第六十七話 白の鼓動
「……話には聞いていたけど、これは想像以上ね」
リノンクレア・レーヴェ=ルシオンの第一声は、それこそ予想通りといってよかったのかもしれない。猛火によって焼き尽くされた小さな街の有様を目の当たりにしたのだ。至極全うな反応であり、そんな予想が的中したところで喜ぶようなこともない。
曇天の下、まさに廃墟のような街並みが広がっている。いや、街並みなどとは到底いえない光景だった。ランカイン=ビューネルがもたらした災禍の炎は、この小さなカランという街を紅蓮の猛火で焼き尽くし、原型を留めぬほどの破壊を振り撒いたのだ。街の大門も、道路も、立ち並んでいたはずの家々も、様々な建築物も、武装召喚師の狂気の炎に飲まれ、その本来の姿を失っていた。
ファリア=ベルファリアは、復興の兆しすら見当たらない街の様子に軽い眩暈を覚えた。カラン滞在中、何度となく見た光景である。網膜に焼き付いているといっても過言ではないくらいに見慣れた景色だ。しかし、それでもやり場のない怒りが込み上げてくるのをどうすることもできない。
多くのものが失われた。無数の人命がこの世から消え去り、カランは街としての機能のほとんどを失った。残された人々の眠る場所の確保さえも難しかったものの、ファリアたちの活躍によって、食料とテントだけは掻き集めることに成功した。もっとも、それらを十分とはいかないまでも整えることができたのは、夜明け前のことである。
カランから最も近いメレルから物資を取り寄せ、王都やクレブールへ応援を要請する一方で、被災した住民の心も安んじなければならなかった。
ファリアは、二日ほど一睡もできなかった。それは、彼女の同僚やサリス=エリオンら警備隊の隊員たちも同様であり、彼女らが多少の安堵とともに眠りにつけたのは、クレブールからの応援が到着してからだった。
「許せないわね」
「はい」
リノンクレアのつぶやきに同調しながら、ファリアは、カランに訪れようといってくれた彼女に心の底から感謝していた。同時に、彼女への敬慕をより深いものにする。リノンクレア・レーヴェ=ルシオン。王女として生まれながら、〝うつけ〟ことレオンガンドに代わって戦場に立ち、幾多の戦いを切り抜けてきた人物であり、その経験、技量、人格、すべてにおいて尊敬すべきところを見出すことができた。
彼女のような在り方は、ファリアにとって理想かもしれない。
ファリアは、ふと気になって後方を振り返った。見目麗しき白聖騎士隊の女性騎士たちは、隊列ひとつ乱すどころか私語さえも交わしていない。だれもが、カランの有様に驚き、愕然としている風に見受けられた。
それは、ルウファ=バルガザールも同じだった。いや、彼のほうが動揺は大きかっただろう。彼は、ガンディアの国民である。ルシオンの騎士よりも強く衝撃を受けていたとしてもなんら不思議ではなかった。
ちなみに、皆馬車や馬から降りていた。歩いて見て回りたいというリノンクレアの方針に従ったのだ。だれひとり不満を漏らさないのは、彼女の人徳によるものが大きいのだろうか。
七月十三日。
一行が王都ガンディオンを出発して一日が経過していた。相変わらずの空模様ではあったが、一向に雨が降り始める気配はなかった。とはいえ、鉛色の雲に覆われた空と湿った空気は、リノンクレアの帰国を華やかに彩るはずもなかったが。
そして、カランである。
一行の足取りは、いよいよ重くなっていた。
不意に、リノンクレアが口を開いた。
「でも、この怒りはどこにぶつければいいのかしら? もはや、ランカイン=ビューネル本人にぶつけるわけにもいかないでしょうし」
「どういうことですか?」
