第六百六十一話 魔ヶ津戦(七)
ウェイドリッド砦を巡る攻防が始まって、半日が経過した。
西側の丘陵地帯に点在した皇魔の小隊はほぼ壊滅状態となり、ニュウ=ディーらリョハンの武装召喚師たちは、暇を持て余していた。五千体はいたであろう皇魔のほとんどが死体と成り果て、雪解けの山河に横たわっている。冬の気温の低さが死臭の蔓延を抑えているものの、それも時間の問題だろう。これだけの数の死体を処分するには、生半可な労力では難しいだろうが、それは彼女たちの役割ではない。数だけの兵隊にでもやらせればいいだけのことだが、それも戦後に先送りになるのは間違いなかった。それは、ガンディアのザルワーン地方の抱える問題でもある。あの大地には一万以上の皇魔の死体が転がっている。
(なんだかなあ)
ニュウ=ディーは、どうでもいいことばかり考えてしまう自分の愚かさに嘆息を浮かべた。猛烈な脱力感の中では、思考回路を正常に保つことなどできるわけがないのだ。無論、そんなものは言い訳に過ぎないのだが、皇魔討伐に全力を注いだ以上、思考能力が低下したとしてもなんの問題もない、とも思っている、ニュウの召喚武装は強力な反面、消耗が激しすぎるのだ。長時間全力で稼働することを想定した武装ではなかった。
それでも、彼女はブレスブレスの召喚をやめなかった。
「そんなに疲れるなら、別の術式を考えればいいのに」
マリク=マジクは、七つの召喚武装を維持したまま、まるで世間話でもするようにいってくるのだが。
「そんなことを平然と出来るのはあなたくらいのものよ」
「そうかなあ?」
彼には、凡人の苦悩など理解できるはずもない。
ウェイドリッド砦外部の皇魔の掃討が済んだということは、本隊が砦内に突入したということでもある。
連合軍の盟主国であるガンディアの軍隊のみで構成された、通称ガンディア決戦軍は、皇魔の死体が転がる丘陵地帯を踏破すると、西門を叩き壊して突入、砦内での激戦を開始したようだった。全軍が突入したわけではないようだが、半数以上が砦内の戦いに参加したのは間違いない。砦の外で待機しているのは、ガンディア国王レオンガンドとその親衛隊、それにいくつかの部隊だけだった。
ウェイドリッド砦の内部には、クルセルクの正規軍だけが籠もっているという事前情報の通りならば、ニュウたちの出番はないだろう。リョハンの武装召喚師が相手をするのは、魔王が使役する皇魔だけだ。
ウェイドリッド砦内部に皇魔が潜んでいれば、ガンディアの兵が知らせてくれるだろうが、いたとしても彼女たちの出番はないかもしれない。砦というからには敷地は広く、皇魔が潜むには十分な空間もある。しかし、ガンディア軍に随伴した《協会》の武装召喚師もいるのだ。砦外部の戦闘でニュウたちを酷使し、彼らを休ませたのは、内部の戦闘で酷使するために違いなかった。《協会》の召喚師とはいえ、仕官先が見つかるかもしれないとなれば、死ぬ気で働くだろう。
《協会》が、ひとつの国家に肩入れしていると見られるような契約を結ぶことはないにしても、だ。連合軍参加国ならば、ガンディア以外にも仕官先は見つかるはずだ。《協会》は武装召喚師の仕官先を斡旋する組織でもある。本来の目的は、武装召喚術の普及と発展だが、それは現状を鑑みればほとんど達成されたと見てもいいだろう。
武装召喚術は、いまや大陸全土に広まったといっていい。それが活用されているかどうかはともかく、《協会》の支局は大陸全土に点在する。故に《協会》の情報網は凄まじいといえるのだが、ザルワーンやクルセルクのように《協会》に支局設立を許可しなかった国もある。ヴァシュタリアでも、リョハン以外での活動は許されていないし、ディール王国でも一部地域での活動を許された程度だった。その点、全土での普及活動を許したザイオン帝国の懐の広さには驚かざるをえないが、いまは関係のない話ではある。
