第六百八十九話 ウェイル川の戦い(一)
鬼神が活動停止に陥るのを認識したとき、ベルクは、人間の底力というものを思い知った。
リネンダールに召喚されたのは、異世界の神だ。ウィレドやレスベル、リュウフブスと名付けられた皇魔とは、本質を異にする存在であり、力の質も量もケタ違いの存在だった。立ち向かうなど、考えるだけでも馬鹿馬鹿しい。
神とは、そのような存在なのだ。
その異世界の神を召喚したのも人間ならば、異世界の神を一時的にとはいえ、活動停止させたのも人間なのだ。
「人間とはげに恐ろしきものよのう」
彼はいったが、周囲のだれも彼に同意してくれなかった。彼の周囲を飛ぶのはシフばかりだ。銀翼の魔鷹には、人間の言語が理解できないのだ。奇怪な音を発しているとしか思われていないのかもしれない。
ベルクは、夜空を游ぎながら少しばかり虚しさを抱いたりもした。
ベルク率いる魔天衆は、皇魔の中でも飛行能力を有した種で構成されている。主な戦力は銀翼の魔鷹、浮遊魔眼、邪翼の狂獣、飛翼の黒猫、そして天魔だ。もっとも、ベクロボスの戦闘力は皆無に等しく、戦力として期待してはいけない。
魔天衆は、ゼノキス要塞から大きく西に迂回しながら南下し、ウェイドリッド砦を目指していた。ウェイドリッド砦には反クルセルク連合軍の全戦力が集まっているのだ。
『そこへ魔王軍の戦力を集中させ、叩き潰す……ということか』
脳裏に、ハ・イスル・ギの声が響いたのは、意識が眠りに落ちかけていたからかもしれない。ウィレドは、空に浮かんだまま寝ることができるのだ。
『連合軍が籠城してくれるのなら、それで構わないがな。そうはならないだろうと、オリアス師はいっている』
『だろうねえ』
メリオルが召喚武装を用い、連合軍の生命線とでもいうべき三都市を奪還した。連合軍は、選択を迫られただろう。血路を開き、撤退するべきか、それとも、全力を上げてクルセールに突撃し、戦いを終わらせるか。
連合軍の戦力を考えると、補給線の確保と魔王討伐を同時に行うことは不可能とは言い切れない。が、それを許さない存在がリネンダールに君臨していた。鬼神を攻略しないかぎり、戦力の必要以上な分散は避けたいと考えるのが普通だ。
魔王軍だけでなく、鬼神にも戦力を割かなかればならないのだ。勝利を第一とするのならば、補給線の確保は諦めるだろう。
オリアス=リヴァイアの読みは当たった。
連合軍は、ウェイドリッド砦から三つの軍団を出撃させた。それぞれ一万超の兵数。数の上では、魔王軍三軍団それぞれと同程度だが、兵の質が違う。正面からぶつかり合えば、こちらの勝ちは火を見るより明らかだ。
連合軍の三軍団は、まるで魔王軍の三軍団に呼応するかのような経路を辿りながら北進していた。ガンディアの軍旗を掲げる軍団は東から北へ向かっており、覇獄衆と接触する経路だった。
ジベルの軍旗を掲げる軍団は、西から北へ、リネンダールの脇を通過するような経路であり、その先にはリネン平原が横たわっている。メリオル率いる鬼哭衆がそれに当たるだろう。
ベルクの魔天衆の進軍路には、アバードの軍旗を掲げる軍団がいた。まずジベルともども西に進んだ軍団は、途中でジベルとわかれ、さらに西に流れた。西から大きく迂回しながら、リネン平原を目指している。
これは、間違いなくこちらの動きを理解しているものの動きだった。
魔王軍が軍勢を三つに分けたことに対応したのだ。兵数を三軍団で同程度にしているのも、その現れだろう。
約一万の人間で、一万の皇魔を封殺するつもりなのだ。
(見くびられてる? そりゃそうさ)
ベルクは、ベクロボスの発言を思い出して、苦笑した。人間にしてみれば、皇魔などこんなものかと思わざるをえないのではないか。魔王軍は負けっぱなしなのだ。勝てたのは、主力不在の三都市に奇襲したからであり、それ以外の戦闘では一度も勝てていない。大量の皇魔を投入したにも関わらずだ。
人間が調子に乗るのも無理はない。
だが、人間が皇魔を見下せば見下すほど、こちらの勝機は高くなる。勝った気になっている連中に皇魔の本当の恐ろしさを教えてやれば、瞬時に思い出すだろう。狩る側がどちらで、狩られる側がどちらなのか、理解するだろう。
『我々は、それぞれの軍勢を率い、ウェイドリッドを目指す。道中、連合軍と戦闘になれば、それを蹴散らし、連合軍がウェイドリッドから撤退したのなら、追撃に移る』
『それだけか?』
『こちらには鬼神がついている。戦術などは不要だ』
