第六百八十四話 前夜(二)
「戦場で……か」
サリウスが階下に降りるのを見送ってから、セツナは大きく息を吐いた。意識してはいなかったものの、緊張していたらしい。猛烈な脱力感が彼の全身を襲った。
「サリウス様があのような方だとは思いもよりませんでしたわ」
などと背後からいってきたのは、レム・ワウ=マーロウだ。彼女は、サリウスがいる間はそこに存在しないかのように沈黙を保っていたのだ。
「どんな方だと思っていたんだよ」
セツナが彼女を振り返ると、黒衣の少女は小首を傾げた。
「男色家……?」
思いがけないレムの回答にセツナは頭を抱えたくなった。サリウス・レイ=メレドが男色家なのは、有名な事実だ。美少年ばかり侍らせていることからも想像できることだったし、一向に后を迎え入れる気配がないということが、その想像を加速させた。もっとも、サリウスは同性愛者だということを隠してはいないし、むしろ公言してさえいるようだ。
ヴァシュタラの教義は、愛に寛容なのだという。
「それはそうなんだろうけどさあ、ほかになんかないのか」
「死神部隊は、ジベルの暗躍機関で各国の情報を集めるのも仕事でございましたが、メレドについては疎くて」
「それでいいのかジベルの暗躍部隊」
セツナがいったのは、レムがそんな内情まで話しても大丈夫なのか、ということでもあった。使用人気取りの死神少女の言動を気にしてもしかたがないのかもしれないが。
「その分、ガンディアやザルワーンの内情には詳しく調べあげていたのですわ」
「なるほど……って納得できるか」
「隣国と、少し離れた国とでは、調べられる情報の量も精度も違いますし」
「むう……」
セツナは口をへの字にすると、胸の前で腕を組んだ。すると、レムは話題を変えてきた。
「なんにしても、明日からは本番でございますよ、ご主人様」
「ああ。レムとの付き合いもそれで終わりだ」
連合軍が結成され、魔王を降すまでが、彼女の護衛任務期間だった。クルセルクとの戦争が終われば、彼女は晴れてジベルの死神部隊に返り咲くことができるのだ。もちろん、すぐさま敵対関係になるわけではない。ジベルがガンディアに喧嘩を売るような真似でもしないかぎり、ガンディアがジベル領土に侵攻する理由はない。もちろん、レオンガンドが小国家群統一という目標を掲げる以上、いつかはなんらかの行動を起こすことになるだろうが、それは近い将来のことではない。少なくとも、連合軍を通じて良好な関係を結んだ国を即座に攻め立てるとは、考えにくい。
が、セツナとレムのこの奇妙な関係は終わる。彼女は護衛という名の使用人気取りをやめ、セツナも彼女のご主人様をやめることになる。
「そうでございますね。寂しゅうございます」
「そうだな」
「はい?」
レムは、きょとんとしたようだった。こちらを見る闇色の目に疑問符が浮かんでいる。
「寂しいかもな」
「またまたご冗談を。そんなことをいっていると、おふたりに怒られますわよ」
「……そうだな」
同意したが、ミリュウはともかく、ファリアがそのようなことで怒るとは思えなかった。もちろん、真実はわからない。彼女が自分のことで嫉妬してくれるのならこれ以上なく嬉しいし、なんとも思っていなかったらそれこそ寂しいと感じるかもしれない。
「やーっぱりここにいたー!」
大声に驚いて階段を見ると、ミリュウ=リバイエンが駆け上ってきたところだった。月明かりを反射する赤毛は、闇夜にも目立った。彼女の後に続いて、ファリア・ベルファリア=アスラリアが屋上に登ってくる。
「権力者は高いところを好むとはよくいったものね」
「領伯様ですし」
ルウファ・ゼノン=バルガザールがしれっとした顔で混じっているのが、妙におかしかった。彼はエミル=リジルと一緒にいるか、ナーレスに扱き使われているかの印象しかない。彼こそ《獅子の尾》の副長なのだが。
「そうそう、ガンディアで二番目に偉いのよねえ」
ミリュウが、自分のことのように嬉しそうな表情を浮かべながら、セツナに近づいてきた。そして、あと一歩という距離まで近づくと、長い腕を伸ばしてくる。首に絡みつかせるつもりなのだろうと思い、セツナはかわさなかった。たまには甘えさせるのも悪くはない。そんな気分になっている。
