第六百六十九話 実感
「セツナ様ーっ! エンジュール伯様!」
そんな大声が響き渡ったのは、ウェイドリッド砦の北側区画をぼんやりと歩いているときだった。二十六日の午前中。軍議までの暇潰しと気晴らしを兼ねての散歩は、セツナひとりではなく、レムは無論のこと、ミリュウもついてきていた。ファリアは祖母に会いにいっていたし、ルウファは軍師に使われている。マリアとエミルは軍医としての仕事に追われているのだ。
ウェイドリッド砦の内部は、結局のところ、強固な城壁に囲われた他の都市と大きな違いはない。皇魔の増殖によって城壁が必須となったこの世界で、砦と一般的な都市の明確な違いはわからないほどだった。もっとも、軍事拠点である砦と一般的な都市が同義のはずもない。軍事拠点というだけあって、軍事施設が普通の都市よりも多く、建物も堅牢そうなものばかりだった。
どこを見ても代わり映えのしない景色に思えるのは、やはり軍事拠点としての色合いが濃いからだろう。昨日まで積もっていた雪が溶けてしまったのも大きい。どこを見ても、灰色の石壁と石畳が続いており、変化らしい変化というものがなかった。建物の形も画一的であり、塔だけが異彩を放っているといってもよかった。
その塔を目指している。
「呼ばれてるわよ、領伯様」
「ああ、うん」
ミリュウに耳元で囁かれて、セツナは、自分が呼ばれたのだということを理解した。寝ぼけているというよりも、頭が働いていないのだ。
声がした方向を振り向くと、中年男性が息を切らせながら駆け寄ってくるところだった。ガンディア軍ログナー方面軍の軍服を着込んだ男性がいったいだれなのか、目の前に到着するよりも早く理解できた。いくら思考能力が落ちていても、自分の領地を任せている人物のことを忘れるようなことはないようだった。もっとも、彼の後についてきた軍装の男女については、頭を悩ませる必要がある用だったが。
「はあ、はあ……久々に走りますと、体に堪えるものでして、はあ」
「ゴードンさん? どうしたんですか?」
「いやあ、それがですね、エンジュール司政官ゴードン=フェネック、この度の戦争では領伯様の代理人として黒勇隊の指揮官を務めることになりまして」
「なんでゴードンさんが? 確か、隊長とか任命したんじゃなかったっけ……」
セツナは、ゴードン=フェネックの後ろに整列した軍人たちを一瞥して、再びゴードンに視線を戻した。息ひとつ切らしていない軍人の男女は、彼が話題にあげている黒勇隊の隊員だろう。名こそ思い出せないが、年初に声をかけた記憶がある。エンジュールという土地柄、黒勇隊の隊員のほとんどは生粋のログナー人であり、セツナに対して複雑な感情を抱いていたとしてもおかしくはなかったが、さすがにみずから志願して隊員となったものばかりであり、セツナに悪意や敵意を向けるものはいなかった。むしろ、セツナに対して好意的ですらあったのだ。
黒勇隊。エンジュール領伯セツナ・ラーズ=エンジュールの私兵部隊である。セツナが自分の意志で作ってものではなく、司政官であるゴードン=フェネックが領伯ならば必須だといって独自に設立を推し進めていた。昨年末、エンジュールに帰ったときに部隊設立の計画を明かされ、隊名はセツナがつけている。
隊員は全部で二百名。エンジュールの住人が中心となっているものの、当然、それだけでは足りないため、ログナー中から募ったようだ。バハンダールから参加した青年もいて、年初の挨拶ではセツナとの対面に歓喜のあまり咽び泣いていた。その青年は、メレドの領地であったころのバハンダールに生まれたメレド人であり、侵略者であるザルワーン軍を撃滅したガンディア軍、中でもバハンダール戦で活躍した黒き矛のセツナに感激したということだった。バハンダールがガンディアの支配下に入ったあと、すぐにガンディア軍への参加を願ったが、いろいろな理由で聞き入れられなかったらしく、そんなおりにエンジュール領伯の部隊員募集の話を聞きつけたようだ。
そのバハンダール青年はともかく、司政官――つまり領伯の代官であるゴードンが前線に出てくるなど、本来ならあり得べきことではないはずだった。そもそも、黒勇隊がこの戦争に参加するという話も聞いていない。
黒勇隊は結成されたばかりであり、実戦に投入できるような練度ではないのだ。
