第六百七十話 輪を成す想い
ひとりの少年がいる。伸びすぎてぼさぼさになった黒髪に、血のように赤い眼を持つ、一見すると、どこにでもいそうな少年。身につけた制服と隊章を見れば、彼がなにものなのかすぐにわかるだろうし、どこにでもいそうな、などという評価を改めねばなるまい。《獅子の尾》の隊章をつけた少年など、この世にひとりしかいないのだ。
その少年が、美女を侍らせて歩いていたのは、ウェイドリッド砦の通路だ。雪が溶け、石畳がむき出しになった地面は、むしろ歩きやすいだろう。美女のひとりは、少年にべったりくっついているために歩きにくそうではあったが、自業自得だ。しかし、彼女は少年から離れようとはしないだろう。それが自分の存在意義だとでもいわんばかりに、彼女は少年を求めている。
もうひとりは、少し距離を開けて、少年に追従している。護衛任務という名の監視任務中の女は、美女というよりは美少女というに相応しい。外見的な意味で、だ。実際の年齢とかけはなれた容姿には、なんらかの理由があるのかどうか。
少年を取り巻いているのは、ふたりの美女だけではない。銀髪の青年剣士が加われば、青年剣士の所属する傭兵集団の幹部が現れ、かと思えばガンディア軍ログナー方面軍の軍団長たちが少年を囲んだ。さらにガンディア軍参謀局の室長や、ルシオン、ベレルの将校までが少年を中心とする輪に参加し、ウェイドリッド砦内が騒がしくなった。
仮面の武装召喚師はその輪から外れたところにいたが、少年を見ているのは疑いようがない。
少年を中心とする輪は、彼のこれまでの戦いが紡いできた絆であろう。
その中に自分がいないことを除けば、だが。
窓の向こう、眼下に生まれた人の輪に入りたいと思う反面、輪の外がいいのではないか、とも考えたりもした。だれもいない輪の外ならば、ふたりきりの時間を満喫することだってできるのではないか。
(なに考えてるのかしらね)
彼女は、苦い顔をした。それもこれも、少年のせいだ、と断定した。責任転嫁も甚だしいのだが、ほかに憤りをぶつける相手が見つからないのだ。彼には悪いが、しばらく悪者になってもらうよりほかはない。
「あの子がセツナちゃんね」
「え、ええ……」
ファリアが生返事を浮かべてしまったのは、祖母が、いつの間にか隣にたっていたからだ。さすがに心臓が飛び出るほど驚くということはなかったが、鼓動が高鳴ったのは間違いない。
ファリアは、祖母ファリア=バルディッシュと数年ぶりの対面を果たしていた。それこそふたりきりで。祖母は、孫娘との再会を余人に邪魔されたくなかったから、ふたりだけで逢える時間を作った、という。
軍議が始まる前の一時間。たった一時間。しかし、面と向かって祖母と言葉を交わすには、長すぎる時間かもしれない。ファリア=バルディッシュという人物は、ファリアにとっては血の繋がった祖母である以上に、リョハンの戦女神の印象のほうが強い。家族であり、祖母と孫の関係であることに違いはない。しかし、リョハンの戦女神という偉大なる名は、祖母を祖母ではなく、尊崇するべき女神へと昇華してしまっていた。
母ミリアが祖母ファリアを駄目な母親扱いをしているときなど、ハラハラしたものだったし、母に怒りを覚えたものだった。ミリアにしてみれば、戦女神などただの言葉であり、ファリア=バルディッシュの功績を称えるための装飾に過ぎないというのだが、ファリアには理解の出来無いものだった。もっとも、ミリアにもファリアの心情は理解できないに違いない。ミリアにとっては、ファリア=バルディッシュは武装召喚師としての責任を全うするためとはいえ、家庭を顧みなかった人物なのだ。ミリアが祖母を素直に受け入れることができるようになったのは、ファリアを身籠ってからだというのだから、かなり長い間屈折した関係が続いていたらしい。
ミリアは、そういう話をファリアによく聞かせてきた。リョハンの戦女神、大召喚師などといっても、所詮は人間に過ぎないのであり、完璧ではない、といいたかったのかもしれない、といまになって思うのだが、本当のところはわからない。それを知ろうと思えば、母を救い出すしかないのだが、そんなことができるのかどうかもわらかない。
死だけが、母の魂を救うのか。
それとも、アズマリアの思念から開放する手段がほかにあるのか。
祖母の横顔を眺めながら考えるのは、そんなことばかりだった。祖母の横顔は、母の横顔によく似ていた。もちろん、記憶の中の母のほうがずっと若い。だが、母が年を取れば、祖母のように美しく年を取ったに違いないという確信がある。それは疑いようもなく家族ゆえの贔屓なのだが。
「話に聞く限りだと、相当な人たらしだそうじゃない」
「そう……かも」
