第六百五十九話 魔ヶ津戦(五)
リネンダール。
クルセルクが反魔王連合を掲げた四カ国を降し、その領土を併呑したいまも、クルセルクの交通の要衝となっている都市だ。北にはゼノキス要塞、首都クルセールがあり、南にはウェイドリッド要塞が聳えている。西にいけばゴードヴァン、東には旧ニウェール領ネヴィアがある。
「リネンダールを制することができれば、この戦いは勝ったも同じだ。気張れよ」
ビュウ=ゴレットが自分に言い聞かせるようにいったのがおかしかったが、シュレル=コーダーには、結局のところどうでもいいことに違いなかった。
シュレルにとってはサリウスだけが天地のすべてだ。彼の世界を支える柱があるとすれば、サリウス・レイ=メレドをおいてほかにはない。それは、ヴィゼン=ノールンも同じだろう。サリウスに救われなければ、ふたりは死ぬまでひとりのままだったに違いないのだから。
だからこそ、彼は、サリウスの側を離れ、ビュウ=ゴレットの部隊に紛れ込むことにも抵抗がなかった。ビュウ=ゴレットの部隊は、基本的に彼がルベンから連れてきた兵士たちで構成されている。サリウスが兵をつけなかったわけではない。ビュウ=ゴレット本人がそれを望んだのだ。ザルワーンの第二龍鱗軍の誇りが、部隊の結束を高めるのだという。実際のところ、ビュウ=ゴレット率いる竜胆隊の結束力は、黒薔薇戦団の中でも特筆するべきものなのかもしれない。
それは、メレドという他国にザルワーン人が集まったから、という程度の話に過ぎないのだとしても、結束力とやらが戦果に繋がるのならなんの文句もない。そして、たとえ戦果に繋がらなくとも、サリウスに迷惑をかけないのであれば、問題もない。
「気張るもなにも、罠が仕掛けられているかどうかの問題に過ぎませんな」
そういったのは竜胆隊副長のバジル=セレドとかいう男だ。彼も、ビュウ=ゴレットとともにメレドに渡ってきたザルワーン人だ。
「それもそうだが。気を抜いていては話にならんよ」
ビュウ=ゴレットが渋い顔をした。
リネンダールは、もはや目前に迫っている。
本隊は、リネンダールの西と北に分かれて迫りつつある。北側を担当するのは、獣姫率いるアバード突撃軍。サリウス王を指揮官とするアバード遊撃軍は、リネンダールの西側――つまり、竜胆隊の後方から追従するように近づきつつあった。
竜胆隊の目的は、リネンダールの内部に突入し、状況を確認することにある。事前の調査によってリネンダールが無人に近い状態だということまではわかっている。しかし、大勢の敵に責め立てられている真っ只中、都市を放棄する意味はない。四方を城壁に囲まれた都市は、城塞として機能するのだ。上手く使えば、敵を撃退することも不可能ではない。
そんな拠点のひとつを無意味に手放す道理がないのだ。
クルセルク側がなんらかの策を弄していることは明らかだ。外部からはわからない場所にでも皇魔を潜めている可能性もある。召喚武装の能力が軍勢を隠蔽しているかもしれない。用心に越したことはなかった。
かといって、リネンダールを放置し、ゼノキス要塞に矛先を変える、ということもできない。それがクルセルク軍の狙いなのかもしれないからだ。アバード突撃軍、遊撃軍が合流したことによって兵数が増大したからといって、背後から攻撃されればひとたまりもない。
(なんだか難しい話だ)
シュレルは、憮然としながら、竜胆隊とともにリネンダールの西門の前に辿り着いた。斥候のもたらした情報通り、門は開け放たれており、外にも内にも敵兵の姿はおろか、皇魔の気配さえなかった。
「いくぞ」
ビュウ=ゴレットが竜胆隊の先頭を進んだ。門を潜り抜け、門前の広場を通過する。無人の都市は、むしろ圧倒的な静寂に包まれており、息が詰まるようですらあった。
(ん……)
シュレルは、馬上、背筋を貫くような感覚に身悶えした。ヴィゼン=ノールンと意識が繋がったことの証明だ。自分とヴィゼンの意識の境目が消えてなくなったかと思うと、彼我の区別など最初からなかったかのような錯覚を抱く。空想と夢想が過ったのは束の間。つぎの瞬間には、シュレルの目は市街地のずっと先に立ち尽くす黒い鬼を見出している。
ガ・サラ・ギといったか。
ルベン以来、三度目の邂逅となる。ゴードヴァンでは取り逃してしまったが、今回はそういうわけにはいかない。味方に害が及ぶ前に決着をつける必要がある。
「あいつ……ここで待ってたってこと?」
シュレルの口を使ってヴィゼンが浮かべた言葉は、どう考えても自問にしかならない。
