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第六百六十五話 彼女が見た光

「あれから、随分経つわ」

 ニュウ=ディーは、ファリアの隣に腰を下ろしていた。屋上には、どういうわけか長椅子がいくつも設置されていて、大きなテーブルまで用意されていた。ウェイドリッド砦の人々の暮らしを彩るための要素なのかもしれないが、軍事拠点には似つかわしくない風景に思えた。

 とはいえ、こういうときにはちょうどいい空間だった。

 冬の夜、透明な冷気が息を凍らせるかのように通り抜けていく。

「なのに、リョハンはなにも変わらない。大ファリア様を頂点とする組織のまま、変わろうともしない。変われるはずがないって、だれもが思ってる。護山会議の連中だって、本心では戦女神に取って代われるだなんて思ってもいないのよ。それなのに、大ファリア様の足を引っ張ろうとするのだから、困ったものよね」

「……なんの話ですか」

 ファリアは、突拍子もないニュウの話題についていけなかった。ついていく気にもなれなかった、というべきかもしれない。いまのファリアにリョハンの政治事情を話されても、どうすることもできない。いま、ファリアとリョハンにはなんの接点もないはずなのだ。

 ニュウは、たっぷりと間を置いてから、こちらを見た。月明かりを帯びた灰色の髪が、静かに揺れる。彼女が口を開いたとき、驚くべき言葉が発せられた。

「ファリアちゃん、リョハンに戻ってこない?」

「リョハンに……戻る?」

 反芻するようにつぶやいてから、彼女が言い出したことの衝撃性に気づく。ファリアは、目を見開いて、ニュウの目を見つめた。褐色の瞳の真摯なまなざしが、ファリアに刺さる。

「この戦いが終わったらの話だけどね」

 彼女はそう前置きしたうえで、続けた。

「この戦いが終わったら、当然、わたしたちはリョハンに帰るわ。クオールに血反吐吐いてもらってね」

 ニュウ=ディーら四大天侍とファリア=バルディッシュが、ヴァシュタリア勢力圏内のリョハンから、どうやってこの地にやってきたのかというと、彼女のいう通りなのだろう。超加速と飛行というレイヴンズフェザーの能力で、超長距離をわずかな日数で移動してきたということにほかならない。クオールのいつもの移動手段だが、まさか彼も、複数人の移動手段として利用されるとは思ってもいなかっただろう。

「クオールも大変ですね……」

「いまも寝込んでるわ、彼。今度会ったらファリアちゃんから抱擁のひとつでもしてあげてよ。そうしたら、彼も死ぬような想いをした甲斐があるって考えてくれるから」

「どうして?」

「まさか、ファリアちゃん……」

 ニュウがなぜか愕然としたような表情をしたのだが、ファリアには彼女の反応の意味が理解できず、怪訝な顔になった。自分とクオールにどのような関係があるというのだろう。

「いえ、いいわ。わたしがいうことじゃないし」

「はい?」

「クオールへの激励はともかく、そのとき、あなたも一緒に帰るのもありなんじゃないかな。大ファリア様も、喜んでくれるはずよ」

 ニュウがその名を言葉にして発したとき、ファリアは、言い知れぬ緊張を覚えた。わかってはいたことだが、尋ねる。

「お祖母様……いえ、大召喚師様も、ウェイドリッドに?」

「もちろんよ。まだお会いしていなかったの?」

「はい」

「どうして? 大ファリア様、ファリアちゃんと逢えることを楽しみにしていらしたのに」

 ニュウが、不思議そうな顔をした。やはり、ニュウには、ファリアの心の奥底に渦巻く想いなど理解できないのだろうし、彼女の中では、ファリアと大ファリアは仲のいい家族という認識でしかないのかもしれない。

 仲のいい家族ならば久々に対面するというだけで、特別な気構えなど必要はない。

 しかし、とファリアは想う。自分は、大ファリアとの再会を望んでいないのかもしれない。対面を、恐れているのかもしれない。

 祖母に逢えば、なにもかも見透かされてしまうのではないか。心の奥底に閉まっている感情まで見抜かれ、言葉にされてしまうのではないか。そうなれば、ファリアが必死になって抑えているものが溢れだしてしまうかもしれない。

 堤が壊れれば、どうなるものかわかったものではない。

 それは、恐怖以外のなにものでもなかった。

「……怖くて」

 ファリアが本心を漏らしたのは、相手がニュウだからだ。ニュウ=ディーには心を許している。兄弟のいないファリアにとってただひとり、姉のように想える人物だった。

「怖い?」

「……わたしは結局、大召喚師様の言いつけを守っておくべきだったんです。リョハンに留まり、修練を積み、武装召喚師としての技術を磨いていくべきだった。父の仇を討つことに心を囚われ、リョハンを飛び出した挙句、なにもできなかった。聞いて、いますよね?」

