第六十六話 狂う
「まあまあ、そんなことはどうでもいじゃないですか。あの窮地を脱せたんです。それだけで良しとしましょうよ」
リューグは、レックスの目を見つめ返しながら静かに答えた。幌馬車の中、冷ややかな闇が場の空気そのものを凍て付かせるかのように漂っている。明かりをつけないのは、ザルワーンの追っ手を恐れてのことだ。レコンダールからの脱出に成功したとはいえ、ザルワーンの連中がこちらをただ見逃すということは考え難かった。少なくとも、ある程度の人数を追っ手に回すくらいの手は打つだろう。
雨は、止もうとしているらしい。ログナーの天地を騒がせた雷鳴も聞こえなくなり、大地を激しく打ち付け、苛烈な旋律を刻んでいた雨音も、いまや穏やかな音色に変わっていた。風も緩やかだ。豪雨の中を走り抜けるよりは随分とましな状況だといえた。
馬車は、街道を逸れて進んでいる。レコンダールの北門から延びていた街道に沿って進むほど、愚かなことはない。追っ手に後ろから襲ってくださいとでもいっているようなものだ。もちろん、街道を逸れたからといって安全というわけでもないが、幸い、月明かりさえ見当たらない無明の闇が世界を支配している。エメリオンとロクサリアが走り続ける限り、追っ手に捕まるという可能性は限りなく低いだろう。
馬車の中には、重い沈黙が横たわっていた。
リューグは、自分の返答がなにか間違っていたのかとも考えたが、思い過ごしだろうと決め付けることで思考を切り替えた。きっと、レックスが黙しているからだ。黙殺されているわけではないのだろうが。
幌馬車の中は決して狭くはないのだが、大の大人が四人と育ち盛りの青少年がひとりの計五人の寝床を確保するだけでほとんどの面積を使用せざるを得ず、その上、食料や武器防具などの荷物を置くための空間も必要であるため、必要以上に窮屈に感じられるのも仕方のないところだった。もっとも、大人のひとりであるオリスン=バナックが御者としてこの場を離れているため、その分広くはなっているのだが。
それでも彼が狭苦しく感じたのは、この逃げ場のない沈黙のせいなのかもしれない。黙しているのはレックスひとりではない。カインは荷物に背を預けたまま眠ったように目を閉じているし、ニーウェは馬車の片隅で座り込み、剣の柄を握り締めたまま虚空を凝視していた。その様子は尋常ではなく、眼は未だに獲物を求める猛獣のように爛々と輝き、近寄ることは愚か目を合わせることすら拒絶しているかのようだった。
それもそうだろう。
リューグは、他人事のように理解していた。
あれだけのことを仕出かしたのだ。尋常ではいられまい。正気と狂気の狭間にありながら、なんとか理性を保っているという状況と見て間違いないだろう。
数多の敵兵を塵のように蹴散らし、殺戮したのだ。圧倒的な力で。暴圧。思い出すのも億劫になるほどの暴虐。それの前ではだれも彼もが為す術もなく命を散らせた。数の上では明らかにザルワーンの連中のほうが上であり、グレイ=バルゼルグ旗下の精鋭である彼らの迅速かつ的確な連携攻撃は、並大抵の戦士なら瞬く間に討ち取られていたはずだ。しかし、蓋を開けてみれば、討ち取られたのはザルワーンの兵士たちであり、ニーウェといえば掠り傷ひとつ負っていなかったのだ。体力気力の消耗は激しかったようだが、それにしても非常識極まりない話である。
無数の死体の真ん中に佇むニーウェという少年の鬼気迫る姿を見たとき、リューグは、恐怖とも感動とも付かぬ激情を覚える自分に気づき、同時にカインの言葉を思い出したものだった。
『もっとも、あれの力を知ればおまえも考えを変えるさ』
実際、リューグは、ニーウェに対する考えを改めなければならなくなった。彼は、戦いの素人などではなかったのだ。あの時、リューグの奇襲を受け止めたのも偶然ではなく、素人を装ったのはこちらの実力を測るためと見ていいのだろう。そう考えれば、あの直後ダグネがレックスに降伏したのは、リューグにとって幸運だったといえた。あのまま戦い続けていれば、ニーウェが実力を発揮していたかもしれない。そうなれば、リューグの首が飛んでいたのは間違いないのだ。
