第六百四十九話 彼と死神(七)
月のない夜だった。
凍えるような寒さと、暗黒そのもののような空と、背中から伝わる地面の冷たさと、男の激しい息遣いを覚えている。
「どこへ、行こうっていうんだ?」
遠い声がゆっくりと近づいてくるのがわかったが、どうすることもできなかった。息せき切って逃げ続けた末、凍りついた地面に足を滑らせたのが運の尽きだった。視界が空転し、衝撃が後頭部や背中を襲ったとき、彼女は自分は死ぬのだと理解した。
しかし、死よりも恐ろしい現実が待っているという実感のほうが強い。足音がそれだ。
「家に帰るって? はっ、どこにも行き場所なんてねえんだよ、おまえにはなぁ」
男の足取りの重さは、彼女がもはや動けなくなっていることを悟ったからだろう。貧民街の裏路地。しかも真夜中だった。人気などあろうはずもなく、助けを期待することはできない。
「家に帰ったところで、親は、おまえを迎え入れやしねえだろうさ。だって、おまえを売って、その金で生き延びる算段を立てていたんだからなあ……いまさら、どの面下げておまえを受け入れるんだっての」
下卑た笑い声が、寒空の下に反響した。夜空を覆う分厚い雲を恨めしく思ったのは、月明かりさえあれば、まだ救いはあったかもしれないと考えたからかもしれない。もちろん、月に照らされていようと、彼女に待ち受ける運命は変わらなかったはずだ。
「でもまあ、親を恨むのはよせよ? 仕方がなかったんだ。金がなければ生きていけない現実がある。だれだって、死にたくはなねえ。だから皆必死こいて働くんだが、おまえの両親は働けねえもんなあ……」
男の言葉になんの感情も沸かないのは、既に聞いていたことだからというのもあるだろうし、家族への感情が冷え切っていたというのも大きかっただろう。父も母も弟も、みんな死んでしまえばいい――自分が売り飛ばされたという事実を知ったとき、彼女が真っ先に抱いた感情がそれだった。いまさら家に帰ろうとは思わない。帰れば、きっと殺してしまう。
男の足音が止まった。
「なんだよ、なんか言い返したらどうなんだ? 泣いてみろよ。泣いて、救いを求めろ」
暗い狂気を帯びた男の目が、目の前にあった。骨ばった手が、彼女の首に触れていた。彼女は、なにもいわなかった。ただ、男の目を睨み返した。それが気に食わなかったのだろう。右足に痛みが走った。
「商品は傷つけるなっていわれてるんだがな……もう傷だらけだ。傷のひとつやふたつ増えたところで咎められやしねえ」
男は、狂った様に笑うと、切っ先に血のついた短剣をちらつかせてきた。恐怖は感じなかったが、無念ではあった。死ぬならまだしも、こんな男に穢されるなど、考えたくもなかった。
「いま、なにを考えた?」
男が表情を歪めた。狂気が宿った目に映る自分の顔の表情の無さに、彼女は奇妙な感覚さえ抱いたのだが。
男は、やはりそういった彼女の態度が気に食わなかったのだろう。男は、怒気を発した。
「お望み通り穢してやるよっ!」
だが、そういって男が上体を起こしたとき、頭が胴体から切り離されていた。
切断面から噴き出す血の冗談のような赤さが網膜に焼き付いている。ごとりと首が地面に落ちたとき、彼女は我に返った。悲鳴さえでなかったが、衝撃はあった。恐れも、初めて感じた。男の死体から流れ落ちた血の生暖かさは、嫌悪感を抱かせるに十分だった。
飛び起きると、男の死体が緩慢に崩れ落ちていった。その背後になにかが佇んでいる。男を殺した人物。人間といっていいのかどうか。
少なくとも、人間業ではなかった。そして実際、人間ではなかった。
「まったく……救いようのない輩というのは、どこにでもいるものだ」
声は、背後から聞こえた。けれど彼女は、前方に佇む存在に魅入られていた。血塗られた大鎌を抱える異形のなにかが、闇の中から彼女を見つめていたのだ。
瞼を開くと、凍てついた暗闇だけが視界を覆っていた。しかし、頭上を覆っているのは狭い天幕の屋根裏であり、分厚い暗雲ではない。天幕を抜け出せば、星空を見ることもできるだろうが、この寒さの中、わざわざ外に出る意味はないだろう。
(夢……)
レムは、嘆息した。十年前、クレイグと邂逅した夜のことを夢に見ることなど、これまでは一度もなかった。自分の意志で思い出すことはあっても、夢という無防備な空間で思い出させられることなどなかったのだ。