ファリアは、怪訝な表情を浮かべた。突然そんなことを言い出したリノンクレアの真意がわからなかった。ランカインは、セツナの活躍もあって確保され、王都ガンディオンに移送されたのだ。怒りをぶつけるもなにも、後のことは国に任せるしかない。だからこそ、この怒りをどうすることもできず、途方に暮れるのだ。
「兄上は、彼を手駒に加えたそうよ。セツナと行動をともにしているんじゃないかしら」
リノンクレアの声は、耳元で囁くほどに小さく、間近にいるファリアでさえ聞き逃しかねないほどだった。それも当然だろう。
ファリアは、彼女の言葉を耳にした瞬間、とてつもない衝撃を受けた。有り得ない、有ってはならないことだという感情的な反応と、レオンガンドならやりかねない、いや、やるだろうという理性的な判断が、彼女の頭の中を狂おしく駆け巡った。
ランカイン=ビューネル。ザルワーンの五竜氏族に連なるものにして、武装召喚師。この小さな街を廃墟に変えた大量殺人者。そんな男を手駒にするなど、どうかしている。しかし、どうかしていなければ、セツナを即座に戦場に連れて行き、戦わせたりなどしないだろう。
狂気。
理性とはひどくかけ離れたなにかが、レオンガンドを突き動かしている。
(いや)
彼女は心の中で頭を振った。むしろ理性的なのかもしれない。国民を殺戮されたことへの怒りや憎しみといった激情を支配しうる圧倒的な理性。それが狂気に等しいにせよ、正気だからこそなせる業にせよ、レオンガンドは、ランカインを刑殺するより戦力として利用するほうがガンディアにとって有益だと考えたのだ。
それは理解できる。頭では納得する。それでも。
「そんな!」
「あまり大声を出さないでね。だれかに聞かれたら拙いでしょう?」
リノンクレアの声音は悪戯っぽかったが、しかし、そのまなざしはいたって冷ややかだった。こちらの反応は予想していたはずだが、だからこそ冷ややかにならざるを得ないのかもしれない。もっとも、だからといって即座に冷静になれるファリアでもなかった。
割り切れるような話ではない。
カランは、彼女にとって大切な街だった。《大陸召喚師協会》カラン支部の立ち上げに携わったことがきっかけとなって、彼女はこの街への転属を希望したのだ。王都ガンディオンに留まっていたほうが情報を集めるのには都合がいいのはわかっていたが、それでもファリアは新しく生まれたばかりの支部をカランに根付かせ、発展させることに興味が湧いていた。
無論、使命を疎かにしたわけではない。
カランは、ガンディオンから遠く離れた場所にあるわけではないのだ。ガンディオン支部に勤めていた当時の同僚や部下、上司にも、なにか有力な情報があればすぐにでも知らせるよう協力を仰いでいたし、彼らもそれを快く了承してくれていた。
だれもが、彼女の名前の意味を知っていたから、というのもあるだろう。
そうして、ファリアはカランに住み着くと、まるで故郷にいるかのような感覚とともに日々を過ごしてきた。サリス=エリオンら警備隊員と知り合い、また、カランの街の人々と触れ合う中で、エリナと彼女の家族とも顔見知りになった。
カランで過ごした日々が頭の中を駆け巡る。無数の顔と名前が、浮かんでは消えた。数多の想い出が一夜にして焼き尽くされたのだ。
その直後こそ冷静に振舞っていた。冷酷なほど、理性的に。そうならざるを得なかった。焼け出された住民の安全の確保や、ガンディオン、クレブールなどへの連絡、応援要請など、やらなければならにことばかりがあった。忙殺されたのだ。
そして、事後処理から解放された彼女を待っていたのは、セツナ=カミヤという少年だった。彼への事情聴取を警備隊に任せなかったのは、セツナが武装召喚師という話があったからではあるが。
休む暇もなかった。
