第六百五十三話 ハーマインの思惑
「バラン=ディアランの件、どう思うかね?」
エイン=ラジャールが、ハーマイン=セクトルに問いかけられたのは、二十二日の午後のことだった。飾り気の少ない室内には、ハーマインとエインのふたりしかいない。エインだけを呼んだのは、ジベル突撃軍の指揮官である彼の配慮によるものなのだろうが、その理由はよくわからなかった。別段、他人に聞かれてまずい話とも思えない。
「ハスカ領土の奪還を優先するべきかどうか、ということですか? 将軍も仰られたように、いまはそんな余裕はありませんよ。それに、魔王さえ討てば、魔王軍の勢いも低下するのは目に見えています。ハスカの旧領を取り戻すのは、それからでも遅くないのでは?」
「それはわかっているのだ。ただ、彼の発言が少しばかり気にかかってな」
「国土に皇魔が満ちている……ですか」
「ああ。ハスカはクルセルクにとっては枝葉に過ぎぬとみて捨て置いたのが、此度の戦いだ。ハスカ方面は戦力が充実していないという報告が上がっていたからだが、長期戦になればこちらが不利だということもある」
ハーマイン=セクトルは、渋い顔をした。クルセルクの戦力は、正規軍と皇魔を含めると、連合軍を大きく上回っている。その上、正規軍はともかく、皇魔は倒しても倒しても補充される可能性があった。
クルセルクは、反魔王連合との戦争で、その戦力を何倍にも膨れ上がらせたという実績があるのだ。反クルセルク連合軍との戦争の最中、失った戦力を補充するのは間違いないし、開戦時の六万を超える皇魔がこの地に集うという可能性も考慮しなければならなかった。そして、そうなれば連合軍は敗北するかもしれない。長期戦、消耗戦になれば、戦力の補充、追加の難しい連合軍は圧倒的に不利なのだ。
なればこそ、短期決戦を目指したいのだ。
(短期決戦、というほど最短距離の戦いではないのだけれど……)
ナーレス=ラグナホルンの描いた戦略は、クルセルク軍との真正面からの衝突を避けながら、クルセルクの主要都市を攻略していくというものであり、必ずしも短期決戦と呼べるようなものではない。しかし、短期決戦を目指すからといって、直接クルセールを狙うことなど不可能に近い。クルセールはクルセルクの北端に位置する都市だ。連合軍参加国から軍を差し向けたとしても、いくつかの都市や要塞を落とさなければ、辿り着くことはできない。一足飛びに首都だけを狙う、魔王の首だけを狙う、ということはできないのだ。
(暗殺は……どうかな?)
アーリアが、ナーレスの意向によって魔王の元に派遣されていた。なにものにも感知することのできない異能を持つ彼女ならば、魔王を暗殺することなど容易いはずだ。人間も皇魔も、武装召喚師でさえも、消失した彼女の存在を知覚することができないのだ。そんな彼女を国王の護衛だけに使うのは勿体ない、と思うのはだれだって同じだろう。戦士としても、暗殺者としても、優れた能力を有している。
ナーレスは、持て余し気味の彼女の能力を有効活用しようと考えたようだ。レオンガンドの身辺は、王立親衛隊《獅子の牙》に任せておけばいい。そのための王の盾だ、と考えれば、ナーレスの判断は合理的で正しいといえる。もっとも、アーリアがレオンガンドの窮地を度々救ってきたのも事実であり、彼女に身辺を守らせておくというのも、悪い判断ではない。ガンディアの戦力は、十分すぎるほどに整っている。傭兵団を除いても他国の追随を許さないといっても過言ではない。
とはいえ、その十分過ぎる戦力では比較にならないほどの敵が相手の場合は、話が別だ、ということなのかもしれない。レオンガンドの護衛さえも投入しなければ、勝利をもぎ取ることが難しい相手なのだ、クルセルクは。
(魔王を討てば、それで終わり。っていう単純な話ならいいんだけど)
そんな話ならば、アーリアが魔王を暗殺するのを待てばいい。クルセルクは、南方から攻めこんできた連合軍に意識を集中させていることだろう。クルセールに辿り着くことも、魔王の部屋に忍びこむことも容易いはずだ。いや、彼女ならば、どのような状態であっても、簡単に潜入し、暗殺できるだろう。
(失敗したか?)
