第六百六十四話 ウェイドリッドにて
ウェイドリッド砦が連合軍の支配下に入ったのは、二十五日の夕方のことだった。
西の空が赤く染まるころ、膠着状態だった戦局が大きく動いた。指揮官であったカーライル=ローディンが流れ矢に眉間を貫かれて戦死したことで、黄金戦斧団の指揮系統が混乱に陥ったのだ。連合軍はそこに付けこんだといっていい。猛攻に猛攻を重ね、ウェイドリッド砦の複雑な地形を利用していた黄金戦斧団の兵士たちを次々と打ち取り、降伏させるに至った。
黄金戦斧団四千名のうち、死者は八百二十名に及ぶ。ガンディア決戦軍、ジベル突撃軍ともにそれなりの損害を出したものの、黄金戦斧団の被害に比べれば極めて少なかった。砦内の戦闘でもっとも多くの敵を討ち取ったのは、《蒼き風》のルクス=ヴェインであり、“剣鬼”の健在ぶりが強く喧伝された。
もっとも、砦外の戦闘を含めると、《獅子の尾》のセツナ・ラーズ=エンジュール、四大天侍のマリク=マジクが千体以上の皇魔を撃破しており、一位を争っていた。
「堅牢な砦も、数倍する戦力に攻め立てられれば、瞬く間に落ちるもの。戦術もなにもあったもんじゃない」
エイン=ラジャールが、塔の頂から砦内を見下ろしながら、ぼやくようにつぶやいていた。砦内はいま、戦死者の亡骸を処理する兵士たちでごった返している。仲間の死体を泣きながら運ぶものもいれば、敵兵士の死体を担ぐガンディア兵もいる。軍医が駆け回り、衛生兵がついて回る。
マリア=スコールも引っ張りだこのようであり、つい先程顔を見合わせたときは、自分は《獅子の尾》専属じゃなかったのか、とセツナに文句をいう始末だった。もっとも、そうはいいながら、軍医としての仕事には手を抜かないのがマリアのいいところであり、彼女の腕の良さは、ガンディア決戦軍中に知れ渡っていた。しかも美人だ。彼女に診てもらいたいというだけでなく、彼女じゃなければ嫌だと言い出すものまでいるという。
マリアが愚痴をいいたくなるのも、わからなくはなかった。
「これじゃ、数と力で勝っているようなものですね。ま、別に問題はないんですけど」
エインが肩を竦めたのが、気配だけでわかった。塔の天辺、屋上で、セツナたちは一時の休息を満喫している。不意にミリュウの腕がセツナの首を抱き寄せたが、彼は抗わなかった。抗うだけの余力がない、というわけではないが、いまは彼女のなすがままにされるのも悪くはない気分だった。
「その負担がセツナに押し寄せてるんだけど……わかってる?」
「わかってますよー! だから、戦術や策でなんとかできないか考えているんじゃないですか」
「セツナを基点にするような戦術なら、同じことだと思うわ」
「それは……そうですけどぉ」
エインが困ったようにうめいた。彼としても、そこをなんとかしたいともがいているところなのかもしれない。しかし、エインに求められているのは、セツナの、カオスブリンガーの運用法なのではないか、とも思うのだ。エインほどカオスブリンガーの性能を熟知した人間は、セツナ以外にはいないといってもいい。
「まあ、そういうなよ。エインだって必死なんだ」
「セツナってば、この子には甘いんだから」
「そうか?」
「俺にだけじゃないですよね?」
「そうでございますわ。ご主人様は、ご自分以外には大変甘うございます」
「自分にも、ね」
レムの評価を打ち消すようにつぶやくと、セツナは、向き合うべき現実に視線を戻した。ウェイドリッド砦の北、リネンダールという都市があった場所に、巨大な物体が出現している。物体、というよりは生物といったほうがいいのだろうか。いまは遥か遠方になにかが聳えているという風にしか見えないのだが、カオスブリンガーを手にしているときに見たそれは、間違いなく生き物だった。それも、この世にあらざる生物の姿をしていた。
想像上の鬼に近く、レスベルやベスベルによく似ていた。しかし、レスベルなどよりずっと巨大だ。ランシードの戦場で見えた大鬼よりも余程巨大で、比較するだけ無駄だった。
(召喚されたんだな。きっと)
都市をひとつ丸呑みするように出現したという点でも、ザルワーンの守護龍と同じだ。巨大さもよく似ている。
力も同じなら、こちらに勝ち目はあるのだろうか。
(あのときは、クオンがいたから勝てたんだ)
無敵の盾があればこそ、セツナは全力を振り絞ることができた。
クオンはいま、北の地に向かっているはずだった。
その夜、ファリアは、憂鬱な気分の中にいた。
ウェイドリッド砦内で《獅子の尾》に割り当てられた宿舎、その屋上でただ一人夜風にあたっていたのも、そのせいなのかもしれない。月明かりの眩しい夜だった。風はなく、星々の光も強い。雲はあったが、月や星を覆い隠すほどではなく、むしろ冬の星空の美しさを際だたせるのに一役も二役も買っている。真冬だ。夜気は冷たいが、頭を冷やすにはこれくらいの冷たさが必要なのではないかという考えが、彼女の足を屋上に運ばせた。