セツナがレオンガンドの口車に乗せられたがために戦場に出向くことになり、王都では意識を失っていた彼の面倒を見なければならなかった。だれかがそう命じたわけではない。が、彼女以外のだれがセツナの傍にいてあげることができるのだろう。ともかく、ファリアは、四六時中セツナのことを考えなければならなかった。カランのことで感情をぶちまける暇など、あるはずがなかったのだ。
が、いまは違う。
ファリアの意識の大半を占めていたセツナは、敵国に向かっていた。任務である。心配はすれど、彼のことはラクサス=バルガザールに任せておけば安心できた。
心にゆとりが生まれた。
理性が、剥がれ落ちた。
「だったら!」
ファリアは、我知らず大声を上げていた。自分の耳にはなにも聞こえていなかった。別の声が響いていたからだ。泣き叫ぶ少女の声。炎に巻かれ、死に瀕した人々の絶叫、あるいは怨嗟の声。慟哭。廃墟と化したカランに反響する無数の叫びが、いま、彼女の鼓膜を激しく揺さぶっていた。
リノンクレアの瞳は、凍てついた宝石のようだったが。
「あなただから教えてあげたのよ、ファリア。セツナが帰ってきたとき、あなたが彼をちゃんと迎えて上げられるように」
「どういうことです!?」
冷静極まりないリノンクレアの物言いは、ファリアの感情をさらに昂ぶらせるだけだった。冷静にならなければならない。頭を冷やすべきだ――そんなことはわかっていた。しかし、一度箍が外れれば、どうしようもなくなるものだ。枷が外れたのだ。抑圧されていた激情が奔流となって渦を巻いた。
故に、リノンクレアの言葉の意味も理解できない。
「落ち着きなさい。皆が見てるわ」
「そんなの関係ありません! 一体、どういうことなんです? わたしには納得できません!」
「本当に納得できないの?」
「……」
リノンクレアの問いに、ファリアは沈黙を以て返答とした。頭では理解しているのだ。この国を強くし、平穏と安寧、そして繁栄をみちびくためと考えれば、レオンガンドの選択も強ち間違いではない。ランカインは、たったひとりで街を滅ぼすだけの力を持った人間である。彼を戦力に取り込むことができれば、ガンディアの戦力は大幅に増強することができるのだ。それは、ガンディアに住まうものにとって喜ばしいことなのかもしれない。
ランカインが、カランの街を焼き払い、住民を殺戮したという事実さえなければ。
だが、ランカインの炎が小さな街を焼き尽くしたのは厳然たる事実であり、その否定しようのない現実は、ファリアから理性を奪い去っていくのだ。それは、なにもできなかった無力な己への怒りでもあった。仕事で離れていたから仕方がない、などとは考えられなかった。
あのとき、ファリアがカランに残っていれば、街が焼き尽くされる前にランカインを倒すこともできたはずだ。彼がどれほど強かろうとも、素人同然のセツナに敗れたという事実がある以上、ファリアでも打倒できないわけがなかった。だからこそ、後悔するのだ。
もっとも、彼女とて過去を変えることはできないということもわかっている。現実を見つめなければならないことも理解している。その現実のひとつがランカインの存在であり、それを受け入れなければならないということもわかってはいたのだ。
感情的な問題でしかない。
「わたしがガンディアの王女のままだったら、全力で反対したんでしょうけれどね。いまやわたしは隣国の王子の妻。内政に干渉することは許されないし、そんな力もないわ」
リノンクレアが、彼女に向かって笑いかけるように言ってきた。その瞳は既に氷解しており、いつものように温和な微笑を湛えている。ファリアの様子に苦笑するわけでも、呆れ果てて愛想を尽かしている様子でもなかった。むしろ、自嘲しているかのようですらあった。
なにを自嘲することがあるというのだろう。
