第六百八十七話 天翔ける翼(三)
「クオールってさ、小ファリアのこと、好きなんでしょ」
マリク=マジクが声をかけてきたのは、二月一日の夜のことだった。
武装召喚師の会議が終わり、連合軍の軍師ナーレス=ラグナホルンと戦術のすり合わせが行われたあとのことだった。マリクは、四大天侍の同僚が防壁展開任務についていて、暇を持て余していたのだろう。でなければ、四大天侍とは関わりの薄い彼に話しかけてくることなどないはずだった。リョハンで顔を合わせても、挨拶を交わす程度の間柄だった。
「い、いきなりなんだよ、おい」
「……わかりやすいにもほどがあるなあ」
マリクの異彩を放つ目が、クオールの心臓を貫くかのようだった。
リョハンの武装召喚師たちが宿として利用する建物の一室。幸い、ファリア=バルディッシュは別室だったし、四大天侍たちは任務に出ている。だれに聞かれる心配もなかった。無論、ファリア・ベルファリア=アスラリアにもだ。
「別に隠してもいないし、知られてもどうってことないが……突然そんなことをいわれたら驚くのも無理は無いだろう」
クオールは苦い顔をした。どうも、マリク=マジクを相手にするのは苦手だった。というより、彼を苦にしないのはファリア=バルディッシュ大召喚師くらいのものだろう。最年少で四大天侍に抜擢された天才中の天才には、他人の心情を理解しようと努力する気配がない。そのことを尋ねれば、他人を完全に理解することなどできないのだから、理解しようとするだけ無駄だ、と切り捨てられたものだ。それからというもの、彼を理解しようとは思わなくなったものの、だからといって苦手意識がなくなるわけではなかった。そして、その苦手意識こそ、クオールが四大天侍を敬遠する原因のひとつになった。
四大天侍。リョハン最高峰の武装召喚師のことだ。リョハンは武装召喚師からなる自衛組織を護峰侍団と名づけている。リョハンの運営を司る護山会議と、リョハンの防衛を司る護峰侍団。政治と軍事。それに対して、四大天侍は、別格の存在として扱われている。リョハンの戦女神ファリア=バルディッシュの支配下にあり、リョハンの守護を司る存在。それが四大天侍だった。
四大天侍に抜擢されるのは、リョハンに数多存在する武装召喚師の中からたった四人だけであり、その門はあまりに狭い。なりたくてなれるものではなかったし、才能と実力がなければ選ばれようもなかった。抜擢理由から人格が軽視されているのは、マリク=マジクを見ればわかるだろう。武装召喚師としての実力が第一なのだ。であればこそ、マリク=マジクの四大天侍抜擢を否定することはできないのだ。
「で、それがどうしたんだ?」
「諦めたほうがいいよ」
窓から差し込む月明かりが、マリクの表情を凍てついたものに見せているのか、彼がそのような顔つきでこちらを見ているのかはわからなかった。おそらく前者だろう。彼は、土足で他人の心の中に踏み込んでくるような人物だが、他意はないのだ。悪意はなく、故に傷つけているということにさえ気づかない。
「そんなことか。そんなこと、わざわざいわれなくてもわかってるよ」
(脈が無いことくらい、とうの昔に気づいているさ)
クオールは叫びたかったが、声音は静かなものだった。叫んでも、彼にはなにも響かないだろう。それどころか、なぜ叫んだのかと聞いてくるかもしれない。それは、考えるだけでも鬱陶しかった。
「セツナだっけ。彼の記憶を見たんだ。カオスブリンガーを無理やり使ったからさ、逆流してきたんだ」
「逆流現象か」
「なんとか押し返したけどね」
マリクが事も無げに言い切ることのほとんどは、一般の武装召喚師には不可能なことだ。彼は平然と七つの召喚武装を呼び出し使役しているが、それは彼が特別だからできることなのだ。ファリア=バルディッシュが天才と認め、特別製といったのは、後にも先にも彼くらいのものだろう。
「それが、どうしたっていうんだ?」
「彼の記憶の中には小ファリアとの想い出がいくつもあったよ。クオールには付け入る隙はなさそうだった。小ファリア、とても幸せそうな顔をしていたもの」
マリクの答えは、クオールの想像を超えるようなものではなかったが、それでも言葉にされると衝撃を受けるものらしい。発した返事は、掠れていた。
「そうかい」
「友人としての忠告、だよ」
「はっ」
クオールは笑い飛ばしたくなった。
(友人? おまえがか?)
