第六百六十六話 戦神
リネンダール北西に陣を張ったアバード混成軍だったが、その夜のうちに陣を退かざるを得ない事態に陥っていた。
事の発端は、真夜中のことだった。
突如として夜の静寂を引き裂く轟音が響き渡り、天地そのものが震撼したかのような衝撃がアバード混成軍本陣を襲った。シーラ・レーウェ=アバードを始め、サラン=キルクレイドら突撃軍首脳陣は、本陣を包み込む混乱の中、状況の把握に務めるだけで精一杯だった。それは、遊撃軍の首脳陣も同じだったに違いない。本陣のみならず、混成軍全体を覆った混乱は、筆舌に尽くしがたいものだったのだ。
アバード突撃軍、同遊撃軍が再度合流を果たしたのは、リネンダールに出現した巨鬼の攻撃力に戦慄し、態勢を立て直すために後退してからのことだ。突撃軍がサランの提案によってリネンダール北西に陣を張り、遊撃軍に合流を促した。敵は一体。しかし、その巨大さは、通常戦力では対応しきれないものだということは明らかだ。合力し、事に当たる他はない、とだれもが想うだろう。合流したところで手の打ちようがないとも考えるだろうが。
ともかく、合流を果たした両軍は、軍議もそこそこに巨鬼の出現による被害状況と現有戦力の確認を行った。それによって、巨鬼が出現したというだけで両軍合わせて千人近い兵士が命を落としたということが判明している。もちろん、リネンダール市内の調査を行ったメレド軍黒薔薇戦団竜胆隊、蓮華隊を含めてではあるのだが。
対策を練るにしても、敵の情報があまりに少なすぎた。というよりも、対策の取りようのない相手だということがわかっている。巨鬼は、大型皇魔に分類されるギャブレイトなどよりも遥かに巨大であり、 並外れた力を持っているということは一目でわかった。なにより、その破壊力だ。ただ拳を振り下ろしただけで大地が割れ、地形が変わった。その近辺にいた兵士たちは、抵抗することもできずに死んでいった。
的は巨大だ。
射程距離に収めることさえできれば、いくらでも矢を射ることは可能だろう、とサランはいったが、その射程に近づくことができるかどうかが問題だった。ただでさえ巨大な鬼は、その攻撃範囲も広く、長大だ。通常の弓では、鬼の攻撃範囲外から攻撃することは不可能に近い。
サランの剛弓ならば可能だというのだが、それで鬼を攻撃できたとして、鬼を倒すことができるかどうかは不明だった。やってみるしかない――サリウス・レイ=メレドの言葉に反論するものはいなかった。
『ウェイドリッド砦攻略組を頼るのは、それからでも遅くはありますまい』
サラン=キルクレイドは、自負とともに告げた。
が、彼の思惑を粉々に打ち砕くような事態が起きた。
それが、真夜中の混乱である。
本陣が混乱に陥った轟音の正体は、すぐに判明する。轟音の直前、南東の空に光が瞬いたという物見の証言があったのだ。南東といえば、リネンダールの方角である。巨鬼の仕業ではないかというサランの推測は、当たった。
再び、リネンダールの方角の空が瞬いたかと思うと、光の塊が混成軍陣地に向かって飛来してきたのだ。爆音と衝撃と熱波が混成軍陣地を徹底的に破壊していく。光の塊が原野に大穴を開け、炎を撒き散らし、死を蔓延させる。
リネンダールに出現した巨鬼の仕業としか考えられないのだが、だとすれば、巨鬼は想像を絶する力の持ち主ということになる。そして、それが正しいのだろう。
「冗談じゃねえ」
シーラが、吐き捨てるようにいった。鬼の攻撃範囲から逃れるために、リネンダールの北西に退いたはずだった。退いて、陣を張ったはずだったのだ。それなのに、こんな事態に陥っている。鬼の力を見くびっていたわけではないというのに。
混成軍は、一夜にして壊滅的な損害を被り、リネンダールとさらに距離を取らなければならなくなったのだ。陣を撤収する暇もない。とにかく、逃げ出さなければならなかった。陣地全体が混乱するのも無理はない。
リネンダールの巨鬼は、三度、混成軍陣地に光の塊を寄越してきた。無慈悲な破壊が無意味な死を呼び、死が絶望を招く。
「ウェイドリッドに向かう」
シーラは、半数近くまで激減した兵を纏め上げると、南西に進路を取った。巨鬼の射程距離がわからない以上、ウェイドリッドを目指すにしても大きく迂回しなければならない。
「ウェイドリッドも、あの攻撃の射程範囲内かもしれません」
「おそろしいことをいうなよ、じいさん」
「しかし、最悪の事態は想定しておくべきかと」
「最悪の事態……か。俺たちが生き残っている。最悪の事態には陥っていないと思うぜ」
シーラは、サランの涼し気な横顔を見ながらいった。
本心からそう思っているわけではないが、戦意が落ち込んでいる現状、景気の悪い言葉を吐きたくはなかった。状況は最悪だ。クルセルクの中心を敵に抑えられただけならばまだしも、その敵というのが想像もし得ないほど凶悪な存在であり、圧倒的な攻撃力と射程距離を兼ね備えているのだ。