ウェイドリッドを巡る攻防は、軍師の想定通りに推移しながらも予想以上の速さで決着がついた。連合軍側の圧勝であり、クルセルクの正規兵からなる黄金戦斧団は、軍団長の戦死による戦線崩壊という結末に至ったことに消沈したということだ。
対して、圧倒的な勝利によって、その実力のほどを見せつけた連合軍であったが、余韻に浸っていることなど許されなかった。ゼノキス要塞での決戦が控えているからではない。ウェイドリッド砦の北に位置し、同日にアバード混成軍による攻撃が加えられる予定だったリネンダールに異変が起きたというのだ。
元々、リネンダールには不穏な気配が漂ってはいた。都市の内外に防衛戦力がまったく配置されておらず、住人の姿すらないという事前情報は、リネンダールへの警戒感を強めるに足るだけのものだ。戦災を恐れて市民が逃げ出した、あるいは避難させられたというのならわからなくはない。しかし、リネンダールには市民だけでなく、都市を守るべき兵士の姿もなければ、皇魔の姿さえ見当たらなかった。
罠なり策なり、なんらかの仕掛けが施されているに違いない――ナーレスの読みは当たったということになる。
しかし、ゼノキス要塞を目指すには、リネンダールを抑えなければならず(でなければ背後が隙だらけになる)、またクルセルクの交通の要衝であるリネンダールの制圧が今後の戦いを優位に進める上で絶対的に必要ということもあって、アバード混成軍によるリネンダール攻略作戦は遂行される運びとなった。
結果、リネンダールが消滅、大都市の跡地に巨大な鬼が出現した、というのだ。
そう報告し、連合軍に注意を促したのは、彼女の直属の上司であるセツナと、彼女の祖母にしてリョハンの指導者であるファリア=バルディッシュのふたりだ。もっとも、祖母の場合は自分が目撃したのではなく、四大天侍のマリク=マジクによる目撃情報を伝えたということのようだが。
ウェイドリッドとリネンダールは近い場所にあるとはいえ、早馬を飛ばして一日ほどの距離があるのだ。いかに強力な武装召喚師といえど、簡単に埋められるような距離ではない。
セツナとマリク=マジクが異常といっていいのだが、もっといえば黒き矛が強すぎるのだ。マリク=マジクは、七つの召喚武装を同時に扱うことで、通常よりも遥かに強力な補助を受けている。対して、セツナはカオスブリンガーだけであり、たったひとつの召喚武装でマリク=マジクと同程度の視力を得ているということになるのだ。
規格外にも程があるし、セツナがそれだけ黒き矛の力を引き出せるようになったということかもしれない。
ザルワーン戦争を経て、セツナは黒き矛への理解を深めたのだ。能力の使い方も、力の配分も、身に染み付いてきているようだ。彼がルクス=ヴェインを卒業するのも時間の問題だろう。
(なんでセツナのことばかり考えるのよ)
自問とともに、さらに沈む。
彼は、前進している。少なくとも、明日に向かって進んでいる。困難極まる道を、ひたすら駆けている。
そんな彼の後ろ姿を見ていると、自分が情けなく思えてならないのだ。
ファリアは歩みを止めてしまった。リョハンの命令を無視しただけでなく、母の肉体を乗っ取った魔人を討つこともできなかったのだ。《獅子の尾》は、行き場所を失った魂の拠り所として彼女を受け入れてくれたものの、それは、ただの現実逃避ではないのかと考えてしまう。
父の仇を討つこともできず、母を取り戻すこともできない。母の魂を救い出すことさえできなければ、リョハンの使徒としての使命を全うすることすらできない。現実に目を背け、眼前に突きつけられた《獅子の尾》の仕事だけをこなす日々。それはそれで充実している。セツナとともに過ごす日常ほどの幸福は、ない。彼を目で追っているだけで幸せを感じてしまうほどには、飢えている。
その飢えを満たす方法は、知っている。ミリュウのように振る舞うことができれば、一時的に飢えを凌ぐことも可能だろうし、それ以上に満たされるかもしれない。
「どうしたの? 元気ないわね」
振り返ると、ニュウ=ディーの心配そうな顔が、月光に照らし出されていた。
四大天侍に名を連ねる彼女は、リョハン最高峰の武装召喚師であり、また、ファリアにとっては実の姉のような存在でもあった。リョハンに数多くの友人知人がいるが、ニュウ=ディーほど関わりの深い人間は少ないだろう。
大召喚師の孫であり、同じ名を持つファリアは、リョハンにおいて腫れ物のような扱いを受けていた。
「ニュウさん……」
「久しぶりね、ファリアちゃん」
彼女は、ファリアの現状を理解しているのだろう。大袈裟なほど、いつものような口調で問いかけてきた。
「こちらこそ、お久しぶりです」
ファリアは、力なく笑い返すしかなかったのだが。