シュレルは、隊列を逸れると、馬の腹を蹴った。馬が嘶き、我を忘れたように駆け出す。
「お、おい!」
「竜胆隊は市街地の調査を続行してて!」
呼び止める声にそう叫び返しながら、彼は、腰に帯びている剣を確認した。柄に触れると同時に訪れた違和感は、それが召喚武装であるという事実を示している。ゴードヴァン攻略戦において皇魔の死体から奪い取った代物であり、サリウスから彼に与えられたのだ。それは身内への贔屓というよりも、扱いきれない常人に持たせるよりも、異能によって超人化できるシュレルに持たせるほうが良いという判断からだ。
そして、超人が召喚武装を持てば、召喚武装を手にした皇魔にも引けを取らない力を発揮できるだろう、という思惑もある。
前方、通りの中心に立ち尽くす皇魔の目が、ぎらりと輝いた。吼えた。ガ・サラ・ギの周囲の空間が歪んだ。爆発が起きた。閃光がシュレルの網膜を貫いたかと思った瞬間、鬼の足刀が左側面から迫ってくるのが見えた。屈んだ。馬の悲鳴。飛び降りる。着地とともに剣を抜いた。殺気。地面を転がる。破壊音。左手だけを頼りに跳ね起きながら、鬼の追撃を回避する。視界を過った手甲が、燃えるように輝いていた。
「はっ」
鬼が、拳で空を切ったまま、妙に嬉しそうな声を発した。
「こレでこそ、我が宿敵」
「冗談じゃないっての」
シュレルは、家屋の屋根に着地すると、剣を両手で構えた。刀身がわずかに湾曲する片刃の剣。能力は判明しているが、必ずしも実戦向きのものではなかった。無いと考えた方がいい。むしろ、身体機能、五感の強化こそが主題だ。
「シュレル様、そいつは頼みました!」
不意に届いたのは、ビュウ=ゴレットの声だ。そして、軍馬の群れが、ガ・サラ・ギの背後を通過していく。
「止めなくていいの?」
「ここにいルのは任務ではない」
構えを解きながら、サラはいった。漆黒の甲冑に覆われたような外見には、傷ひとつ見当たらない。ゴードヴァンの戦いではシュレルが押されていたのだから、仕方がない。攻撃する機会さえ見出だせなかった。皇魔と召喚武装の相性の良さは、最悪といっていいほどだろう。ただでさえ凶悪な個体が強化されるのだ。
そんな化け物に通常人が敵うはずがなかった。
だから、彼のような化け物染みた存在が重用される。
シュレルは、ヴィゼンが目を細めるのを感じた。
「貴様を探していただけだ。ほかの雑魚に用はない」
ガ・サラ・ギは、なんの予備動作もなく跳躍すると、シュレルの立っている屋根の上に着地してみせた。わずかな脚力だけでそれである。シュレルは、皇魔と人間の能力差を感じずにはいられなかった。だが、負けるつもりもない。
「ぼくらも、あんたを探してはいたんだ」
「ふむ?」
「あんただけは、このぼくらの手で倒さなきゃならない」
「いい気迫だ」
「そういっていられるのもいまのうちだよ」
シュレルは、ヴィゼンとともに表情を消した。軽く後ろに飛ぶ。鬼が釣られて動き出した。予想通り猛然と突っ込んでくるのを、右に体を捌いてかわす。反転、鬼の背中に向かって飛びかかると、鬼の息吹が聞こえた。シュレルは、すんでのところで飛び退いている。サラを中心に小さな爆発が起きて、屋根を、家屋もろとも吹き飛ばした。
爆発の余波に巻き込まれながら、なんとか路地に着地する。狭い路地。鬼の姿はない。が、研ぎ澄まされた五感は、サラの居場所を精確に捉えている。路地沿い、軒を連ねた建物の中を移動している。おそらく、壁を破壊しながら、だ。
シュレルはサラの戦い方の荒っぽさに驚きながらも、好機と見た。いかに竜胆隊がサラの眼中にないとはいえ、サラの攻撃範囲に巻き込むようなことがあってはひとたまりもない。市街地を探索中の竜胆隊から引き離すべきだろう。戦うのは、それからでも構わないはずだ。
シュレルはひとりうなずくと、サラが潜行している間に移動を開始した。西に戻るのではなく、北に出るのでもなく、南に向かう。西と北には本隊が突撃準備を整えているはずだ。そんな場面にでくわせば、ガ・サラ・ギも目の色を変えるかもしれない。
サラの目標は自分たちに絞らせるべきだった。
爆音とともに背後の壁が破壊された。もちろん、サラがぶち破ったのだ。
「どこへ行く!」
「鬼さんこちら!」
「なルほど、いいだロう!」
なにに納得したのかはわからないが、サラはそんな言葉を発して、シュレルの追走を開始したようだった。
シュレルは、サラの猛烈な追い上げに内心驚愕しながら、南門に向かって全力で走った。
(なんだろ?)
ふと気付くと、シュレルの視界を淡い光が泳いでいた。