(その鬼神が真っ先に封じられちゃったねえ、メリオルさんよ)
ベルクは瞼を開き、再び東に聳え立つ光の柱を見やった。夜空に突き刺さる光は、鬼神が放出する力にほかならない。生命力、精神力、なんとでもいえばいいのだが、要するに神の力だ。神の力が光となって放出されている。
そこでなにが起きているのかまではわからない。
神の考えなど、ベルクにわかるはずもなかった。
夜が明けても、光の柱は西の空を貫いていた。
巨大な光の柱は、まるで天と地を支える神のように君臨し、鬼神の脅威を色あせたものにしてしまっている。
(鬼神の援護は期待できない、か)
そもそも、鬼神の姿が視認できていたときから、援護は期待できないものと成り果てていた。オリアスによって召喚された鬼神は、あるときから連合軍への攻撃を止め、上空に光弾を撃ち始めたのだ。おそらく飛行能力を有した武装召喚師の接近を阻むためなのだろうが、だとしても地上の敵を疎かにするのはいただけない。
(所詮、異界の神よな)
ハ・イスル・ギは、朝焼けの中、静かに立ち上がった。覇獄衆本陣には、彼の供回りでありベスベルとレスベルの武装召喚師が控えている。人数にして十人。戦力としては十分だろう。
覇獄衆は、魔天衆とは逆に飛行能力を持たない皇魔で構成されている。レスベル、ベスベルはいわずもがな、グレスベルやブリーク、ブラテールの数も多く、リョット、ギャブレイトといった大型の皇魔も覇獄衆に属している。もっとも攻撃力の高い軍団であり、魔王軍最強といっても過言ではなかった。
無論、そんなことを口にすれば、メリオルのみならず、鬼哭衆のリュウフブスとリュウディースが怒り狂うだろう。リュウフブスとリュウディースの選民意識は、強烈であり、対立する種族でありながら、その点に関しては協力し合うのだから不思議というほかない。
それをいえば、覇獄衆の一員として手を取り合うレスベルとベスベルも奇妙なのだが、魔王ユベルを主君として仰ぐことで考えが一致したとき、種族間のわだかまりや因縁は消えて失せた。魔王が消えてなくなれば話は変わるだろうが、現状、ベスベルとレスベルが刃を突きつけ合うことはない。
「南東、ウェイル川の対岸に連合軍と思しき小隊を発見した模様」
背後に突如として現れたのは、ハ・イスル・ギ直属の部下のベスベルだ。長距離移動を物ともしない体力と脚力。隠密性から“忍び”と呼ばれた氏族の末裔であり、いまもその秘術を受け継いでいる。
かつては“武士”と“忍び”が、鬼の社会を構成する要素だったのだ。この世界に流れ着いて五百年。“武士”も“忍び”も概念化してしまっている。
「小隊? 囮だな」
彼は断じた。敵が一万以上の大軍勢だということは、既に知れ渡っていることだ。小隊だけ突出しているということは、襲いかかってくれといっているようなものだ。
「ミトラ隊もそう判断し、攻撃を控えておりますが」
「……ウェイル川か」
ハ・イスル・ギ――ハ氏族の戦士イスルは、顎に手を当てて、考えた。クルセルクの地形について詳しくなったのは、彼が魔王の軍門に下ってからのことだ。ウェイドリッド砦、リネンダール周辺の地形についても調べあげている。
リネンダールは、クルセルクの交通の要衝となるような位置関係にあった都市だ。東西南北、四方八方の街道と連なるクルセルクの中心。魔王が都を移すとするならば真っ先に候補に上げられる重要拠点だった。鬼神の犠牲となったことで遷都の可能性は潰えたのだが。
それはともかく、リネンダールが中心地となりえたのは、四方八方に伸びる街道が。ひとが行き来するのに適しているからだ。ウェイドリッド周辺こそ荒れた地形が多いものの、リネンダールの東西南北には難所と呼べるような地形はなかった。
北にはリネン平原が広がり、西にはサマラ樹林が横たわっている。樹林も、交通の邪魔にはならない程度であり、景観の良さは人間にとっては喜ぶべきものだということだった。
そして、覇獄衆が行軍中の東部は、木々の生い茂った大地であり、ウェイル山を源流とするウェイル川が流れているだけだ。ウェイル川の水勢は弱く、底も浅い。川というよりは浅瀬であり、戦場とするにも申し分がなかった。
「ミトラには本隊との合流まで敵の動きを見張らせておけ」
「御意」
“忍び”は、音も立てず消えた。
ハ・イスル・ギは、本陣の武装召喚師――“武士”たちに目配せをすると、ミトラ隊が待っているであろう先陣を目指した。