リバイエンと同じということか」
「そういうこと。もっとも、ぼくは彼女のようにはならないけどさ」
マリクが小さく笑ったのは、ミリュウがセツナに骨抜きなのを思い出したからなのかもしれないが。
「……それで、セツナ様はなにを悔いているのだ?」
「自分にもっと力があれば、ってさ」
マリクの言葉が、ナーレスの耳ではなく、心に刺さった。
「自分がカオスブリンガーをもっと上手く扱うことができれば。カオスブリンガーの力を引き出すことができれば。力があれば。力さえあれば、もっと多くの敵を倒せたのに。もっと多くの味方を守ることができたのに。勝利に浮かれることはなく、彼の魂は後悔ばかり。ああ、なにが彼をそこまで追い込むのか~」
「本当に、セツナ様はそんなことを思っているのか?」
「嘘をついてどうするのさ。信じられないなら、あの子にでも聞いてみればいいよ。教えてくれるかは知らないけど」
「いや、済まない。君を疑っているわけではないんだ。ただ、信じられなくてな」
ナーレスは、セツナひとりの力で勝ってきたわけではないといったものの、それは本心ではなかった。本音では、セツナに頼りきりのガンディア軍だということもわかっているし、身の程もわきまえているつもりだ。いくら軍師とはいっても、自分ひとりではなにもできないのがナーレスなのだ。セツナと黒き矛の活躍あってこその勝利であり、ガンディア軍の躍進だということは身にしみるほど理解している。
セツナは、これまで幾多の戦いを勝利に導いてきたのだ。無論、犠牲は出た。大きな戦いになれば、損害を出さずに勝利することなど、不可能に近い。黒き矛がどれだけ強力であっても、セツナが人間で、セツナがひとりしかいない以上、すべての戦いに参加することなど、できるわけがないのだ。味方に死傷者が出るのは当然のことだったし、そのことでセツナが後悔する必要は一切なかった。
彼は誰よりも過酷な戦いをしている。
何日も眠らなければならないほど消耗するほどに肉体も精神も酷使している。
どんな結果になったとしても、だれも彼を責めることなどできない。
「ま、セツナ伯は考えすぎなんだろうけどさ」
「それは彼の良さであり、悪さなのかもしれないな」
「そう想うよ」
「ありがとう」
「どーいたしまして」
話はそれで終わった。
マリクは、作戦のためにガンディア軍の先陣に向かい、ナーレスは陽動部隊に指示をだすために本陣を離れた。陽動部隊は、敵軍に陽動であることを悟らせる必要がある。少人数で、生存率の高い人間が望ましい。そうなると、自然、武装召喚師の中から選定することになる。
「ま、セツナの代役なら、やるしかないけどさ」
陽動部隊の中で、ミリュウ=リバイエンがひとり気炎を吐いていた。
陽動部隊が本隊を離れるのと同時に、別働隊が、まったく別の目的に向かって飛び立った。こちらも武装召喚師からなる小隊であり、飛行小隊と銘打った通り、飛行能力を有した召喚武装の使い手だけで構成されていた。
マリクたちには頼りきらないとはいったものの、戦術に組み込むことに躊躇はなかった。策を駆使して魔王軍を撃破したという実績を残したかったのだ。
(少しでも、君らの力になれば、それでよいのだ)
ナーレスは、迫り来る死の気配に目を細めた。
敵は、川の中州に布陣し、周囲を窺う様子を見せていた。人間だ。どれもこれも同じような顔に見えるが、ひとりは女で、残る九人は男だということは把握できた。女の髪は、朝靄の中でも燃えるように赤く、それだけは異常に目立っていた。
ハ・ミトラ・グは、雑木林の中に身を潜めていた。身に纏う桃色の甲冑は、目立ちすぎるのだ。いくら朝靄が濃くとも、桃色の鎧具足を身につけたベスベルがいれば、遠目からでもすぐにわかるだろう。敵情視察には決して向かない召喚武装だったが、そればかりは彼女にはどうすることもできなかった。いまさら別の術式を考え出せ、というのも無理な話だ。
当然、部下も雑木林の中に潜ませている。ベスベルばかりが五十体ほど。それが彼女の部隊の全戦力ではなく、ハ・ミトラ・グの近衛がその五十体なのだ。
(ふん……)
いかにも誘っている。
おそらく、川の向こう側に兵を潜ませているのだ。誘いに乗って追撃を仕掛ければ、手痛い反撃を受けることになる。
(ならば)
相手の陽動を逆手に取り、策を潰してしまえばいいのではないか。
ミトラは、焦れていた。川の中州でこちらを挑発している人間どもに一泡吹かせるにはどうすればよいのか。魔王に仇なすものどもに、魔王と覇獄衆の恐ろしさを思い知らせるにはどうするべきか。
ミトラの考えることはそれだけだ。
やがて、ミトラ隊二千が勢揃いすると、後方にハ・イスル・ギ率いる本隊がついた。ミトラとイスルは、同じハ氏族にあって、覇獄将の座をかけて争った間柄だった。
ミトラが敗れ、イスルが将となった。イスルは栄光ある魔王軍の将として、魔王直々に褒め称えられた。ベスベルのほとんどがイスルに服した。ミトラ一党だけが、彼を認めなかった。
だが、魔王の決定は絶対である。ミトラは内心の不快感を抑え込み、魔王への忠を尽くすことだけを考えた。
彼女は、イスルを出し抜きたかった。
ミトラ隊だけでガンディア軍を打ち破れば、イスルは立場も面目も失うのではないか。
決断は、早かった。
ミトラは近衛部隊に命じ、ミトラ隊に進軍を通達した。雑木林を飛び出し、ウェイル川に接近する。
「来たわね!」
赤毛の女が迎撃の構えを見せる。ミトラは鎧の能力を全開にした。罠もろとも叩き潰すつもりだった。
装甲の一枚一枚が激しく振動し、ミトラの力を引き上げる。地を踏んだ。地面が陥没するほどの力。飛ぶ。赤毛の女が、間合いの彼方で剣を振るうのが見えた。刀身が無数に砕け散り、砕片が鞭のように連なり、しなりながらミトラを襲う。ミトラは、空中で、さらに跳躍して剣の軌道から外れる。女が舌打ちして後退する。予想通りの誘引行動に、ミトラは笑みさえ浮かべた。川の中に着水すると、水しぶきが視界を彩った。顔を上げると、人間の小隊がミトラたちを川の向こうに引き入れようとしているのがわかる。
ミトラは、嘲笑うと、ミトラ隊が川中に勢揃いするのを待った。追撃するのではなく、遠距離攻撃を叩き込むのだ。
ミトラが吼え、号令すると、ミトラ隊のレスベル、ベスベルが一斉に口を開き、咆哮とともに光を放出した。何百もの光線が川向こうの雑木林に突き刺さり、破壊をもたらした。
大地が震え、怒涛となって押し寄せた激流が、ミトラ隊を飲み込んだ。