「いずれにしたって、魔王が皇魔を従えていたという事実を知らなかったのは、無能では済まされないような失態だと想うんだけど」
「知ったからといって、他国に干渉しないというリョハンの理念に反するようなことはできないわ。今回だって、ガンディアから要請があったからここまで来たようなものだし」
「クオールがいなかったら、要請さえ来なかったと思うけどね」
「それはそうでしょ。連絡を取る手段がないんだもの」
「そういう意味じゃ、クオールが一番の手柄かもね」
マリクは、丘の上でなにやら踊りながら、そんなことをいって笑った。七本の剣も、彼が舞うのに合わせて空中を旋回し、複雑な七色の軌跡が描かれていく。
虚空に刻まれる極彩色の模様を見つめながら、ニュウが考えるのは、クオールのことだ。彼はいまもマルウェールでぶっ倒れているのだろうが、あれだけの長距離をほとんど休みなく移動したのだから当然の結果だといえる。反動で死ななかっただけましだと彼がうめいていたが、冗談とも言い切れなそうだった。
クオールの召喚武装レイヴンズフェザーは、飛行能力を有した召喚武装の中でも特に優れた代物といってもいいだろう。超長距離を一瞬にして飛行する能力がなければ、リョハン・ガンディア間をわずか数日で移動することなどできるわけがなかった。そして、彼がリョハンとガンディアの間を取り持つようなことがなければ、このような状況にはなりえなかったのだ。
護山会議も、ファリア=バルディッシュも、ファリア・ベルファリア=アスラリアの存在を諦めてはいないのだ。
(女神の後継者を手放すことなどできるわけがない……わよね)
ニュウの脳裏にちらついたのは、自分を鍛えあげることに余念のない少女の小さな背中だった。
「あ……」
マリクが、突然踊るのを止めた。七つの剣から炎や雷光が消え、落下する。制御を失ったのだろうが、彼がそのような失態を犯すはずもなく、ニュウは怪訝な顔になった。
「どうしたの?」
「えーと、あっちにあるのってリネンダールだっけ?」
彼は、北の方角を指し示していた。ウェイドリッド砦の北に一日ほど歩けば、リネンダールという都市があるらしいのは、ニュウも聞いてはいる。
「ええ、そうだけど……リネンダールがどうかしたの?」
尋ねながら、マリクの研ぎ澄まされた感覚が遥か北の都市に起きた異変を捉えたのだと理解した。七つの召喚武装を同時に用いる彼の五感は、それこそ人間など遠く及ばないものに成り果てている。ニュウの感覚も並外れたものではあるのだが、彼のそれとは比較しようのないものだった。
「うん、凄く、まずい」
「まずい?」
「ニュウには見えない? 聞こえない? わからない?」
彼がニュウの名前を普通に呼ぶのは、極めて珍しいことだった。それだけマリクが冷静ではいられなくなっているという証明なのかもしれない。
「なに? なんのことよ?」
「大規模な武装召喚術……じゃない。少なくとも、こんな術式で召喚武装は呼び出せない。なんだ……これは……」
「マリク? どうしたの? ねえ!」
「聞こえる……見える……感じる……君はだれだ?」
「君? なにをいっているの? ううん、なにが視えているの?」
「わからない……これはいったい」
マリクは頭を抱えて、体を震わせた。まるで彼の苦しみに共鳴するかのように、七本の剣がマリクの周りを旋回し、光や熱を発した。
それは、北の都市で起きた異変がニュウに認識できるくらいになるまで続いた。
ニュウは、それまで、彼に近づくことすらできなかったのだ。
眼下にウェイドリッド砦がある。
ウェイドリッド砦の内部で戦闘が始まって、どれほどの時間が過ぎたのだろう。敵味方が入り乱れ、血みどろの戦いを繰り広げている。そこに彼の付け入る隙は、なくもないのだが、わざわざ戦果を横取りする必要もないほど、彼は功を上げていた。もちろん、味方の損害を減らすために、一刻も早く、誰よりも多く敵を倒すのもいいのだが。