考えるだけで寒気がする。あのときのダグネの判断はこれ以上ないくらいの正解だった。あのとき、ダグネが咄嗟に土下座交渉を展開しなければ、《銅の鍵》は全滅していたかもしれないのだ。荒れ狂う暴風の如きニーウェの苛烈な攻撃によって。
彼は頭を振ると、改めてレックスの目を見た。レックス=バルガスの理知的なまなざしは、こちらの考えなどお見通しだとでもいわんがばかりだったが、しかし彼は黙して語らない。リューグの言葉を待っているのだろう。
彼は胸中で嘆息した。
理由を言葉にするのは、彼の趣味ではなかった。
街道を外れて進む馬車は時に大きく揺れ、決して快適なものとはいえなかったが、そんなことで文句を言える立場でもなければそんな状況でもない。そして、ふざけていられる雰囲気でもなかった。
重いのだ。馬車の中に漂う空気そのものが。
リューグは、仕方なしに口を開いた。
「……簡単に言いますと、俺はあなたたちに降った以上、生殺与奪の権利さえ明け渡したつもりでいたんですよ。ダグネの親父が降伏し、俺もあなたの支配下に入った。このとき、俺はダグネの親父と等価になった。狗の主はひとりですからね。しかし、親父は考え違いをしていたんです。あのひとは、降伏した後も俺の飼い主のつもりでいたんですよ。だから、ザルワーンの連中にあなたたちを売るなんていうとんでもない話を俺の耳にも入れてきたんでしょうね。俺の活躍に期待していたみたいですよ。俺があなたたちのうちのひとりでも捕らえれば、自分たちの手柄になりますからね」
リューグはひとしきり喋った後、険しかったレックスのまなざしが多少なりとも和らいでいることに気づき、わずかながらも安心した。もちろん、レックスがすべての疑念を捨て去ったということもないのだろうが。少なくとも、こちらの話に耳を傾けてくれるだけの余裕はあるのだ。いまはそれだけで十分といえた。
時間さえかければ、相手の信頼を勝ち取るくらいの自信はリューグにもあった。それくらいの実力を持っているという自負もある。ニーウェには敵わないかもしれないが、そこらの雑兵に後れを取ることはない。
「だが、君は彼らには同調しなかった。」
「当然でしょう。俺の主はレックス=バルガスただひとり。飼い主に刃を突きつける狗がどこにいますか?」
それがリューグの信条だった。人には人の、狗には狗の生き方がある。彼は、生まれながらに狗であった。狗として生きるしかなかったのだ。他に選択肢はなかった。といって、そのことでこの世を恨んだこともなければ、我が身を哀れんだこともない。飼い主に尻尾を振って生きてきたというわけでもないのだ。もちろん、飼い主の命に背くような真似はしたこともないが。
「狗か」
レックスは、こちらの言葉に納得したようなしていないような微妙な表情を浮かべていた。狗だなんだといわれても、即座には理解できないのかもしれない。
リューグは、当然の反応だろうと思いながら、彼の言葉に静かにうなずいた。
「ええ。俺はあなたの狗ですよ。信じられないのなら、三回廻ってワンとでも鳴きましょうか?」
「そんなことをしても、信じられないものは信じられまい。それに、いまこうして移動できているのは、君が予め馬車を確保しておいてくれたおかげだ。その事実を疑う必要はない」
「では、俺を信用してくださると?」
「ああ」
レックスの反応は、リューグに久方ぶりの安堵を与えた。同時に、全身に力が入る。飼い主と定めた相手が信用してくれるといったのだ。今まで以上に力を振るわなければならない。レックスの望み通りの結果をもたらさなければならない。レックスが求めるならば、剣を振るい、敵の命を奪うことも考えなければならない。ニーウェと同程度の活躍を求められても困惑するしかないが。
リューグは、気を取り直すように口を開いた。
「ではでは、御主人様。わたくしめに新たな命令をお与えくださいませ」
「とりあえず体を休ませ、次に備えて欲しい」
「次とは?」