「ええ」

「わたしは、リョハンの命令を無視し、アズマリアに弓を引いた。ただそれだけならまだしも、アズマリアが母の姿になったとき、なにもできなくなってしまった」

 アズマリア=アルテマックスを目撃した瞬間、感情は一瞬にして沸点を超えた。燃える想いは怒りとなって、殺意となった。攻撃を躊躇うこともなかった。それなのに、変わらぬ母の姿を見たとき、音を立てて心が折れた。

 その瞬間のことは、いまでも時々思い出した。そして、心が震えた。自分の弱さに。自分の脆さに。

「それが、普通じゃない?」

 ニュウの目は、穏やかだ。はっとするほど優しいまなざしに、包み込むような声音は、昔からなにひとつ変わっていない。

「あなたが強い決意を以って臨んでいたことは知っているわ。クオールの忠告を無視してまで、アズマリアを討とうとしたんだもの。あなたがどれだけの想いだったのか、想像もできる。でも、だからといって、なんの罪もないミリア様の命を奪うだなんて、無理よ。クオールやわたしにも無理でしょうし、大ファリア様にだって無理なんじゃないかしら」

「でも……そうしないと、父の仇を討てないじゃないですか。母を救えないじゃないですか。わたしは、その両方を叶えようとした。叶える好機を得たんです。ようやく……やっと。それなのに」

 ファリアは、ニュウの目から顔をそらすと、空を仰いだ。息が白く染まる向こうで、星が無数に瞬いている。あざやかな星空だった。あざやかすぎて、意気が吸い込まれそうになるほどだった。

「……何度も言うけど、わたしは、復讐には反対の立場よ。アズマリアは討たなければならない。でもそれは、リョハンを襲撃したことの報復であってはならない。メリクス様を殺害したことへの復讐でもなければ、ミリア様を奪ったことへの報いであってもね」

「リョハンの意志として……」

「そういうこと。よくわかっているじゃない」

「お祖母様にも、そういわれましたから」

 ふと、ファリア=バルディッシュの威厳と慈しみに満ちた声音を思い出す。

『あれは、我が師にして始祖召喚師でありながら、この世の生きとし生けるものすべてに敵対する存在といっていいでしょう。生を嗤い、死を喰らう。自由なる魂の存在でありながら、肉の器に囚われることを望むもの。存在そのものが矛盾しているはずなのに、あれは、この世に存在し続けている。あれを討つこと――それがわたしの使命であり、リョハンのこの世における役割なのです』

 だからこそ、復讐であってはならないのだ。ただ、リョハンの意志として、アズマリア=アルテマックスの存在を許すことはできない。そのための決意表明としての討伐任務であり、それはアズマリアへの挑戦でもあった。

「わたしは、それでも、父と母を奪ったアズマリアが許せません」

 十年前の光景が網膜に焼き付いている。父の死と、母の消失。両親を同時に失った衝撃と喪失感は、彼女を絶望の底に叩き落とした。這い上がって、光を見出すには、アズマリアを倒すしかないのではないか――そう思って、今日まで生きてきたはずだった。

 と、そこまで考えて、ファリアは不思議に思った。

(絶望……光……)

 光を見失った自分が、どうして光を見ることができているのだろう。

 奇妙なことであり、ありえないことのようにも想える。しかし、彼女は確かに、やわらかな光に包まれているという感覚を覚えることがある。

 安らぎを感じるのだ。

 あの少年と同じ空間にいるというだけで、心が安まるのだ。

「だからいったのよ。やめておきなさいって」

 ニュウが、肩を竦めてため息を吐いた。彼女は、ファリアの討伐任務への参加に猛烈に反対した数少ない人間だった。

「でも、いまならあのとき飛び出していて良かったって思えますよ」

「そっか」

「はい。リョハンに留まっていたら、わたしはきっと、ここにはいませんから」

 セツナと出逢うこともなければ、彼の命を救い、彼とともに死線を潜り抜けてくるようなこともなかったのだ。修練に打ち込んでいれば懊悩することなどなかっただろうが、幸せを感じることもできなかったかもしれない。

「ここにいることがファリアちゃんの幸せなのね」

「……きっと、そうだと想います」

「そう。だったら、リョハンに連れて帰るなんて、できそうもないわね。残念」

「残念ですか?」

「だって、ファリアちゃんがいないと、寂しいもん」

 ニュウは少し照れくさそうに、しかし心から寂しそうにいった。

 月の眩しい夜のことだった。

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