第六百五十八話 魔ヶ津戦(四)
「早晩、ウェイドリッドは敵の手に落ちるでしょう」
オリアス=リヴァイアが、事も無げに言い放ったのには、ユベルは胸中で笑うしかなかった。
一月二十四日、クルセールの魔王城では朝から恒例の会議が開かれていた。昨年末の戦争に勝利したことで、クルセルクの領土は二倍近く広がった。国土の運営に関する会議は、毎日のように開かれていた。各地の状況の報告が行われるような場である。オリアスが発言する事自体が珍しかったが、彼としては会議の流れを無視してでも告げておかなければならないことだったのだろう。
会議の場が、水を打ったように静まり返ったのも、当然の話といえる。オリアスは、むしろその静寂を生み出すために発言したのかもしれなかった。ゆっくりと、続ける。
「ゴードヴァンとセイドロックに集った敵は、およそ三万。ウェイドリッドに配した戦力では持ちこたえられますまい」
「マルウェールに差し向けた三万すら撃退されたのだ。期待してはいないよ」
ユベルは、目を細めた。定例会議では、武官であるオリアスの席は、魔王からもっとも遠い位置にあった。長い机の遠い対面に、彼は座している。両側に並んだ席にはクルセルク領の各都市の運営を任せたものたちだ。ランシード、セイドロック、ゴードヴァンの担当者は、当然、意気消沈している。運営を任された都市が敵の手に落ちれば、だれだってそうなるだろう。
「さすがはガンディア……といったところだが、ガンディア以外の軍勢も、思った以上にやるようだ。まさか三都市が一夜にして落ちるとは。君も想像できなかったと見える」
ガンディア領に差し向けた魔王軍三万が半壊し、ゴードヴァン、ランシード、セイドロックの防衛戦力はいずれも全滅に近い打撃を受けた。また、三都市に駐屯していた正規軍は、連合軍に投降し、ほとんどがその戦力に組み込まれたということだった。やはり人間は人間、ということだろう。皇魔を使役する魔王になど、忠誠を誓う事など出来はしない、とでもいうのだ。
(いまさらさ)
その報告を耳にしたとき、彼は内心嘲笑ったものだ。彼らがどれだけ人間らしく振る舞おうとも、一度魔王に屈し、人間性を捧げたという事実は消えない。彼らが自分の命可愛さに平身低頭し、魔王の命とあらば、仲間であったものでさえ殺した現実は、変わらない。
人間など、そのようなものだ。
「こちらとしては、万全を期したのですが、敵の戦力がこちらの万全を上回ったようです」
オリアスは、自分の失態を認めながらも、どこか平然とした態度だった。いや、彼のような立場にあるものが、たかが緒戦を落とした程度で取り乱してもらっても困るのだが。それに、彼は生粋の軍人でもなければ、戦術家でもないのだ。それを理解した上で、彼を魔王軍総司令に任命したのは、彼でなければあの個性豊かな皇魔たちを扱うことなどできないという事実があったからだ。
武装召喚術を身につけた皇魔は、武装召喚術の師匠である彼には従順だった。
「リョハンの戦女神と四大天侍だな」
「ファリア=バルディッシュはわたしにとっては兄弟弟子に当たる人物です。その実力は、歴史が証明していますが、アズマリア=アルテマックスが弟子の中でも最強と明言したこともお伝えしておきましょう」
「ほう」
「アズマリアの術者としての才能を受け継いだのがわたしならば、ファリア=バルディッシュはアズマリアの戦闘者としての才能を受け継いだ、といってもいいでしょう。おそらく、黒き矛に匹敵するのは、全盛期の彼女くらいのものです」
「いまは違う、ということか」
「いかにファリア=バルディッシュが超人染みた力を持っていたとしても、人間です。年老いれば、力も弱くなる。そればかりはどうしようもない」
「長命種である君には関係のない話か」
「わたしも、人間であることに変わりはありませんよ。通常人より老化する速度が遅いだけです」