問い返しながら、リューグの脳裏に嫌な予感が過ぎらなかったわけではない。だが、それを口にすることはできなかった。彼は狗。御主人様の命令を忠実に実行する狗に過ぎないのだ。
レックスが、囁くようにいってきた。
「ログナーの王都マイラムに潜入する」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「馬鹿げている」
グレイ=バルゼルグは、だれとはなしに吐き捨てた。
「馬鹿げている」
雨は、上がった。
大地を叩く激しい雨音も、天空を揺るがす苛烈な雷鳴も、もはや耳朶を賑わせることはなかった。夜空は未だに分厚い雨雲に覆われてはいたが、雨が降り出すような気配は認められなかった。雲の群れも、やがて風に流されて消えてしまうだろう。
それはいい。
いま、レコンダールは、大きな混乱と喧騒に包まれていた。それも当然の結果だろう。千人以上の兵士を動員したのだ。たかが四人の侵入者を確保するためだけに、だ。
グレイ=バルゼルグが憤るのも無理はなかった。
「馬鹿げている」
何度目かの言葉を発したあと、彼は、窓の外に目を向けた。魔晶灯の冷ややかな光を反射する窓ガラスには、グレイの苦渋に歪んだ顔がはっきりと映し出された。窓の外は、夜の闇がその圧倒的な支配力を顕示してはいるものの、無数の家々の窓から漏れる魔晶灯の光が、闇の権力に抵抗しようとしているかのようだった。そして夜空を包む静寂も、地上の喧騒の前では無力にならざるを得ない。
街中で騒いでいるのは、市民である。
市街には、先の戦闘によって想定外の被害が出ていた。レコンダールの街並みがでたらめに破壊され、いくつもの家屋が倒壊していた。道路や建物の崩壊に巻き込まれたのは、戦闘に参加していた兵士だけではない。市民の中にも多数の負傷者が出ており、まさに寝耳に水のこの事態に混乱するものや、市内で戦闘を行ったザルワーン軍を非難するもの、野次馬たちが夜中の市街に溢れ返っていた。
そもそも、当初の予定では、レコンダールに被害が出るような戦闘など起きるはずがなかったのだ。侵入者たちに宛がった宿舎を包囲し、寝込みを襲うだけでよかったのだ。動員したのは彼の率いる部隊の半数となる千五百名に及び、そのうち三百を宿舎の包囲に割き、残りを退路の封鎖に使っていた。通りという通りを遮断し、どこからも脱出できないようにしたはずだった。鼠一匹通さないくらいには厳重な布陣であるはずだった。
だれが指揮を振るおうと、大きな犠牲もなく完遂される程度の作戦だったのだ。例え戦闘のいろはも知らないアーレス・レウス=ログナーが陣頭に立とうと、グレイ配下の兵士たちがアーレスを上手く補助するだろうと考えられていた。それにアーレスとて無能ではない。
しかし、堤は穿たれ、瞬く間に決壊した。
猛将グレイ=バルゼルグ旗下の精鋭部隊に多数の死傷者が出たのだ。死者だけで百二十二名に及び、重軽傷者を含めると五百名以上の兵士が、たった四人の侵入者によって負傷するというだれにも想像できない事態に、グレイは、ただ天運を呪うしかなかった。
こんなところで大切な部下を数多く失ってしまったのだ。こんなところで、だ。ミレルバスから与えられた任務は、簡単なものだった。上手くいけば、彼は配下のひとりさえ失わずにザルワーンに帰還することができるはずだったのだ。だからこそ、アーレス・レウス=ログナーという若者を担ぎ上げて、この国にやってきたのだ。
端から、アスタル=ラナディース率いるログナー軍と正面からぶつかり合うつもりなどはなかった。そのつもりならば、もっと陣容は整えていただろう。そもそも、アスタル=ラナディース一派と決戦するつもりならば、ミレルバスとてグレイとその配下だけを派遣するような真似はしまい。
ザルワーンが動員しうる限りの兵力を以て決戦を行い、圧倒的な数の力で絶対的な勝利をもぎ取ろうとするだろう。あるいは、ナーレス=ラグナホルンや武装召喚師たちを使い、完全無欠の勝利を飾ろうとするはずだった。
しかし、ミレルバスはそれをしなかった。