ミリュウが頬ずりしてくるが、それも止めなかった。ミリュウがセツナの頬の冷たさに驚くのを待ってから、言い返す。
「いや、さすがにそこまで偉くないだろ」
「でも、ガンディアにおける領伯の立ち位置は、陛下に次ぐものだということは認識しておくべきよ。君は自分の立場というものをあまりに軽く見がちだから」
ファリアの凛とした声は、耳心地が良かった。たとえ辛辣な言葉であっても、すっと頭に入ってくる。単純に好意の有無の問題なのかもしれないが。
「なんなんだよ……説教かよ……」
「そうじゃなくて」
「明日、決戦なのよ」
「領伯ともあろうお方が、決戦前夜のこんな時間にこんなところにいるのは感心なりませんなあ」
ファリアとミリュウにつづいて、ルウファが冗談めかしくいった。なんとも穏やかな雰囲気だ。柔らかく、緩やかな空気が、寒空の下でたゆたっている。
「そうだな」
「ご主人様、さっきから「そうだな」ばかりでございますですね」
「そうだな」
「またいった」
「どうしたの?」
怪訝そうなミリュウの視線と、心配そうなファリアのまなざしに、苦笑をもらしてしまう。隊長ともあろうものが、部下たちに不安を与えてどうするのか。セツナは努めて明るく振る舞った。
「どうもしていないさ。俺はただ、幸福だなって思っただけだよ」
言い切ると、セツナ以外の四人は一瞬、沈黙した。彼がなにをいったのか理解できない、というわけではなさそうだったが、反応の遅れは、セツナに多少の不安を与える。
「そうよねえ、こんな美女に全力で愛されるなんて、幸せ以外のなにものでもないわよねえ」
くねくねと体を揺らしながら嬉しそうにいってくるミリュウに対して、セツナは、素直にうなずいてみせた。
「ああ」
「えっ!?」
「なんでそこで凍りつくのよ」
「ミリュウ様は積極的なのか、初なのか、どちらなのでございますかね」
「両方入り混じってるからややこしいんだよね」
ファリアとレムがあきれ、ルウファが笑った。ミリュウはセツナに抱きついたまま、凍りついており、解凍するまでは宿舎まで戻ることはできなさそうだった。
セツナは、顔を真赤にして固まってしまったミリュウの横顔を見て、微笑んだ。幸せを噛みしめるように実感する。
自分がいて、ファリアがいて、ミリュウがいる。ルウファがいて、レムがいて、セツナを見てくれている。受け入れてくれている。必要としてくれてさえ、いる。居場所がある。ここにいてもいいのだという確信を抱いていられる。
それは、戦う力になる。
(この幸福な時間を長続きさせるには、クルセルクに勝つことだ。そのために、俺がいる。俺が、やる。鬼を討つんだ。この手で)
リネンダールに召喚された巨鬼は、守護龍よりも強敵なのは明らかだ。無敵の盾がない以上、直撃を受ければ死ぬかもしれない。いや、死ぬだろう。だが、セツナはひとりではない。仲間がいて、武器がある。それもとっておきの武器だ。天才武装召喚師が手におえないほどの代物なのだ。
(黒き矛……当てにしてるぜ)
セツナは、その思いを胸にしまいこんだ。
「決戦か」
ユベル・レイ=クルセルクがゼノキス要塞に入ったのは、二月一日のことだ。
首都クルセールの魔王城の玉座にでも座っていればいいというオリアス=リヴァイアの進言を無視した格好になったが、オリアスはむしろ、ユベルの到着を待ちかねていたようだった。
ゼノキス要塞天守の司令室には、オリアス=リヴァイアと彼が側近として連れている人間の将校しかいなかった。皇魔は、ユベルとともに室内に入ってきたリュスカだけのようであり、リュスカの存在は、司令室の将校たちに少なからず緊張を与えたようだ。
魔王よりもリュスカのほうが、緊張するのは人間として当然のことだ。皇魔リュウディースの女王である彼女は、人間のような目を作ってはいても、外見は人外異形の化け物にほかならない。どれだけ取り繕おうとも、人間と皇魔の差異を誤魔化すことなどできないのだ。
「魔天衆の斥候部隊によれば、ウェイドリッドの連合軍もこちらの動きに気づいたようです。数日以内にウェイドリッドを出るでしょう。もちろん、撤退する気配はなさそうです」