ファリアが見る限りでは、彼女に自嘲すべき点など見当たらないのだが。
ファリアは、ルシオンの王子夫人のまなざしを受け止めながら、次第に冷静さを取り戻していく自分を認めた。いや、未だに内面では激情は嵐となって吹き荒れている。しかし、表層を理性の仮面で覆うことができるくらいには意識が回復してきていた。狭くなりすぎていた視界が、少しずつ広がっていく。
周囲の状況が頭に飛び込んでくるたびに、ファリアは、己の曝した醜態に気づかねばならなかった。激情のあまり、大声を上げてしまったのだ。背中に突き刺さる無数の視線の痛さといったら、どう形容すればいいのか。
失態以外のなにものでもなかった。ファリア=ベルファリアといえば、常に冷静沈着で物事に動じることのない人物として通っており、彼女もその印象を崩さぬよう振舞ってきたつもりだった。それがファリア=ベルファリアという《大陸召喚師協会》に所属する武装召喚師のあるべき姿なのだ。怜悧で知的な女性召喚師――そのイメージが脆くも崩れ去るほどの有様だった。
人前でこれほど取り乱したのは、アズマリア=アルテマックスを視認したときくらいではないのか。
ファリアは、己の迂闊さを全力で呪いたい気持ちに駆られたが、いまはそんな状況ではないこともまた理解していた。顔面が急速に高潮していくのは抑えられそうもないが。
「だから帰るのよ」
リノンクレアは、もはやファリアを見つめてはいなかった。囁くように続けた言葉は、ファリアにしか聞こえなかったのかもしれない。
「ここはわたしの故郷。いまでも愛しているし、大切に想っているわ。でも、ここにわたしの居場所はないのよ」
(居場所……)
ファリアは、リノンクレアの心中を察しながらも、別の人物の顔を思い浮かべずにはいられなかった。異世界からの来訪者。居場所などあろうはずもない少年のことを。
彼は、一先ずの居場所としてこの国を選んだ。それが正しい選択だったのかは、彼女にはわからない。彼自身にもわからないことだろう。しかし、悪い判断でもなかったはずだ。少なくともこの国は彼を必要としており、彼がその期待に応え続ける限り、居場所として機能し続けるはずだった。
そしてもうひとり、サリス=エリオンの声がファリアの脳裏を過ぎった。
『俺はあの男を許さない。絶対に、どんなことがあっても、あの男だけは……!』
低く震える男の声は、胸中で暴れ狂う怒りを抑えきれないといったものであり、ファリアには彼の想いが痛いほどわかった。同じ気持ちだった。ランカイン=ビューネルを許すことなど、あの惨状を目の当たりにしたものならだれもが抱く感情だろう。至極当然の反応だった。
彼が、怒りに駆られながらもなお我を見失っていなかったのは、職務に忠実な人間だからに他ならなかった。セツナとランカインの戦いが終わって一番最初に駆けつけたのがサリス=エリオンたちであり、彼にその気があれば、気絶していたランカインに報復することだってできたのだ。
しかし、彼は、復讐を果たそうとはしなかった。
彼はそのとき、その瞬間は、個人的な復讐を果たすよりも他にやるべきこと、やらなければならないことがあると判断したのだろう。カランに帰り着いた直後のファリアと同様に、職務の遂行を最優先にすることで、いまにも壊れそうな心を辛くも繋ぎとめていたのかもしれない。
だが、事が終われば意識も変わる。彼も変わったのだ。温厚で気さくな好青年から、憎悪と怨嗟を撒き散らす復讐者に。といって、彼に復讐する手立てはなかった。ランカインは王都ガンディオンに移送された。彼は、ランカインが法の裁きが下されるのを待つしかなかった。そんなもので心が晴れるはずもなかったが、多少なりとも激情を鎮めることはできただろう。
が。
(サリス……あなたは、どう想うの?)