もっとも、あの巨鬼を無視してゼノキス要塞、そして魔都クルセールを落とすことは必ずしも不可能ではない。
しかし、巨鬼の存在を黙殺して魔王を討ち、クルセルク戦争を終わらせたところでどうなるというのか。
(魔王を討つことが大義ならば、鬼を放置するのは大悪以外のなにものでもないな)
シーラは、この戦争の大前提を思い出しながら、ウェイドリッドまでの距離を思った。
「擬似召喚魔法は成功しましたよ。これで彼らはウェイドリッドから動けなくなったはずだ。リネンダールの召喚生物を撃破しない限り、彼らの完全な勝利はありえない、といっておきましょうか」
オリアス=リヴァイアが、自分でも驚くほどの軽い言葉を吐いたのは、二十六日の朝議の場で、だった。クルセルク全土を揺るがすような大戦争の真っ只中だ。政が正常に機能していると言い難いのは、会議室の現状を鑑みれば一目瞭然だった。
魔王ユベル・レイ=クルセルクと重臣数名に書記官くらいしかいない。三都市が連合軍の手に落ちたことで、国政にまで悪い影響が及び始めている。魔王こそ終始強気な態度を崩さないものの、戦いのなんたるかを知らない文官や、元より魔王に懐疑的な軍人たちは、不安を抱かずにはいられないようだった。
(当然だな)
戦争が現状のまま推移すれば、クルセルクが負けるかもしれないのだ。
「そうか」
魔王は、興味なさげにつぶやいた。実際のところ、彼にとっては召喚魔法の成否など、どうでもいいことだったのかもしれない。彼の目的は、クルセルクを舞台にした戦争に勝利することではない。ガンディアを滅ぼすことなのだ。そのためには、戦線を押し返す必要があるのだが、オリアスの提示した方法では、連合軍戦力を叩き潰すことはできても、撃退することはできそうにない。
しばらくして、魔王が再び口を開く。
「で、連合軍がリネンダールを無視する可能性は?」
「魔王を討てばどうにかなるかもしれない皇魔とは違い、召喚生物は、術者を倒しても無害化できるわけではありません。聖皇の例を見てもわかる通りね」
聖皇の神々も聖皇の魔性も、聖皇の死後、この大陸に留まり続けている。
「つまり、君が死んでも、その召喚生物はリネンダールに存在し続けるということか。連合軍がその事実を把握しているかはともかく、捨て置くことはできないのだな?」
「理解しているでしょう。連合軍には、高名な武装召喚師が参加しているのですからね」
アズマリア=アルテマックスの最初の弟子であるファリア=バルディッシュならば、ひと目で理解できるだろう。リョハンの戦女神とも謳われる人物は、武装召喚術の黎明期に立ち会った数少ない人間であり、偉人といってもいい。
アズマリアが発明した武装召喚術は、ファリア=バルディッシュを始めとする四人の弟子に伝授していく過程でより洗練され、磨き上げられていったというのだ。そしてオリアスがアズマリアから教わったのは、アズマリアと四人の高弟によって精練された技術であり、オリアスは、彼女たち四人の高弟を尊敬してもいた。
ファリア=バルディッシュほどの人物が、武装召喚術と召喚魔法の違いを認知していないはずもない。アズマリアから何度となく聞かされたはずだ。聞かされていなかったとしても、それくらい理解していなければ、黎明期の召喚術師とはいえまい。
「その武装召喚師たちが、召喚生物を攻略する可能性は?」
「皆無とはいいませんよ。連合軍には、守護龍を打倒した武装召喚師が存在しますのでね」
(それに、リョハンの戦女神と四大天侍。それらを相手にどの程度の時間が稼げるかな)
術式に巻き込めたのは、たった四百人程度の人間と、オリアスの擬体に過ぎない。擬似召喚魔法の贄としてはあまりに少ないのだ。オリアスの擬体こそ、常人数千人分の価値はあるのは疑いようがないにしても、ザルワーンの守護龍ほどの力を発揮するのかどうか。半信半疑ではあったが、召喚に成功したという事実は、彼に自信を与えてもいた。成功したということは、呪文による指定に近似した召喚生物が、呼びかけに応じたということにほかならない。
(戦の神)
破壊と殺戮を司る戦神こそ、このクルセルクの戦場に相応しい。
「ですが、時間稼ぎにはなるでしょうし、あれを攻略するには、連合軍も戦力を消耗せざるをえないはずです」
連合軍は、武装召喚師や選びぬいた戦力だけをぶつけてくるだろうが、それらを叩き潰すだけの力はあるはずだった。
「つまり、この戦局を覆すことができる、ということか」
「ええ。あとは陛下の頑張り次第ですな」
オリアスは、にっこりと微笑んだ。魔王の嘆息が聞こえる。
「……気楽に言ってくれるものだ」
「いいますよ。わたしはわたしの責務を果たしたのですから」
「よかろう」
ユベルは立ち上がると、左右の者に目線で朝議の閉会を促した。
「俺も俺の責務を果たすとしよう」
ユベルは、魔王としての責務を果たさなければならないのだ。