ユベルは、オリアスに促されるまま、司令室の中央に配置された円卓に近づき、覗き込んだ。円卓の上には、地図が広げられている。クルセルクとその周辺国の地図は、魔天衆の斥候部隊が各地を飛び回って得た情報を元に描き上げられた最新のものであり、小国家群でもっとも優れた地図といってもいいだろう。
クルセルクは、ザルワーンの北東、アバードの真東に位置する国だ。ハスカ、ニウェール、リジウル、ノックスを飲み込んだことで国土は拡大したが、主戦場となっているのは、それらの国を併呑する前のクルセルク本来の土地だった。
首都クルセールは、クルセルク最北の都市であり、ゼノキス要塞がその南に位置している。要塞の南西にランシードがあり、遠く南にリネンダール、ウェイドリッド砦がある。セイドロック、ゴードヴァンはさらに南の都市であり、決戦の地からは遠く離れている。
オリアスは、ゼノキス要塞とウェイドリッド砦にいくつかの駒を置いていた。駒は、クルセルクと連合軍の戦力であろう。
「連合軍は当初、軍を四つに分けていました。ランシード、セイドロック、ゴードヴァンの三都市を攻略するための三軍団と、ザルワーンで魔王軍を待ち受ける一軍団。それらは見事なまでの勝利を得、我がクルセルク領が戦場になったわけです」
それは、オリアスの思惑とは異なる展開だった。彼は、緒戦でガンディア領土を攻め滅ぼすつもりでいた。
三万もの皇魔を動員したのだ。これで勝てないはずがない。負けることなどありえないような陣容だった。だが、負けた。ザルワーンに動員した皇魔の軍勢は大敗を喫し、ベルクの判断によって撤退した。三都市が同日中に陥落したことも、オリアスにとっては想定外の出来事だった。無論、ユベルにとってもだ。
開戦当初から今日に至るまで、オリアスの思惑通りにはいったのは、リネンダールでの召喚とそれに伴う連合軍の進軍停止、その隙をついた三都市の奪還である。それで戦況は持ち直したといっていい。
連合軍をウェイドリッド砦に閉じ込めることに成功したのだ。そして、連合軍が籠城戦でも始めようものなら、それで終わりだった。リネンダールに降臨した神の一撃は、ウェイドリッド砦ごと連合軍を灰燼に帰するからだ。
そうなれば、ユベルは魔王の名をほしいままにすることになったのだが、どうやら完全な魔王になるにはまだ早いようだった。
「今回もいくつかの軍勢に分けるのは明白。連合軍がこちらの動きを察知しているということは、こちらが三つの軍団をウェイドリッドに差し向けていることも理解しているはず」
オリアスは、ゼノキス要塞の駒を三つ、リネンダールとの中間に配置した。ハ・イスル・ギ率いる覇獄衆、ベルク率いる魔天衆、メリオル率いる鬼哭衆の三軍団が、ゼノキス要塞から出撃している。それぞれ一万前後の皇魔を率いているといい、約三万の連合軍に打ち勝つには本来ならば十分な戦力だった。
魔王軍総司令は、ウェイドリッドからも駒を三つ出撃させた。リネンダールを挟んで、それぞれの駒と対峙させるように配置する。
「ここに至るまでの戦闘で数多くの兵を失っているとはいえ、連合軍の戦力を侮ることはできません。なにせ、ザルワーンでの戦いでは、二万に満たぬ兵力で三万の皇魔を撃退したのです」
通常、考えられないことだ。オリアスが慢心していたわけでも、皇魔の力を過信していたわけでもない。ましてや、人間の力を見くびっていたこともない。正当な評価だ。人間が皇魔に敵わないのは、自然の理なのだ。
その理を覆したのは、ほかならぬ武装召喚師だ。リョハンの戦女神や四大天侍と呼ばれるものたちが現れた途端、戦況がひっくり返ったのだ。それほどまでの力を持っている。
「しかし、連合軍が我々との決戦に応じるというのなら、戦神を無視することはできないでしょう」
オリアスは、ウェイドリッドの駒をひとつ、リネンダールに置いた。
「黒き矛、あるいはリョハンの戦女神を当てるのは想像に難くない……か」
「そう、連合軍の戦力は半減するといっても過言ではないのですよ」
クルセルク本土での戦いも、ガンディア領土での戦いも、連合軍の勝利を決定づけたのは、絶大な力を持つ武装召喚師にほかならない。
その武装召喚師たちを本隊から引き離し、なおかつ撃破することができれば、クルセルクの勝利は疑うべくもないのだ。