アーレスの手前、ミレルバスが本音を口にすることはなかったが、グレイには自分に与えられた兵力だけで彼の思惑を察した。
属国の内紛を放っておけないのは、当然である。故に、例えアーレスにその気がなかったとしても、彼を担いでログナーに軍を差し向けるということくらいはしただろう。しかし、決戦には至らない。義理程度の兵力をログナー国内に滞在させ、頃合を見計らって帰還するということになっていただろう。
なぜなら、ザルワーンに動員できる兵力がない。総兵力ではログナーを遥かに上回り、全兵力を動員できれば、〝飛翔将軍〟アスタル=ラナディース率いる軍であろうと、粉微塵に打ち砕くことができるのだが、現状はそれもまた夢物語に過ぎなかった。
「馬鹿げている……」
グレイ=バルゼルグは、静かに嘆息した。脳裏にいくつもの光景が浮かんでは消えた。故郷の風景、濡れたような空の青さ、眼に眩しいほどの森の緑、彼が手塩にかけて育て上げた兵士たちの顔、顔、顔。
無数の名前が、彼の意識を席巻した。
馬鹿げているのは、内部抗争で兵力を疲弊させるザルワーンという愚かな国家なのか、そんな国に付き従うことしかできない己の有様なのか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
体が重い。
全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げている。
肉体を限界以上に酷使したからだ。
セツナは、馬車の暗闇をぼんやりと見つめていた。時折、ラクサスとリューグの話し声が聞こえてくるのだが、疲労の所為か、頭に入ってこなかった。どうでもいい話だからかもしれない。リューグなのだ。またくだらない冗談やつまらないことを話しているのかもしれなかった。それを聞いているのであろうラクサスには同情を覚えるが、彼を助けようとは微塵も想わなかった。
セツナはいま、そんな場合ではなかった。
先の戦闘で暴れ回った結果、尋常ではない疲労と苦痛が彼の肉体を駆け巡っていた。苦痛とは筋肉の痛みであり、疲労とは体力を使い切ったからに違いない。
(あの野郎……)
セツナは、ランカインを睨みたくなったが、そんな気力は生まれなかった。
あのとき、黒き矛を手にした瞬間、セツナの中でなにかが弾けた。いつも以上に鋭敏化した意識は、レコンダール北門近辺の情景を彼の脳裏に投影し、百人以上の敵兵ひとりひとりの一挙手一投足を捕捉した。それは正確極まりない行動予測へと繋がり、激しくも無駄のない攻撃を可能にした。
殺到する敵の殺気が、彼の肉体を加速させる。限界以上に引き出された運動能力が、セツナの攻撃をより凶暴なものにした。一閃で何人もの敵兵を絶命させ、地に叩き付ける一撃が、道路諸共敵の群れを粉砕した。
愉悦があった。
血の花が狂い咲き、死の音が響き渡るその狭間で、セツナは、笑っていた。
(俺は、笑っていた……)
セツナは、愕然とその事実を認めた。
矛を振るうたびに命が散っていく。断末魔の悲鳴を上げながら、ひとり、またひとりと死んでいく。
黒き矛の圧倒的な力が、彼の感覚を常軌を逸したものにしていた。尋常ではなかった。愉快痛快といってもいい。今にして思えば反吐の出るような感情が、戦闘中のセツナの意識を染め上げていた。
故に、躊躇なく矛を振り回した。
(なんで笑えるんだよ?)
ひとが死んでいく。
敵とはいえ、人間なのだ。
人間の死を笑っていられるのか。
笑って人間を殺すなど、正気の沙汰ではない。いや、それは人間に限った話ではない。笑いながら命を奪うなど、あってはならない。
狂っている。
(俺は、狂っている?)
セツナは、その自問を否定したかった。しかし、網膜に焼きついた凄惨な笑みがそれを許さない。
殺戮を楽しむ少年の顔は、死にゆく敵兵の瞳に映っていたのだ。セツナは、それを見ていた。黒き矛によってもたらされる感覚の肥大がそれを可能にしていた。そして、その上で彼はさらに笑っていた。
セツナは、叫び声を上げたくなった。