オリアスが渋い顔をしたのが、なんとなくわかった。彼はどのようなことにも動じない人物だが、家や血筋のことに話が及ぶと、あからさまに嫌な顔をした。呪われた血筋の話など、みずから好き好んでするものでもないのだろうが。
「とはいえ、ファリア=バルディッシュと四大天侍が強敵なのは間違いないでしょう。ベルクの報告では、彼らの出現が、魔王軍の敗走を決定づけたということですのでね」
「……彼らはゼノキス要塞に配したそうだな?」
彼らとは、ベルク、メリオル、ハ・イスル・ギからなる三魔将のことだ。魔天衆、鬼哭衆、覇獄衆を統率する立場にある彼らは、魔王軍の中でも最高峰の戦闘者である。しかし、彼らを前線に投入するわけにもいかないのは、彼らがいなければ、軍がまともに機能しないからでもあった。
将を失えば指揮系統に混乱が生じるものだが、魔王軍は、それが特に顕著だった。元々、皇魔は集団行動を不得意とする連中だった。同種族ならば特に問題ないが、混成部隊となると、一気に破綻した。自己主張の激しい皇魔たちを取り纏めるには、強力な個性が必要だった。それが三魔将であり、彼らが各軍の代表になったのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
「さすがにクルセールを決戦の地にするわけにも参りませんので」
「リネンダールはどうする? 住人はネヴィアに移送させたようだが……」
ユベルには、オリアスの考えがまったく読めなかった。リネンダールの住人と、常駐戦力であるところの銀盾戦団は、オリアスの指示によってネヴィアに移っている。リネンダールが激戦区となる可能性を考慮してのことではないのは、常駐戦力を退避させたことからも窺える。だが、防衛戦力さえ存在しない都市など、敵に奪って欲しいというようなものではないのか。
皇魔さえ、手配していない。
「リネンダールには、ランシードとセイドロックを落としたアバードの軍勢が向かっているようですので、そのまま食らいつかせます」
「奪われるだけではないのか?」
「いえ、リネンダールが奪われることはありませんよ。決してね」
オリアスは、静かに言い切った。
会議室の静寂は、沈黙に近かった。
アバード突撃軍と同遊撃軍は、リネンダールの目前に迫っていた。
リネンダールは、クルセルクの交通の要衝に位置する大都市だ。リネンダールさえ抑えることができれば、今後の戦いを有利に運ぶことができるだろう。
クルセルクは、反魔王連合との戦いに勝利したことで、領土が東方に向かって拡張されている。東方から戦力が差し向けられたとしても、リネンダールで迎え撃つということもできるのだ。さらにリネンダールの南方に位置するウェイドリッド砦も同時に攻撃する手筈となっている。同時期に陥落せしめることができれば、クルセルクの各方面への威圧感は凄まじいものとなるだろう。
つまりリネンダールは、戦略上重要な拠点なのだ。
実際のところ、ランシードからならば、ゼノキス要塞のほうがリネンダールよりも近くにあり、ゼノキス要塞の北方に魔都クルセールがあるということを考えれば、ゼノキス要塞に特攻したほうがいいように思える。しかし、ゼノキス要塞は、要塞というだけあって簡単には落とせないだろうし、なにより、戦力が整えられているようなのだ。三魔将と呼ばれる皇魔の将が集い、各地の皇魔が参集しているという話もある。
ここは、ナーレス=ラグナホルンの戦術に従い、リネンダールを攻めるべきだろう。
アバード突撃軍と遊撃軍の合流後に開かれた軍議は、全会一致でナーレスの策に従うことが決まった。
「早急にリネンダールを落とせば、ウェイドリッド砦への牽制ともなろうが」
「そう簡単にいきますかねえ」
ビュウ=ゴレットは、メレド王にしてアバード遊撃軍の指揮官であるサリウス・レイ=メレドの言葉に対して、懸念を伝えるために口を開いた。
「斥候によると、リネンダールには皇魔の影もなければ人影もないそうですし、クルセルクがなんらかの策を張り巡らせている可能性も大いにあります」
「確かにな。だが……」
