第六百八十三話 前夜(一)
『死ぬな』
声が、遠い。
『死んじゃ駄目だ』
いつも、なによりも近くから聞こえるはずの声が、妙に遠く聞こえる。
『ぼくを置いていくのか』
遠く、遠く。深く、深く。沈んでいくようだ。いや、沈んでいるのは自分のほうなのかもしれない。
『ぼくたちは、ふたりでひとりじゃなかったのか』
沈む。地の底へ。墓穴の底へ。
『嫌だ』
泣いている。詰るように、泣いている。
『置いていかないでよ』
どうして、泣く必要があるのか。
『ひとりにしないで』
喜ぶべきではないのか。
ようやく魂が本来の形に戻るのかもしれないのに。
『寂しいのは、嫌――』
だからといって、死人の魂を呼び戻すことはないだろう。
彼は、そんなことを考えながら、重いまぶたを抉じ開けた。魔晶灯の冷ややかな光が目に突き刺さるようだった。そして、全身に走る激痛に小さくうめいた。
(なんで痛いんだ……?)
死んだはずの人間が痛みを感じることなどあるはずがない。
彼は、茫然と理解した。
「生きてる……」
ガ・サラ・ギを撃破したとき、瀕死の重傷を負ったはずだった。腹を貫かれ、内臓をやられたのだ。奇跡でも起きないかぎり、生を繋ぐことなど不可能に近いのではないか。
暗い部屋だ。魔晶灯の光だけがその闇を引き裂いている。そんな中、健やかな呼吸音が聞こえている。顔を横に倒すと、寝台に突っ伏した少年の頭頂部が見えた。特徴的な長い頭髪からだれなのかわかる。ヴィゼン=ノールン。彼の半身。
「どうして?」
シュレル=コーダーは、ぼんやりとした意識の中で、ヴィゼンの頭だけを見ていた。
二月一日。
ウェイドリッド砦の夜は、静寂に支配されている。連合軍によって制圧された当日こそ喧騒と混乱に包まれていたものの、五日が経過したことで、住人の反発は収まっていた。
もっとも、その沈黙の原因は、リネンダールからの砲撃への恐怖であることは疑いようがない。今に至るまで、リネンダールの巨鬼の攻撃がウェイドリッド砦の上空を越えていくこと数度。そのたびに凄まじい衝撃波と大気を劈く轟音がウェイドリッド砦を震撼させた。そして、ついさきほどの攻撃は、四大天侍の構築した防壁に直撃したようであり、大地そのものが震えたかのような余波がウェイドリッドを襲った。
(狙いが定まったのか)
夜中、頭上には満天の星空が広がっている。月が巨大に感じるのは、高い塔の天辺にいるからかもしれない。星と月と透明な大気と、そして冷気が、冬の夜を演出している。
眼下にはウェイドリッド砦が、静寂の中に横たわっている。その沈黙と闇が支配的な空間には、何万もの将兵が息を潜めているはずだ。談笑しているものもいるかもしれないし、とっくに眠りについているものもいるだろう。明日には、出発しなければならない。ウェイドリッドで休んでいられる時間はもうわずかだ。
なればこそ部屋に戻って眠るべきなのだが、寝付けないというのが実情だった。
どうやら、精神が興奮状態にあるらしい。
「セツナ伯、こんなところにいたのか。探したよ」
不意に背後から投げかけられたのは、落ち着いた声音だった。振り返ると、月明かりの下、美丈夫が悠然と佇んでいる。親衛隊の少年たちは、彼の周囲を彩る花のようだった。だれもが美々しく着飾っている。
サリウス・レイ=メレドと彼の親衛隊は、ただ底に存在するだけで場の空気を変えるのだ。
しかし、セツナには、サリウス王がここに登ってきている理由がわからなかった。出陣を明日に控えている。連合軍首脳陣に名を連ねるメレドの国王が、夜中に出歩くべきではない。
「サリウス陛下……?」
「シュレル=コーダーが意識を取り戻してね。領伯殿に一言礼をいわねばと思い、探していたのだよ」
「礼なら、俺じゃなくてファリアにいってあげてください。シュレル殿の命をつなぎ留めたのは、彼女の召喚武装であって、俺じゃありませんから」
セツナがいったのは、謙遜でもなんでもなかった。瀕死の重傷を負ったシュレル=コーダーを死の淵から救い上げたのは、オーロラストームの能力である“運命の矢”なのだ。ファリアがいなければ、彼が一命を取り留めることはなかったかもしれない。
