第六百八十一話 鬼神と皇魔
「戦況は一変した。雑兵共の死も無駄にはならなかったか」
ハ・イスル・ギは、胸の前で腕を組み、厳しい表情をいつも以上に厳しくしていた。彼は、元来の顔つきが厳しいのだ。蒼戦鬼にせよ、紅闘鬼にせよ、凶悪な面構えなのは生まれつきであり、そこに男女の別はなかった。ベスベルとレスベル、グレスベルは同じ世界からこのイルス・ヴァレに紛れ込んだようなのだが、それによって生じたのは、他種族以上の絶縁であり、敵対心であるらしい。
元々、レスベルとベスベルは敵対関係にある種族であり、それがこの世界にきて顕在化した、ということのようだ。また、グレスベルは両種族の支配下にあり、レスベルとベスベルの戦いは、グレスベルをいかに多く支配下に置くことができるかにかかっているといわれる。
戦局を左右するのは、いつだって数なのだ。物量こそが、勝利を決定づける。物量を覆す個の存在を認めるべきではない。が、連合軍は、そういった“個”の力によって勝利を得てきている。そして、クルセルク側も絶大な“個”の力によって戦況を引っ繰り返そうとしている。
「いや……無駄死は無駄死だ。評価を変える必要はなかろう。人間如きに遅れを取った事実は消えないものだ」
「メリオル殿は辛辣だな」
ベルクは、窓の外を眺めるリュウフブスの横顔をぼんやりと見ながらつぶやいた。青ざめた澄まし顔は、リュウフブスの常であるとベルクは認識している。リュウフブスは、リュウディースと同じ世界から、この地に足を踏み入れてしまった種族だ。この世界の人間に酷似した姿をしていながらも、青白い肌と皇魔特有の赤い眼が、人間との違いを明確にしている。さらさらの白髪と額に生えた一本角はリュウフブスの種族的特徴でもある。美的感覚は人間と近いらしく、人間から見ても美しいといえるような容貌は、ベルクたちウィレドとは相容れない要素のひとつだ。
ウィレドは、銀魔鷹と同じ世界に発生した種族だ。人間からすれば醜悪極まる外見をしており、悪魔と呼ばれることも多い。暗紅色の外皮と背に生えた一対の飛膜、醜悪な容貌は、人間にとっては馴染み深く、故にもっとも恐れられていた。
こんな世界に紛れ込まなければ、破壊と混沌に支配された天地で暴れ回っていたに違いない。もっとも、ベルクには故郷の記憶はない。この世界で生まれたからだ。それはメリオルやハ・イスル・ギも同じであろう。というよりも、現在、この大陸に生息するほとんどすべての皇魔が、故郷のことなど覚えていないのだ。言葉によって語り継がれる物語が、故郷に帰りたいという想いを強くする。しかし、そう簡単には帰れないということもわかっている。
(五百年)
五百年だ。
皇魔がこの世界に紛れ込み、人類との生存競争を始めてから、五百年もの時が流れている。
帰る方法があるのなら、とっくに見つかっていても不思議ではない。
方法が見つからないから、この世界で生きていくしかない。生きていくためには、生命を脅かす敵を倒すしかない。人間を殺さざるを得なくなる。
人間を殺さなければ、こちらが滅ぼされ尽くすだろう。
(それが道理)
ベルクは、赤い目を細めると、窓の外の雲行きの怪しさにうんざりとした。ここのところ、ゼノキス要塞周辺の天候が狂っているようなのだ。晴れた空を游ぐことだけを楽しみにしている彼には、曇り空も雨空も不要なのだ。
「辛辣? 冗談をいってもらっては困るな。戦力差を考えれば、我々が圧勝して当然だったのだ。それが蓋を開けてみればどうだね。惨敗も惨敗ではないか」
メリオルがこちらを一瞥した。赤く輝く眼。すべての皇魔が、そういう目をしていた。聖皇が召喚した神ではないことの証明だという。烙印だという、極印だともいう。
皇魔たちは目を奪われ、眼を得た。果たしてそれは得たといえるのかどうか。
血塗られた呪いの印のようだと、彼はいつも思う。
『我々は存在そのものが呪われている。この世に祝福された人間と敵対するのは、自然の理。逆らう必要はない。殺し、殺されるのだ。それが摂理』
大君の言葉を思い出したのは、この戦争で、人間を殺さなければならないからかもしれない。