同意こそしたものの、確信があるわけではなかった。しかし、考えて見れば、そうなのかもしれない。いま、セツナを中心とする輪を囲んでいるのは、彼に感化されている人間ばかりだ。ミリュウは言うに及ばず、シグルド=フォリアーも、自分の戦槌に獅子の尾と名付けるくらいセツナを気に入っている。ルクスもなんだかんだいいながら、セツナの面倒を見てくれている。エイン=ラジャール、ドルカ=フォーム、グラード=クライドといった元ログナー軍の面々も、ザルワーン戦争の中でセツナに好意を抱いていったようだった。エインは、もっと前から熱烈な信奉者ではあったが。
「そうよ。だって、ファリアちゃんの心を溶かしてしまうんだもの」
「はい!?」
素っ頓狂な声を発しながら、頭の中が真っ白になるのを自覚する。祖母が、自分の胸の前で手を組んで、こちらの顔を覗きこむようにしてきた。背は、祖母のほうが低い。
「おばあちゃん、ずっと心配していたのよ、あなたのこと。復讐に囚われて、周りが見えなくなっていたもの」
「え、あ、あの、わたしの意見を聞かずに話を進めないで、ください……」
「意見? 意見なんてあるのかしら」
「え、っと……わたしの心を溶かしたって、セツナが、ですか?」
「違うの?」
「い、いや、あの、お祖母様は、なにを持ってそう思ったのですか?」
「あの子を見るあなたの目を見れば、一目瞭然だったけど」
ファリア=バルディッシュの返答の速度に、ファリアはただ愕然とした。
「い、一目瞭然……」
「綺麗な目よ。昔から変わらない、素敵な目。でも、リョハンを旅立つときのあなたの目は、復讐に曇っていたわ」
アズマリアを探し出し、仇を取ることだけを考えていた。そのことをいっているのかもしれない。「復讐に囚われれば、周りが見えなくなる。目が曇るのも当然よね」
「でも、わたしは!」
ファリアは、無意識に声を荒げていた。室内に反響した自分の声の大きさで、我に返る。
「わたしは、お父様とお母様を奪われたんです。目の前で」
「わたしにとっても家族を奪われた事実に変わりはないわ。アズマリアへの復讐心も、あなた以上に抱いている。だって、信頼していた師に裏切られ、娘夫婦を奪われたんですもの」
ファリア=バルディッシュの瞳は、ファリアと同じく緑柱玉のようだった。その目には深い悲しみがあり、悲しみの底の底に怒りが沈んでいるのがわかる。愛娘を奪われ、娘の夫を殺された悲しみは、両親を同時に失ったファリアのそれと比べられるものでもないだろう。
わかっていたことだ。わかりきっていたことだ。祖母も、悲しみ、怒り、苦しみ、もがいていることくらい、知っていた。知っていて、だからこそ、自分がやらなければならないのだと思った。思い込んだ。自分がやることで、自分がアズマリアを討つことで、祖母の心も救われるのではないか。
(自分勝手ね……わたしって)
いまさらのように、思う。自分勝手で、頑固で、融通が効かない。だから、すべてを失う覚悟を決めたくせに、喪失感に耐え切れなかった。もし、セツナが手を差し伸べてくれなったら、自分はどうなっていたのだろうか。
「もちろん、アズマリア=アルテマックスの討伐を号令したのは、わたしの個人的な感情を優先したからではないの。あのものがリョハンに仇なすものとなった以上、放っておくことはできないと判断したまでのこと。あのものの力はあまりに強大で、途方も無いものね。放っておけば、この世は間違いなく混沌に飲まれてしまうわ」
ファリア=バルディッシュの凛とした声は、ファリアの心を捉えて離さない。リョハンがいまだに戦女神に縋り、ファリアを後継者に仕立てあげたがっているのも理解できなくはなかった。
「ただひとつ後悔があるとすれば、その事実に気づくのがあまりに遅すぎたことね」
もっと早く気づいていれば、メリクスとミリアの運命は変えられたかもしれない。
ファリア=バルディッシュは、静かに、しかし、力強くいった。
「そうか」
レオンガンドは、穏やかな静寂の中で、深く大きく息を吸った。そうでもしなければ、胸の内のざわめきを抑えきれないと思ったからだったが、深呼吸したところで落ち着くというものでもなかった。そんなことも、わかりきってはいる。だが、だからといって止めることはできない。
(もっともままならないのは自分自身……か)
ふと胸中でつぶやいた言葉を発した人物のことを思い出して、彼は苦い顔をした。いや、その言葉を思い出さずとも、その人物のことは考える必要に迫られていた。
レオンガンドは、ゆっくりと息を吐いてから、目の前に傅く女に視線を戻した。闇に溶けるような黒衣の女は、いつも以上に明確に、彼の眼前に姿を晒している。
「御苦労だったな、アーリア」
「いえ」