サリウスは、顎に手を当てて、考えこむような素振りを見せた。リネンダールは目前。リネンダールに乗り込むべきか、ランシードに引き返すべきか、それとも、ウェイドリッド攻略戦に参加するべきか。
考えればわかることだが、ウェイドリッド攻略戦に参加する必要はない。戦力は十二分に足りている。これ以上の戦力は過多になるだけで、無意味だし、勿体ない。
では、引き返すか。これもありえない。ランシードに戻ったところで、なにがあるわけではない。ゼノキス要塞とクルセールへの牽制にはなるかもしれないが、戦術的価値は薄い。
とすれば、リネンダールに攻めこむべきなのか。
「罠に違いないな!」
開戦目前の緊張感を吹き飛ばすような勇ましい声に振り返ると、シーラ・レーウェ=アバードが侍女数名を引き連れて近づいてきたところだった。
「シーラ姫、開戦目前ということもあって気合が入っているようだね」
獣姫の異名に相応しい凛々しさを備えた王女だが、サリウス王にとっては別段惹かれるものもないのか、彼はいつも以上に丁寧な応対をした。むしろ微妙に眉根を寄せている辺り、嫌悪感さえ抱いている可能性がある。前線に飛び出し、槍働きをするような王女など、評価するに値しないとでも思っているのかもしれない。
しかしそれは同族嫌悪だろう、とビュウは考えるのだ。サリウスも、戦意高揚のためとはいえ、前線に出張り、我が身を危険にさらす種類の王族だった。国王にあるまじきことだと諌めるものも後を絶たないが、メレドが順調なのは彼のやり方に従ってきたからということもあり、サリウスの行動を完全に止めることはできないようだった。
「やあ、サリウス陛下、戦いだけが俺の生きがいだからな、気合も入るさ」
馬上、完全武装のシーラは、兜だけを外した状態でにかっと笑った。爽やかな笑顔の中に獰猛な獣が潜んでいるような、そんな顔つき。
「で、さっきの話だが、リネンダールは餌に決まってるぜ。じいさんがそういうんだ、間違いねえ」
「じいさん?」
「サラン=キルクレイドじいさんだよ。あのひとの戦術眼は確かだ。信用して損はねえ」
「弓聖の眼ならば狂いはないだろうが……いずれにせよ、リネンダールを無視することもできないな」
「それもそうなんだよなあ……。リネンダールはクルセルクにおいては交通の要衝。あそこを抑えずしてクルセルクの平定は不可能って話だし」
「リネンダールを捨て置き、ゼノキス要塞に取りかかれば、背後を衝かれるのは必定。現状、リネンダールに戦力は置いていないようだが、それも本当のことかどうか」
「皇魔を潜ませている可能性も皆無ではない、か」
サリウスとシーラは、頭を悩ませているようだった。眼前の目標に向かって進撃するのは簡単だ。ふたりが号令すれば、両軍はたちまち動き出し、リネンダールに攻めこむだろう。防衛戦力さえ配備されていない無人の都市だ。制圧するのは難しい話ではない。だからこそ、思い悩まざるをえない。敵がどのような策を弄しているのか、わかったものではないからだ。
「それならば、少数の部隊を繰り出すのがよろしいかと」
ビュウは、サリウスに顔を向けると、思い切って進言した。案に自分の部隊を使え、といっているのだが、サリウスに伝わるかどうか。
「リネンダールに罠が仕掛けられていれば、被害に遭うのはその部隊だけで済みますし、もし策もなにもなければ、リネンダールを制圧することもできます」
皇魔が潜んでいた場合、救援を要請すればいいだけの話だ。皇魔ではなく、別の策が張り巡らされていたとしても、それにかかるのは自分たちだけだ。アバード突撃軍と遊撃軍の主戦力は守ることができる。
(なんのことはない。簡単な話さ)
「それが無難か」
ビュウ=ゴレットは、サリウスが厳かにうなずくのを見て、心の中で歓喜した。ようやく、サリウスの役に立つときがきたのだ。
ルベンで命を救われてからというもの、彼の頭のなかには、そのことしかなかった。
サリウスへの恩返しだけが、彼がザルワーンを捨て、メレドに渡った理由だったのだ。