ランカインは裁きを受けるどころか、のうのうと生きている。ガンディア国王レオンガンドの手駒として、セツナたちと行動をともにしているのだという。
この事実がサリス=エリオンの耳に入れば、彼は、どうなってしまうのだろう。冷静ではいられまい。彼の場合、ファリアよりももっと切実なのだ。彼は、ランカインの炎によって、家族を失っている――。
ファリアは、リノンクレアが歩き出していることに気づいて、慌てて後を追った。リノンクレアが移動を再開すれば、長い長い行列もまた、停滞から解放されて動き出すのだ。黙って突っ立っていれば、後ろからの列に飲まれてしまうだろう。だからどう、というわけではないが。
「少しは冷静になれたようね」
「リノン様のおかげです」
「そうかしら?」
リノンクレアのすぐ後ろにつき従い、他愛のない言葉を交わしながらも、ファリアは、サリスのことを考えていた。いや、サリスひとりの問題ではない。ランカイン=ビューネルの生存が明らかになれば、ガンディア国民は怒り狂うに違いない。レオンガンドの決断を〝うつけ〟の愚行と罵るかもしれないし、国民感情を考えない王のやり方に嘆き悲しむかもしれない。
無論、ガンディアがランカインの生存を明らかにするはずもない。国民感情を考えれば、隠し通す以外の選択肢はなかった。秘匿にされるだろう。しかし、万が一ということもある。ログナーに帰ったリノンクレアが、ハルベルクや近習に口を滑らさないとも限らない。
そのとき、レオンガンドはどうするというのだろう。
サリスは、なにを想うのだろう。
ファリアは、嫌な予感がしてならなかった。サリスが大それた行動を取るような人物だとは到底考えられなかったが、彼女が最後に見た彼の様子が、不安を助長して余りあるものだった。
彼は慟哭していたのだ。
正気と狂気の狭間で。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「どういうつもりです?」
クオンは、自分を取り巻く状況を理解しながらも極めて穏やかに振舞った。余裕を以て対処することで皆が安堵するということを彼は本能的に理解していた。本能としかいいようがない。
場数は踏んでいる。この半年で、普通の人間ならば嫌になるくらいの戦闘を経験していた。人間であれ、皇魔であれ、敵意を持つ相手と対峙したこと数え切れなかった。しかし、数多の経験が彼に教えてくれたのは、基本的な戦い方であり武装召喚術の使い方であり戦闘の恐ろしさであって、場の空気を読み、操る方法は生まれつき身についていた。
温和な表情を浮かべたまま、クオンは前方を見ていた。
長大なテーブルを挟んで、男が座っている。白髪混じりの黒髪はそれなりの年輪を感じさせ、切れ長の目の眼光は鋭く、引き結んだ唇からは意志の強さを認めざるを得ない。身に付けているのは、無論、甲冑などではない。華麗な衣装である。もちろん、この会食のためだけに用意された、というわけでもないだろう。突然の申し出に急遽用意せざるを得なかったこちらとは事情が違う。
グラハム・ザン=ノーディス。ベレル王国騎士団長であり、小国ベレルをザルワーンの魔の手から守り続けてきた〝銀の盾〟である。
「あなたがた《白き盾》が、我がベレルの軍門に降らないというのならば、こうするより他に選択肢はありますまい」
「それがベレルの意志というのならば、致し方ありませんね」
クオンは、グラハムの返答に微笑を浮かべた。周囲を一瞥する。今夜の会食の会場となったのは、グラハムの私邸であり、彼の現在の地位と持ちうる権力を象徴するかのような豪邸の一室に、クオンたち《白き盾》の幹部は揃っていた。クオン以外には、スウィール=ラナガウディ、マナ=エリクシア、ウォルド=マスティア、イリスといった顔触れであり、皆いつもの黒装束ではなく、この会食のためだけに急遽調達したドレスやスーツを身に纏っていた。
長大なテーブルを囲む彼らの背後には男女の給仕が立ち並んでいるのだが、給仕たちの手には、いつの間にか様々な得物が握られていた。その目には殺気が宿り、グラハムの号令ひとつで飛びかかってくるだろうことは明白だった。