「それがですな、隊長であるところのクライブ=ノックストンが実戦経験がないというものでして、翼将として実戦を経験したわたくしが駆りだされた次第。実戦経験といいましても、セツナ様に蹴散らされたあの戦いと、ロンギ川会戦程度ですが」
ゴードンはみずからを卑下するようにいったものの、ロンギ川会戦ではゴードン=フェネックの部隊がガンディアの部隊をほぼ一方的に蹴散らしたといい、彼が必ずしも戦下手だとは思えなかった。武官よりも文官向きの性格であることは疑いようがないのだが。
「だからいったんだよ。実戦投入には早いって」
「領伯様、すみません……わたくしの実力不足、経験不足を恥じ入るばかりです」
ゴードンの背後に控えていた長身の男は、顔を青ざめさせ、恐縮しきっていた。若いが、セツナよりもずっと年上だ。当然だろう。黒勇隊の募集要項にも、十八歳以上の年齢制限が設けられていた。領伯配下の戦闘部隊の隊員を求めているのだ。十代前半では話にならない。もちろん、例外もある。セツナは別として、エイン=ラジャールは十六歳で戦争に参加しているし、メレドの主力にも十代の少年たちがいる。リョハンの天才武装召喚師も十代だという。しかし、例外は例外なのだ。常識で考えれば、二十代以上の鍛え上げられた肉体を持つ男女が望ましい。そして、黒勇隊の隊員のほとんどが二十代半ばから後半だった。実戦経験の少なさは、彼らが正規軍人でも傭兵でもないから仕方のないことだった。
「いや、隊長のせいじゃない。ゴードンさんが結果を求め過ぎなんだよ」
セツナが半眼になってゴードンを見ると、彼は気の弱そうな顔の中の小さな目を輝かせた。
「ですが、領伯様。領伯ともあろうものが自前の兵も有さず、戦争に参加するなど、恥以外のなにものでもございませんよ。特にガンディアにおける領伯は、言葉以上の意味を持ちます。陛下がセツナ様をエンジュール領伯に任じたのも、ケルンノール伯と並ぶガンディアの双璧となることを望んだからではございませんか?」
ゴードンは、饒舌だった。そして、ミリュウとレムがきょとんとした顔で視線を交錯させるくらいには、いつものゴードンとは違う迫力があった。セツナも、彼に気圧されている。
「領伯様の立場に相応しい陣容を整え、馳せ参じるのがわたくしの使命と信じ、ここまで参ったのです。実力不足は百も承知。死人も出ましょう。しかし、これほどの戦いがつぎに起こるのはいつですか? 実戦経験を積むには、これ以上の機会はございますまい」
彼のいうことは最もだった。実戦経験を積むには、言葉通り、実際の戦闘を経験するしかない。もちろん、訓練で積み上げられる物事も多いし、なんの準備もせずに実戦に出れば死ぬだけだが。しかし、実戦でしか得られないことも多々あるはずだ。
セツナの場合は、最初から死と隣り合わせの戦いばかりであり、そのおかげで急速に成長できた。とはいえ、黒き矛あったればこそのものだ。他と比べることはできない。
「そして、黒勇隊の実力不足は、領伯様の、黒き矛のセツナの活躍で補えばよい、と考えてござります」
ゴードンは、力強く言い切ると、満足気にひとの良さそうな笑みを浮かべた。その笑顔の柔らかさに騙されそうになるが、彼のしていることは司政官の管轄外のことであり、越権行為にほかならないのだ。無論、彼がそんなことを理解していないはずもない。処罰されるかもしれないとわかっていても、しなければならないという思いが行動に移させたのだろうが。
「……なんていうか、大胆だなあ」
セツナは、ゴードン=フェネックの気の弱そうな外見と人の良さに騙されていた事に気づいたものの、腹立たしくなったりはしなかった。むしろ、ゴードンが評判や外見からはわからないほどの気丈夫であり、頼もしく思えてきた。
「大胆っていうか、セツナ任せっていうか……」
「ご主人様に任せておけば安心ですもの」
「そりゃまあそうだけど……って、あんたもそう思うわけ?」
「もちろんでございますですわ」
レムの本心がどこにあるのかはまったくわからなかったが、彼女は、満面の笑みでミリュウを見返していた。
