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第六十四話 手を取るべきは

「武装召喚!」

 セツナは、一般の武装召喚師にとっては呪文の結尾となるその言葉だけを口にした。ランカインのように複雑で長たらしい詠唱を必要としない原理はわからない。最初からだ。アズマリア=アルテマックスに召喚されたときからそうだった。促された通り叫んだだけで、セツナの全身は光に包まれた。

 体の表面に浮かび上がった光の模様は、さながら小さな魔方陣のようであり、その幾重もの線と円で描かれた紋様から発散した光は、闇に慣れた眼には痛いほどだった。一階中央に位置する部屋には窓がなく、召喚時の光が外に漏れることはないだろう。

 もっとも、召喚時に気づかれなくとも、宿舎を焼き尽くすほどの炎を放ってしまえば、結局はこちらに武装召喚師がいるという事実を相手方に知らしめるだけだと思わなくもなかったが、セツナはあえてなにも言わなかった。ランカインが武装召喚師だという情報は、ダグネたちによって伝えられているはずだ。その情報に武装召喚師がもうひとり加わるだけだ。

 黒き矛の使い手がここにいるという事実さえ露見しなければいいのだ。

 そして、セツナの全身から放散した光が、彼の掌の中で収斂し、黒き矛へとその姿を変えていく。漆黒の矛。悪魔的な禍々しさを誇る異形の矛は、いつものようにセツナの手によく馴染んでいた。

 手に触れた瞬間だった。

 黒き矛に秘められた膨大な力が奔流となって掌から腕を伝い、瞬く間にセツナの全身へと行き渡った。破壊的な衝動が肉体を突き抜け、感覚が歪んだ。肥大し、尖鋭化した意識が、周囲の情報を明確に把握する。視野は広がり、この部屋の中のことは手に取るようにわかった。かすかな空気の動きも、ラクサスのわずかな息吹さえも、拡張されたセツナの意識は捉えていた。

 闇が闇ではなくなり、なにものも障害ではなくなる。宿舎の薄い壁も、降りしきる大雨も、天を閉ざす暗雲も、ただの情報に過ぎなくなる。閃光が瞼の裏に煌き、雷鳴が耳の奥で響いた。雨に濡れた道路を叩く軍靴の音が、戦場を彩るに相応しい旋律へと変動していくような錯覚。宿舎の外、壁の影に隠れる男たちの姿を幻視する。ランカインとオリスン。彼らの行動を援護するのが、セツナの役目だった。

 セツナは、ゆっくりと息を吐いた。

「ふー……」

 黒き矛を手にした瞬間に流れ込んでくるのは、きっと矛の力のすべてなどではないのだろう。確信にも似た恐ろしい考えを抱きながら、セツナは、そのわずかな力さえ扱いきれない自分の未熟さに腹が立った。

 肥大した感覚は手に負えず、不要な情報さえも頭の中に叩き込んでくるのだ。それら無数の情報が、脳裏にこの戦場の風景を描き出してくれるのは非常にありがたいのだが、しかしあまりにも多い情報は、時として判断を鈍らせる材料になりかねないのではないか。

 とはいえ、矛を手にしている限りそんなことはありえないとも想う。

「ニーウェ、行けるか?」

 ラクサスが心配そうな顔をしていたのは、セツナが黒き矛の力に飲まれかけたからに違いなかった。外から見てもわかるほどの変調だったのだろう。セツナは、ラクサスに心配をかけまいと、にこやかに笑って見せた。

「いつでもどうぞ」

「そうか。ならば、手筈通りに頼む」

「了解!」

 セツナは威勢よくうなずくと、漆黒の矛を頭上に掲げた。切っ先を天井に向けながらラクサスの退避を待つ。陽動のためとはいえ、ラクサスを巻き込むなど以ての外だった。セツナ自身は逃げる必要はない。黒き矛を握り締めている限り、矛から放たれた力がセツナに逆流してくるようなことはないはずだった。

 ラクサスが窓際に到達したのを感覚だけで把握する。

 セツナは、矛の柄を強く握った。念じる。力の解放。あの夜の光景が脳裏を巡った。皇魔ブリークの群れを相手に演じた大立ち回り。ブリークの放った雷球を跳ね返したがために草原は炎上したのだが、そのおかげで黒き矛は炎を蓄積することができた。そして、蓄積した炎を使う機会が訪れたのだ。

「矛よ!」

 セツナの呼び声に応じるように矛が唸りを上げた。石突の宝玉が光を放ち、漆黒の矛の切っ先から炎が迸った。熱気がセツナの顔面を撫で、汗が一気に噴き出す。矛から放出される真紅の猛火は、沈黙していた夜の闇を容易く焼き払い、静寂の世界の勢力圏を一瞬にして塗り替えていく。物凄まじい勢いで天井を突き破ると、そのさらに上の階の天井にまで到達し、周囲を瞬く間に紅く染めた。あっという間だった。破壊の奔流。紅蓮の業火が、セツナの想像を遥かに上回る速度と威力を以て、宿舎を焼き尽くしていく。