言葉には出さなかった。
出せば、負けだ。
彼に負けたことになる。
勝手な思い込みかもしれないが、彼はそう思った。
「小ファリアのために、だなんて考えるのはやめることだね」
(余計なお世話だ)
胸中で吐き捨てて、椅子から腰を上げる。
「どこへ――」
行くのか? と聞いてきたのだろうが、クオールは、軽く手を上げただけでなにも答えなかった。
宿を出て、目的もなく歩いた。砦内の各地に設置された魔晶灯の光が、ウェイドリッドの夜を妙に明るいものにしている。哨戒中の兵士と遭遇することもあったが、だれも彼に声をかけてくることはなかった。
リョハンの武装召喚師の格好は、とにかく人目についた。
(ファリアが幸せならそれでいい)
言い聞かせるようにつぶやいていることに気づいて、歯噛みする。
長い付き合いだ。
子供の頃から、彼女の横顔を見ていた、正面からではなく横からなのは、まともに見つめ合うのが恥ずかしかったからに他ならない。彼女自身はいつだって屈託なく、真正面から見つめ合うことにも億劫ではない。話しかければ元気よく答えてくれたし、どんな話題にだって乗ってくれた。
光だった。
引っ込み思案なクオールにとっては、彼女だけが唯一自分を照らしてくれる光だったのだ。
子供の頃の記憶。
いまはもう、幻想の彼方に沈んでしまっている。もう二度と浮上することはない。なぜならば、失われた過去を取り戻すことなどできないからだ。
時は戻らない。
進めることしかできないのだ――。
「――光を見たんだ」
クオールが、急速旋回しながら告げてきた。
「ずっと昔。多分、セツナ様が生まれるより前のことだと思う」
思い出話に耳を傾けている場合ではないことなどわかっていたが、セツナには、彼の話を聞くことしかできなかった。クオールは、間違いなく目的地に近づいているのだ。凄まじい弾幕のせいで近づくこともままならないだけで、彼の翼は休むことなく飛び続けている。
「光は、柔らかくて、暖かくて、穏やかで……俺の寒い心を包み込み、導いてくれた」
光弾が翼を掠めた。それだけで翼が火を吹き、彼が苦痛に呻く。掠めただけで、強烈な衝撃が伝わっているのだ。それでも、彼は飛ぶことを止めない。
「光は、次第に強く、烈しく、その輝きを増していった。俺は、その光の成長を見ることができて、ただそれだけで幸福だった」
巨鬼の攻撃は、苛烈さを増していく。だが、単調だ。撃ち落とせないことが逆上を誘ったのかもしれない。怒りに駆られれば、いかに異世界の神といえど、単調な攻撃にならざるをえないようだった。そして、単調な攻撃ならば、いかに苛烈であっても回避するのは難しくない。クオールは加速と減速、上下移動と回転を織り交ぜながら、嵐のような光弾の弾幕を見事にかわしていく。
「側にいられたことも大きかったんだろう。俺は、それだけでよかった」
燃える翼も足の負傷も、意に介さないとでもいうかのように、飛んで行く。
「だから、彼女の幸せがあなたの側にいることなら、それでいい」
巨鬼が残る二本の腕を持ち上げた。光球が四つに増え、弾幕の密度が増した。
「俺があなたの翼となり、彼女の幸福を守ろう」
クオールがレイヴンズフェザーで大気を叩き、反転、天に向かって急加速した。滲んだ蒼が無限の広がりを見せていた。光弾が背後から迫ってくる。巨鬼が執拗に狙っているのがわかる。なにがそこまで巨鬼を駆り立てるのか、セツナにはわからない。だが、これが軍師の狙いならば、思惑通りに事が運んでいるということにほかならない。
高高度に至り、全身が冷えていくのがわかったが、クオールがなぜ巨鬼への接近を諦め、上空に飛び上がったのかは理解できなかった。巨鬼から離れれば弾幕の密度は薄くなるものの、それで巨鬼が攻撃を諦めてくれるはずもない。光弾の嵐に光線や蛇行する光芒が混じっている。さらにはクオールを追尾する光線もあり、多種多様な攻撃手段には、舌を巻くしかなかった。そして、その尽くを回避するクオールにも、驚嘆を覚える。
不意に、クオールが飛行速度を緩めた。彼の眼前を光の帯が通過していく。それだけではない。莫大な数の光弾がクオールとセツナの周りを突き抜けていった。光の奔流に飲まれたのではないかと錯覚するほどの光量に目眩がする。
「ウェイドリッドから直線での接近は、レイヴンズフェザーの超加速をもってしても不可能だった。近づけば近づくほど弾幕は厚くなる。縫う間隙さえもなくなっていく」
「クオールさん?」
「だが、落下速度を加味すれば、レイヴンズフェザーの超加速は極限に至る。巨鬼が繰り出す攻撃と攻撃の刹那、極限の超加速によって、あなたを目標に到達させる。あとは、あなたの仕事だ」
クオールが、横顔を見せた。
決意が宿る瞳には、巨鬼の光が反射していた。