それからしばらくゴードンと話し合って、黒勇隊の方針を定めた。といっても、セツナにできることなどたかが知れている。黒勇隊はエンジュール領伯が保有する戦力ではあるが、《獅子の尾》として最前線に赴かなければならないセツナには、指揮の取りようも面倒の見ようもなかったのだ。やはり、ゴードンに一任するしかないのだが、妙に血気に逸っている彼には、経験不足のいま、無理に前線に出る必要はないと釘を差しておくことが重要だったのかもしれない。
とはいえ、黒勇隊は、緒戦では後方に配置されていたため、出番も見せ場もなかったということであり、ゴードンは意外と冷静なのかもしれないとも思った。そして、出番も見せ場もなかったがゆえに。二百人の隊員が全員無事なのだということも理解しておかなければならない。
ゴードンたちと別れて歩いていると、唐突に声をかけられた。
「やあ、エンジュール伯様、お元気?」
「気持ち悪い言い方、やめてくれません? 師匠」
「気持ち悪いとは心外だな」
などと笑ったのは、ルクス=ヴェインだった。セツナが一瞬びっくりして我が目を疑ったのは、銀髪の剣鬼の腕に、美女が腕を絡めてしがみついていたからだが。ルクスは整った容姿の持ち主であり、その二つ名と戦場での活躍から女性人気も凄まじく高い。彼が王都を歩いているだけで、どこからともなく嬌声が聞こえたものだ。
しかし、彼に関する浮いた話は聞いたことがなかった。
ルクスは、《蒼き風》の一員として剣を振るうことだけを生きがいとしているような人物だ。戦闘以外はすべて余事だとでもいわんばかりであり、実際、その通りなのだろう。生きにくい性格をしているのだ。そこが魅力的なところでもあるのだが。
「そちらの方は?」
「世間知らずのセツナ君は知らないかもしれないが、こちらは傭兵集団紅き羽の団長殿だよ」
ルクスの説明によって、セツナはガンディアが新たに二つの傭兵団を雇い入れたことを思い出した。紅き羽と、もうひとつは銅竜騎兵団という名称だったはずだ。どちらも《蒼き風》に勝るとも劣らない実力を持っているらしい。
不意に、こちらを眼中になど入れていなかった様子の女が反応を示したのは、ルクスが促したせいもあるのだろう。二十代後半の女性だ。傭兵集団の長を務めるだけあって鍛え上げられた肉体の持ち主のようだが、豊かな胸は筋肉の塊とは思えない。鋭い目つきは、戦士の証に違いない。
「ベネディクト=フィットラインといいます。ルクスとは親しくさせていただいておりまして、この戦争が終わったら式を挙げる約束を」
「してないからね」
ルクスが即座に否定すると、ベネディクトはいやいやをした。
「しようよ、結婚」
「やだよ」
「シグルドとジンは応援してくれてるわよ、わたしたちのこと」
「応援もなにもないだろ」
ルクスが困り果てた表情を見せるのがめずらしくて、セツナは、ついにやにやしてしまった。まるで鏡を見ているような気分に陥ったのは、ミリュウに迫られている自分のことを思い浮かべてしまったせいかもしれない。
「やれやれ。どこでも騒がしい女だ」
「紅き羽のことが心配になりますね。他人事ながら」
いつの間にか、シグルド=フォリアーとジン=クレールがルクスたちの後ろに立っていた。ふたりとも、負傷を手当した跡が痛々しかった。歴戦の猛者ですら苦戦を強いられたのが、ザルワーンの戦場の有様だったらしい。約三万の皇魔がザルワーン方面に押し寄せたのだ。五体満足で切り抜けられただけで御の字だろう。
「なによぉ。わたしのこと応援してくれるんじゃないのぉ?」
ベネディクトが、シグルドたちを睨みながら頬を膨らませた。シグルドがなにやらあきれたように笑ったが、ジンは可笑しみをこらえているふうな表情をした。
腕を引っ張られた。見ると、ミリュウが妙に悔しそうな顔をしていた。ルクスとベネディクトの熱烈な様子が気に食わなかった、というよりは、ベネディクトの猛烈さに当てられたというべきなのかもしれない。セツナは、ミリュウがさらに積極的になるのではないかと懸念したが、時すでに遅し、なのかもしれなかった。
和やかな空気。
穏やかな日差し。
緩やかに流れる時間。
(生きている……って、こういうことなのかな)
精神的な疲労が少しばかり回復したような気がして、セツナは、ミリュウの手を握った。
彼女は、一瞬、なにが起こったのかわからなかったようだが、理解した瞬間、顔を真赤にした。積極的なくせに、直接的な行動に出られるだけで赤面してしまうのが、ミリュウのミリュウたる所以なのかもしれない。