ベルクは、これまで人間殺しを避けてきていた。
「また俺に説教ですか」
「いや……今回ばかりはわたしの不明を恥じるよ」
「はい?」
「我々は、魔王陛下に選ばれたたった三名の皇魔将だということだ」
「ふむ」
「力を合わせるべきだと、考えなおした」
「ほう……殊勝な心がけだ。貴様らしくもない」
ハ・イスル・ギが笑うと、メリオルが不愉快そうに目を細めた。力こそすべてのベスベルと、魔力の質量に重きをおくリュウフブスの息が合うはずもないのだ。
「なんとでもいえ。わたしは人間に侮られるなど我慢ならんだけだ」
「だれが侮りますか」
ベルクは、メリオルの憤りに苦笑を覚えざるを得なかった。皇魔を侮る人間などいるはずがない。素の力が違うのだ。どれだけ圧倒的な勝利を得たとしても、それが人間と皇魔の実力差だということを声高に叫ぶものもいなければ、信じるものもいない。
武装召喚師だけが皇魔を圧倒している。そして、その少数精鋭の力が強大に過ぎるのだ。そのわずかばかりの強者によって、三万近い皇魔がガンディア領土から駆逐され、三都市の防衛部隊が撃滅させられた。数えられる程度の戦力で、だ。
恐るべきことだ。
人間に恐怖を覚えることなどあってはならないというのに、あの戦場を思い出すだけで震えがきた。恐怖は、怒りに変わった。なぜ、人間などを恐れなければならないのか。無力な弱者たちに震えなければならないのか。
「そうだ。ベルクのいう通り、だれも我らを侮りはしないだろう。だからこそ、協力するべきではある」
ハ・イスル・ギが腕組みを解くと、壁際からこちらに歩み寄ってきた。ゼノキス要塞の一室。室内には、皇魔の三将軍しかいない。そこは皇魔の隔離区画でもあり、人間がいないのは当然でもあった。
「で、具体的にどうするんです?」
ベルクは、メリオルに尋ねた。メリオルとイスルに対しては下手に出るのがベルクの常套手段だった。権力を着飾る種類のものには、上目遣いに話しかけるくらいでちょうどいいのだと、彼はクルセルク暮らしの中で学んでいた。
「……オリアス師は、リネンダールに鬼神を召喚された。それによって敵連合軍は、ウェイドリッドに留まらざるを得なくなった。そして、その隙をついてわたしの配下がランシード、セイドロック、ゴードヴァンの三都市を奪還した。ここまでは把握しているな?」
「ええ、もちろん」
メリオルがオリアスの名を口にするときだけ表情が緩むのが妙におかしくて、ベルクは笑い出しそうになるのを必死になって堪えなければならなかった。人間を見下しきっている自分たちが、オリアス=リヴァイアという一個人に対してだけは絶賛せざるを得ないというのが、皮肉めいている。
オリアス=リヴァイアは、彼らを始めとする皇魔たちの武装召喚術の師匠であり、新たな力を与えてくれたオリアスに対して、皇魔たちは素直に感謝していた。感謝するどころか、心の底から尊敬するものもいたし、オリアスに個人訓練を求める皇魔も少なくなかった。神のように崇めるものもいたが、オリアスがリネンダールに鬼神を召喚したことで、神格化が加速するのは間違いなさそうだった。
鬼神。
クルセルクにとって重要な都市であるリネンダールを犠牲にしてまでオリアスが異世界から召喚した神は、その絶大な攻撃力で、連合軍の動きを止めた。
オリアスによれば、ザルワーンの守護龍よりも凶悪なため、術者による制御は不可能に近いという。
「これによって連合軍は補給路を絶たれ、長期戦は不可能となった。打って出るしかないが、陛下のおられるクルセールとウェイドリッドの間には、鬼神がいる」
「連合軍の目的は魔王の討伐であろう? 鬼神を相手にするとは思えないがな」
「鬼神を相手にするかどうかなど、関係ないのだ。鬼神は、リネンダールに存在するだけで連合軍への圧力となる。知っているかね」
メリオルは、底冷えのするような笑みを浮かべた。
「鬼神の攻撃は、リネンダールからクルセールまで届くのだ」
つまり、連合軍が鬼神との戦闘を避けようとも、どうにもならないということにほかならなかった。