アーリアは、言葉少なに反応したが、それ以上はなにもいってはこなかった。ただ、黙って傅いている。彼女は、沈黙に耐えられない女ではない。むしろ、ふたりきりの時間ほど、沈黙に満ちた時間はなかった。そしてその沈黙こそが自分にとっては至福の時間だと、彼女はいっていた。嘘かもしれないが、女の言葉の真偽を確かめる手段はない。
ウェイドリッド砦の司令室に、ふたりはいる。ふたりだけだ。レオンガンドの側近たちも、親衛隊も、この部屋にはいなかった。皆、つぎの戦いに備えて動いている。つぎの戦いとは、すなわち、リネンダールの巨鬼との戦いであり、そのための軍議が開かれるのは一時間後のことだ。
アーリアがレオンガンドの元に帰還したのは、つい先程のことだ。彼女は潜伏先のクルセールを出た直後に馬を失い、ここまで歩いてきたのだという。ウェイドリッド砦に翻るガンディア軍旗を見たとき、生き返る想いだったというのは、本心なのかもしれなかった。
その彼女がもたらした情報が、レオンガンドの心に入り込んできている。
それは、魔王の正体そのものであり、そして、この戦いの根本に関わるものであった。
「エレン……エレンか」
「はい。我々六人の生き残りの最後のひとり。イリスとともにガンディアから抜け出し、ガンディアに復讐を誓ったひとり」
それが魔王ユベルの正体であり、皇魔を使役する能力とは、外法によって発現した異能であると考えるべきであろう。人間を支配する異能があるのだ。皇魔を支配する異能があったとしても、不思議ではない。ただし、エレンの異能は、ウルのそれとは規模が大きく異なるものだ。ウルは最大でも十人までしか支配することはできない。それに比べると、何万もの皇魔を支配している魔王の能力がいかに異常なのかが理解できるというものだ。
(根本が違うのかもしれない)
能力の思想というべきか。
対象を完全に支配し、制御するウルの能力と、魔王ユベルの能力は、どこかでなにかが違っているのかもしれない。単純に、ウルよりもユベルのほうが優れている可能性も皆無ではないが。
ひとつ明らかなのは、アーリアの報告の通り、魔王を殺せば、クルセルク中の皇魔が暴れだすということだ。アーリアが魔王に最接近した十六日の段階で暗殺を決行していれば、レオンガンドたちはクルセルクを放棄しなければならなかったかもしれない。ザルワーンになだれ込んだ三万の皇魔と、クルセルクに残っていた皇魔が魔王の支配から解き放たれるのだ。どのような地獄が待っていたのか、わかったものではない。
もちろん、潜り抜けられた可能性もある。いずれにしても、クルセルクに血の雨が降ったのは間違いないし、実際の緒戦よりも多大な被害が出たのは想像に難くない。
「つまり、魔王はガンディアを滅ぼしたがっている……と」
「おそらく。しかし、ガンディア以外の国に攻撃しないとは言い切れません」
「ああ。それはわかっている」
魔王ユベル(=エレン)がガンディアへの復讐のためだけにクルセルクを乗っ取ったのならば、ノックスをはじめとする近隣国に侵略戦争を仕掛ける理由はない。軍備を整えるため、という理由は、魔王が皇魔だけの軍勢を運用している事実によって否定される。魔王軍の主力は皇魔であり、人間からなる正規軍は各地の守備に使われているに過ぎない。
「だが、魔王がガンディア王家を憎悪しているのは間違いあるまい。彼の人生を狂わせたのは、我が父であり、父の妄執を止められなかったわたし自身だ」
レオンガンドは、目を伏せた。次第に狂っていく父の暴走を止めることができなったのは、純粋に、彼の力不足に他ならなかった。その結果、何人もの人間が人生を狂わされた。外方機関の実験の果て、生き残ったのはたった六人だ。そのうち四人がレオンガンドの元に残った。ふたりはガンディアを去り、去り際、復讐を口にした。
アーリアの妹であり、《白き盾》の団員となったイリスは、未だにガンディア王家への憎悪を忘れていないだろう。ザルワーン戦争では味方になったものの、それでなにもかも丸く収まるものでもない。
そもそも、アーリアとウルの姉妹も、ガンディアを憎んでいる。ガンディアと王家を憎み、恨んでいるからこそ、レオンガンドの側にいるのだ。そして、レオンガンドに協力を惜しまないのも、憎悪を根源としている。
『ガンディアが栄華を極めた暁に、壊れ滅び行くさまを見届ける――これ以上のものはございませんよ』
いつか彼女がいった言葉が、レオンガンドの脳裏を過った。アーリアとウルが協力的なのは、レオンガンドを認めているからなどではないのだ。
レオンガンドは、自分の手のひらを見つめながら、つぶやくようにいった。
「彼は、ガンディア王家を滅ぼすことさえできれば、矛を収めてくれるだろうか?」