それとも、殺せなかったのか。
いずれにせよ、クルセルク領土内になんの変化も見られない以上、魔王の暗殺は果たされなかったと見るべきだろう。あるいは、魔王の暗殺こそ成功したものの、皇魔を使役しているのが魔王ではなかったか。どちらにせよ、連合軍の置かれている状況に変わりはない。
バラン=ディアランが現れたのは、そんな最中だった。
「短期決戦を意識するあまりハスカを捨て置けば、ウェイドリッドに進軍中の連合軍の後背を、ハスカの皇魔が突いてくる、という可能性も捨てきれない」
「では、どうされるのです?」
「君の意見を聞いているのだがな」
「……難しいところですね。バラン=ディアランのいうとおり、ハスカに皇魔の大群がいたとして、それが連合軍を攻撃してくるとは限りません。むしろ、戦力を出しきったジベル領に雪崩れ込むかもしれない」
ジベルは、保有戦力の大半を連合軍に提供している。自国領土の防衛よりも、近隣諸国の敵を討つことを優先した、ということだ。それはガンディアも同じなのだが、ガンディアは、連合軍参加国に周辺を守られてもいるのだ。ジベルとは、防衛戦力の低下における危険性が違う。
「それも考えた。が、いまはジベルが危険に曝されようとも、クルセルクの魔王を打倒することのほうが先決だ。統率者たる魔王さえ討てば、皇魔を一掃するのは難しくもあるまい」
ハーマインの目は、冷ややかなものだ。それでいて熱量を感じさせる。まるで凍える炎のようだ。エインは、ハーマインの回答に満足した。彼は、自国の状況よりも、連合軍としての勝利を優先して考えられる人物のようだ。だからこそ、ジベル突撃軍の司令官に任命されたのだろう。人格、見識ともに確かだった。
「やはり魔王を討つことだけに集中するべきか」
「ハスカ方面に部隊を割くにしても、戦力が足りませんよ」
「死神部隊がいる。我がジベル突撃軍には、《獅子の尾》という最高級の戦力がある以上、死神部隊は宝の持ち腐れといっても過言ではない。彼らにも、戦いの場を与えるのも悪くはないと思うが」
(死神部隊ね。なにを考えている?)
死神部隊は、ジベルの暗躍部隊とも呼ばれる少数精鋭の戦闘集団だ。クレイグ・ゼム=ミドナスを隊長とし、ここのところセツナにつきっきりのレム・ワウ=マーロウなどが所属する部隊であり、セイドロック攻略戦でも存分に力を発揮していた。ハーマインの言葉通り、《獅子の尾》ほど目立った活躍はしていないものの、他の部隊よりも著しい戦果を上げている事実をエインが知らないはずもない。
ジベル突撃軍としては、必要な戦力だ。戦いは、今後、ますます激しくなるのがわかりきっている。であれば、彼らを別働隊としてハスカ方面に向かわせるのは避けたいところなのだが。
(ハスカの所有権でも主張するつもりか?)
エインは、ハーマインの考えを読み取ろうと、その冷ややかな目を見つめ返した。おそらく、自分も同じような表情をしているはずだ。冷ややかで、取り付く島もないというような目つき。なにを考えているのかわからない、そんな目。
この戦いが連合軍の勝利で終わり、クルセルクの領土が連合軍によって平定されれば、クルセルク領土の支配権を巡っての駆け引きが始まるだろう。その際、重要となるのが、戦争における貢献度だが、連合軍参加国のほとんどが、そればかりはガンディアの一人勝ち状態になると思っているようだった。実際、黒き矛と《獅子の尾》を保有するガンディア以上の戦果を上げるのは、極めて難しいだろう。
ならば、他の方法で点数を稼ぐしかない。
ハーマインは、そんな先のことを見越して、一度は拒絶したハスカへの部隊の派遣を思い立ったのではないか。
ハスカから少しでも皇魔を追い散らし、都市のひとつでも制圧することができれば、所有権を主張することができる上、連合軍の後方の安全を確保したという言い訳も立つ。
(それならそれでいいんだけど)
そうであれば、前言を撤回する必要がある。
「将軍のお好きなように」
「……では、そうさせて頂く。なに、ガンディアに仇なすつもりは毛頭ないよ」
「心得ています」
エインは深々とお辞儀をして、彼の部屋を去った。
その日のうちに、死神部隊がバラン=ディアランの部隊とともにハスカ方面の奪還に向かうことが決定した。寝耳に水の話に驚くものも少なくはなかった。が、反対の声はほとんどなかったといっていい。主目的がハスカの奪還ではなく、連合軍の後方の安全を確保するという名目だったからだ。
しかし、死神壱号ことレム・ワウ=マーロウは、その任務から外された。
「わたくしにはご主人様の護衛を続けろ、とのことでして、これからもよろしくお願い致しますわ」
《獅子の尾》の面々に挨拶する彼女を見遣りながら、エインは、ひとり腕を組んでいた。
(これほどわかりやすい監視もないな……)
レムの目的は、間違いなくセツナの監視だろう。
ジベルがガンディアを出し抜くためには攻略しなければならないものがいくつかあるが、そのひとつが、セツナ・ラーズ=エンジュールという少年だった。
セツナを監視し、弱点でも探ろうというのだろう。