(無理はできねえ)
セツナは、砦の北側に聳え立つ塔の天辺にあって、肉体疲労が回復し、精神消耗が癒えるのを待っていた。呼吸が荒い。視界が滲んでぼやけている。焦点が合わないのも、疲れのせいだ。緒戦で無理をしすぎた。その反動がいまになって出てきている。空間転移は強力無比だが、消耗も激しいのだ。その能力を酷使したためにこのような状態に陥っている。自分の無計画さが腹立たしくもあったが、あのときはあれが正解だと思ったのも事実だった。そうしなければ全軍が勝利を上げることなどできなかったのではないか。
とはいえ、ここまで疲労が後遺症的に残るとは思ってもいなかった。
十六日の戦いから今日に至るまで、純粋に休めたことなどなかったことが原因としてあるのは事実だ。疲労が蓄積するのは当然だったし、心が癒えないものしかたのないことだった。まず、眠れない。
「お疲れでしたら、わたくしの膝を枕にでもしませんか?」
「戦闘中に眠る馬鹿がいるかよ」
セツナは、いつの間にか背後に立っていたレムに内心ぎくりとしながら、ぶっきらぼうに言い返した。十数メートルの塔の天辺だ。そう簡単に登れるものではないと思うのだが。
「顔に疲れの色が出ていますよ」
「疲れもするさ」
(眠れないのは、あんたのせいもあるんだぜ?)
セツナは、獅子の仮面を被ったままのレムを見つめながら、心の中でぼやいた。彼女は、ジベルが送り込んできた護衛ではあるが、おそらく彼女の本当の任務はセツナの監視であり、隙を見せれば殺すことも任務に含まれているかもしれない。熟睡することなどできるわけがないのだ。
「砦内の戦闘には参加なさらないのでございますか?」
「ああ。戦功を稼ぎすぎて恨まれてるからな。たまには手を出さないのもいいだろ」
無論、本音ではない。他人の妬みや恨みなどどうだっていいことだ。なすべきことをなし、やるべきことをやる。それだけがセツナのすべてであり、いまはそうすることもままならないというだけの話だった。
「その結果、死人がでても、ですか?」
「俺が参加しても死ぬ奴は死ぬ。そうだろ?」
「そうですね」
「それに、この乱戦じゃ、どのみち黒き矛の本領発揮とはいかねえよ」
ウェイドリッド砦の内部はいま、西門から押し寄せたガンディア決戦軍と南門を突破したジベル突撃軍によって埋め尽くされているといっても過言ではなかった。ウェイドリッド砦を預かる黄金戦斧団の兵士たちも応戦しているのだが、圧倒的な物量を誇る連合軍の勢いに飲まれていた。高所から矢を射掛けようとしても、武装召喚師に対応されてしまう。砦の構造を利用した奇襲作戦も、物量の前では沈黙せざるを得ない。
「数の暴力……だな」
「矛の暴力よりはましでございましょう」
「かもな」
セツナは、レムの皮肉を否定しなかった。黒き矛一本に蹂躙されるよりは、物量で圧倒される方が納得はできるというものかもしれない。
振り向く。レムが獅子の仮面を外していた。少女然とした容貌は相変わらずだったし、表情に疲労も見えない。彼女も戦っていたはずなのだが。
「みんなは?」
「《獅子の尾》の皆様方でしたら、戦場で休息中でございます。さすがにあれだけの皇魔と戦ったのですから、疲れもいたしましょう」
「そりゃそうだ」
だからこそ、レムの疲れを知らない表情が気にかかるのだが、問いただしたところで答えてはくれないだろう。
「ですから、ご主人様もおやすみになられればよいのです」
「そういうわけにもいかないさ」
セツナは、軽く頭を振った。そして、視界の片隅に映った緑の光にはっとなる。
「なんだ?」
「はい?」
「あれは……」
黒き矛を握るセツナの目は、ウェイドリッド砦北方の都市リネンダールの外観を捉えている。緑色の光に包まれたリネンダールの有り様は、ザルワーン戦争の最中に起きた異変を思い起こさせる。
セツナは愕然としながら、その輝きが膨張していく様を見届けた。
召喚が、起こるのだ。