クオンは、グラハムの周囲の騎士たちが静かに立ち上がるのを認めながらも、こちらの仲間がだれひとりとして反応しないことに満足感を覚えていた。ウォルドはテーブルに並ぶ豪華な料理を次々と手にとっては口に運び、マナはスウィールの講釈を上手に聞き流しながら食事をしていた。イリスに至っては、周囲からの殺意よりも自分の格好が気になって気になって仕方がないという有様だった。
《白き盾》のだれもが、騎士団長の愚行を気にも留めてなかった。
それは偏にクオン=カミヤがその場にいるからだろう。
クオンは、こちらの態度にイラつき始めたグラハムの目を見据えた。ベレル王家に忠誠を誓う騎士の長は、冷静さを失っているわけでもなければ、状況を理解していないわけでもない様子だった。こちらの余裕綽々といった態度が彼の思惑からかけ離れていたことで、多少のショックは受けたかもしれない。
「ですけど、これではぼくたちを脅すことは疎か、殺すこともできませんよ」
脅すつもりならばもっと凶悪な罠でも仕掛けるべきであり、殺すつもりならば即座に片をつけるべきである。
クオンは、グラハムたちの失策を自分のことのように想い、残念がった。クオンが彼の立場ならば、脅迫などという手段は取らなかっただろう。そんなことで首を縦に振る《白き盾》ではなかったし、その事実はこれまでの活動や態度で示してきたはずだった。
もちろん、《白き盾》を戦力にしたいグラハム側としては、なんとしてでもクオンたちを掌中に収めたいと考えたのだろう。通常ならば到底逃げ出せない状況さえ作り上げた上で命を脅かせば、たとえどれほど強固な信念も折らざるを得ないと考えたのかもしれない。
その上で尚反対するのであれば、殺害も已む無しとしたのだろう。《白き盾》を失うのは大きな痛手だが、敵に回る可能性を残すよりは余程良い。
彼らの出した結論もわからなくはない。
だが、それは傭兵という存在を根本から否定する考え方であり、ましてや《白き盾》の理念に真っ向から対峙するものだった。
クオンは、いつものように微笑した。穏やかで清らかな心持ちのまま、グラハム・ザン=ノーディスを見やる。彼は、怪訝な表情をしていた。こちらの意図がわからないはずはないのだが、クオンの表情を見て、気でも狂ったのか、とでも想ったのかもしれない。
静かに口を開く。舌に乗せるは呪文の末尾。術式を完成させる一つの言葉。魔法を結実させる神秘の言葉。
「武装召喚」
魂の奥底より呼び起こされた力が、激しくもたおやかな光の奔流となってクオンの全身を、意識を包み込んでいく。扉が開くイメージ。こことは異なる世界から、なにかとてつもなく強大な力が召喚されようとしている。
声が聞こえた。
「やれぇ!」
どこか上擦ったような騎士団長の叫びは、彼の本質としての軽さの表れのようでもあったが、クオンはその軽さこそが人間的な弱さであり、だからこそひとは皆愛しいのではないかという考えに至った。
なにもグラハムだけが特別愛しいのではない。彼に付き従う騎士団の幹部たちも、武器を手にした騎士団員たちも、《白き盾》の仲間たちも、皆一様に愛しいのだ。
だからこそ、だれひとりとして失いたくない。傷つけたくないのだ。
綺麗事であろう。
しかし、彼は自嘲しない。綺麗事という言い分を否定もしないが、かといって己の信念を曲げるつもりもなかった。無論、戦うということは敵も見方も傷つけるということに他ならないということもわかっていたし、それを承知で傭兵集団を率いている。戦争を食い扶持とする傭兵稼業など、彼の理想からは程遠い存在に違いない。
だが、それでも彼は《白き盾》を掲げた。血と死の臭いが蔓延する戦場にみずから飛び込んだ。他に方法がなかったわけではないはずだ。他に手段がなかったわけではないはずだ。もっと冴えたやり方があったかもしれなかった。
(でもぼくはこの道を選んだ)
クオンは、己の全身から拡散した膨大な量の光が、彼の理想を体現する武装を構築していくのを認めた。
そして、《白き盾》が顕現した。