思い出したくなかった、というわけではない。クレイグとの絆について考える際、必ず思い出す出来事でもある。レム・ワウ=マーロウの原点。忘れるはずもないし、忘れようとも思わない。
(だからって、なんで夢に見たのよ)
分厚い毛布に包まりながら、考える。
右を見ると、セツナの寝顔があった。距離は極めて近い。冬の夜の寒さを凌ぐために肌を寄せあっていたのだから、当然だろう。
闇に慣れてきた目は、少年の健やかな寝顔を捉えて離さなかった。外見年齢はともかく、実年齢ではレムよりもずっと年下だった。十七歳だったか。レムが死神になった年齢よりも上だ。レムが死神になったのは十年前。十三歳くらいのときだった。
「あなたのせい?」
レムは、毛布の中を移動して、彼に覆い被さった。傷だらけの、しかし、最近の戦いでは傷らしい傷さえ受けていない少年の体は、逞しいというには少し物足りないが、それでも立派な戦士ではあった。話によれば、彼は半年前まで戦闘の素人だったといい、人並みの身体能力しか持ち合わせていなかったという。信じられないが、事実なのだ、とも聞いている。
髪に触れる。レムと同じ黒い髪は、傷みがちだった。仕方のないことだし、彼は髪に気を使っている場合でもないのだろう。安らかな寝顔だ。まるで、昼間の戦闘が嘘のような表情だった。
彼は、ネヴィアからウェイドリッド砦に移動中の皇魔の軍勢をほとんどひとりで壊滅させた。もちろん、レムも死神の力を駆使し、皇魔を撃破していたのだが、セツナに馬の護衛を頼まれたこともあり、戦闘が疎かになってしまったのだ。結果、セツナひとりに任せることになってしまったのだ。
殲滅は、できなかった。セツナの体力が限界だったのもあるが、飛行能力を有した皇魔が、つぎつぎと戦場を離脱していったからだ。空を飛ばれると、さすがのセツナも追いつけないらしい。
『余力さえあればなんとかなるんだけどな』
セツナは苦しそうにつぶやいたものだ。余力さえあれば本当になんとかしてしまいそうなのが、セツナの恐ろしいところだった。
取り逃した飛行型皇魔は数百体ほどであり、三千体以上の皇魔を撃破することに成功したのだから、だれも文句はいわないだろう。
レムがそのようなことをいうと、セツナは苦い顔をした。
『そういうことじゃないだろう』
では、どういうことなのか。
疲れ果てた少年に問い詰めるのは憚られた。それから彼とともに馬に乗り、来た道を引き返してきたのだが、セイドロックに到着する前に夜が来た。朝まで駆け通せば辿り着けるかもしなかったものの、無理をする必要性は感じられなかった。天幕を張り、糧食を口に入れ、ふたりして眠った。セツナはすぐに寝てしまった。疲れきっていたのだろう。
レムは、眠りにつくまで多少の時間を要した。
何千もの皇魔をものともしないセツナの戦いぶりは、あまりに強烈だった。セイドロックの戦いでもそうだったのだが、今回はほとんど傍観者に徹していたこともあり、印象が凄まじかったのかもしれない。
少年に跨がり、首を両手で触る。優しく、首を絞めるように。
「殺すのか」
いつの間にか、少年の瞼が開いていた。闇の中では彼の紅い瞳を堪能することはできない。それだけが残念だと、彼女は想った。血のように紅い目は、美しいとさえ感じることがある。特に敵を殺戮しているときの凍てついた目は、血の気が凍るほどに色気があった。
「ご主人様を殺せば、連合軍の勝利は遠のきましょう」
「じゃあなんだ、その手は?」
「さあ、なんでしょうね」
適当にあしらいながら、レムは、その手で少年の顔を挟み込んだ。少し力を込めると、彼は苦い顔をした。理解できない、とでもいうのだろう。実際、彼女自身が自分の行動を理解できていなかった。なにを求めて、なにが欲しくて、こんなことをしているのだろう。
彼は死神ではない。同類ではない。同族ではない。他人だ。まったく関係のない人種の少年だ。ただの武装召喚師。殺戮と破壊の権化ではあるけれど、彼は、死神ではないのだ。
(なのに……どうして?)
どうして、彼といると、落ち着くのだろう。
「冷たい手だな」
セツナの言葉に、レムは声を潜めて笑った。
そんな風にしか言い返せないのか、と想ったのだ。