「しかし、セツナ伯がファリア殿に命じてくれたからだろう? 聞いたよ。彼女が“運命の矢”なる能力を使うことなど稀だそうじゃないか」
「それは……そうですけど」
セツナは、サリウスの言葉を不承不承肯定した。ファリアが“運命の矢”による人命救助を極力行わないようにしているのは、“運命の矢”の作用によって一命を取り留めるどころか、死に至らしめる可能性もあるからだった。
“運命の矢”は、生命力を活性化させることで、対象の自己治癒力を極限まで高めるという能力だ。その能力によって、セツナは全身火傷から回復し、生還した。治癒能力を持った召喚武装が少ないこの世界において、オーロラストームの能力は特異であり、異質であるとさえいえる。しかし、その能力の強烈さは、代償の深刻さも示している。“運命の矢”は、対象の寿命を削ることによってのみ発揮される能力なのだ。一年なのか、二年なのか、それとも十年、二十年なのか、本来生きられるはずの時間を奪うことで、火傷を消し去るほどに生命力を活性化させる。
瀕死の対象に“運命の矢”を使った場合、その寿命のすべてを奪ってしまい、結果的に死亡させてしまうかもしれないのだ。
「領伯殿に感謝するのは当然のことだ。無論、ファリア殿にも感謝している。シュレルは、わたしにとってもヴィゼンにとっても大切な存在なのだ。生きていてくれてよかった」
サリウスはほっとしたようにいった。ヴィゼン=ノールンの姿はない。おそらくシュレルにつきっきりなのだろう。悪態を付き合う割には仲の良さを隠しきれていなかったのが、あのふたりだ。どちらも美しい少年であったが、ヴィゼンの蠱惑的なまなざしというのは男にさえ魅力的に映る。
「それだけをいうために、わざわざ?」
「ああ。おかしいかね?」
サリウスが、微苦笑をもらした。一国の王が、その程度のことで頭を下げに来るのは異常だといえなくもなかった。それだけに、サリウスがいかにシュレル=コーダーを大事に思っているのかがわかるというものだし、彼の命を救うために奔走するヴィゼンたちの必死さに胸を打たれたのは、当然の話だったのかもしれない。
セツナがシュレルの容態を知り、手助けを申し出たのはつい昨日のことだ。隊長権限を行使して、ファリアに命令を下している。ファリアは、隊長命令ということで渋々従ってくれたのだ。彼女が“運命の矢”を嫌うのはわからないではないのだが。
「いえ……」
セツナが首を振ってから、しばらくの間、沈黙が続いた。口を開いたのは、サリウスだ。
「明日、クルセルク戦争は最終段階に移行するという話だったな」
「はい」
「巨鬼は、領伯殿の担当という話だが……」
サリウスは、北を見た。ウェイドリッド砦の北方の都市リネンダールがあった場所に、倒すべき敵がいるはずだった。夜の闇の彼方。常人の目では見えるはずもない。召喚武装を手にした武装召喚師の目でなければ、影を見ることすらかなわない。
途方も無く巨大で凶悪な化け物。異世界の生物であり、破壊の化身。
セツナは、拳を作ると、自分の胸に当てた。厚手の隊服の上から、さらに分厚い外套を着込んでいる。でなければ寒さに負けてしまうほどの気温だった。
「任せてください。俺が、倒します」
「ザルワーンの守護龍を倒した領伯殿のことだ。必ずや成し遂げてくれると信じている」
サリウスがこちらを振り返って、続けた。
「だが、死ぬなよ。君にも、シュレルにとってのわたしやヴィゼンのようなものがいよう。そういったひとたちを悲しませるような真似だけはしないでくれ」
「はい」
「いい目だな……」
そういうサリウスのまなざしも、刃のように研ぎ澄まされていて、決戦を目前に控えた戦士に相応しいものに思えた。
「さて、わたしは降りるよ。領伯殿もさっさと寝たほうがいいぞ。風邪を引いては、その覚悟も台無しだ」
「肝に銘じておきます」
「うむ。では、戦場で」
「戦場で」
セツナには、塔を去りゆくサリウスの背中が大きく見えた。器の大きさというものなのかもしれない。