 セツナは、我が目を疑うほどだった。凄まじい熱気の渦の中、全身から大量の汗が流れ落ちていく。しかし、宿舎の内側で燃え盛る炎がセツナに降りかかることはなかった。まるでセツナと黒き矛を恐れるように、彼の周囲だけは避けていた。

 炎が、なにもかもを真っ赤に燃え上がらせていく。

 蹂躙していく。

 圧倒的な力の奔流の源で、セツナは、ただ怖れを抱いていた。

「セツナ!」

 不意にラクサスの叫び声が聞こえた。余程慌てていたのか、偽名で呼ぶのを忘れている。

 セツナは、穂先からの炎の噴出が収まったのを認めると、即座にその場から離れようとした。だが、周囲は火の海だった。動きようがない。宿舎を焼き尽くす紅蓮の炎は、酸素をも急速に奪っていく。

 視界が、陽炎のように揺らめいていた。

 セツナは、汗まみれの手で柄を握り締めると、覚悟を決めて炎の中に飛び込んでいった。黒き矛の力を信じた。過信ではない。信じるしかなかったのだ。黒き矛の畏怖すべき強大な力を信じることだけが、セツナにできる唯一の行動だった。

 肉体は、躍動する。

 燃え盛る炎の渦の中を突き進み、ラクサスの気配へと直進する。壁もベッドも家具や調度品の類もすべて、黒き矛が放出した炎に飲まれ、赤々と燃え上がっていた。窓は開け放たれており、その向こうには大雨が降っていた。しかし、さすがの大雨も、この宿舎を包む業火をすぐさま制圧することはできないようだった。

 セツナは、窓の外へと飛び出しながら一先ずの安堵を浮かべた。これだけの騒ぎを起こしたのだ。外の注意を引き付けるという役目は十二分に果たせただろう。降りしきる大雨が、熱を帯びた全身に優しかった。着地する。

 セツナは顔を上げると、視界の片隅にラクサスを確認し、ついで宿舎を包囲する兵士たちの間でどよめきが起きていることを把握した。無数の靴音が、一方に向かって移動を始めている。南側へ。この宿舎の正門を押さえようというのか。

「無事だったか」

「当然ですよ! それに俺はニーウェ=ディアブラスっす」

「あ、ああ。そうだったな」

 面食らったようなラクサスの表情に、セツナは、笑顔を浮かべた。立ち上がり、手の内の得物を見下ろす。蓄積した炎を吐き出し尽くした黒き矛は、いつになく穏やかな表情をしているような気がする。きっと錯覚だ。

 セツナは頭を振ると、黒き矛を頭上に放り投げた。矛は、無数の光の粒子となって散った。役目を終えた召喚武装は、本来在るべき世界へと帰還する。

 名残惜しかったが、いまは黒き矛の力に頼ってばかりはいられなかった。腰に帯びた剣の柄に触れる。柄には、わずかばかりだが熱気が残っていた。

「あとは時間稼ぎっすね」

「ああ。やれるか?」

「やりますよ」

 やらなくては始まらないのだ。

 ともかくも、ランカインとオリスンのふたりが馬を取り戻し、合流するまでは時間を稼がなくてはならない。そのためには派手に暴れ回るのが一番だとラクサスは言っていたが、それだけの力量が自分にあるのか、セツナにはまったく自信が持てなかった。むしろ、無事に生き残ることだけを考えるべきではないのか。

 宿舎を炎上させたことで注目を集めることには成功したのだ。その証拠に包囲網に変化が起きている。ならば、後はランカインたちが上手くやってくれることを願いながら、敵の攻撃を受けないように振舞えばいいのではないのか。

 相手が、こちらを生かしたまま拘束するという大前提で行動しているのならば、なおさらだ。

 もっとも、そんな考えに囚われていては失敗するだろうことは目に見えてはいたが。

 セツナは、ラクサスの後に続いた。紅蓮の炎に包まれた宿舎は、まるで巨大な火柱であり、夜の闇を明るく照らし出していた。その光明を頼りに正門へと向かう。

 激しい雨の中、それでも宿舎が鎮火する気配はない。

 地面が揺れた。ただの地震などではないことは、そのわずかな震動の中に不愉快な力の波を見出したことで理解する。ランカインの気配。闘争の権化たる狂気の男だけが持つ、類を見ないほどに研ぎ澄まされた殺意の片鱗。

 セツナは、寒気を覚えるのとともに顔を歪ませた。しかし、ランカインの影に囚われている場合ではないと思い返すと、彼は、腰に帯びた剣を抜いた。歴戦の戦士のようにすらりと抜くことはできなかったが。

 違和感を覚える。

(なんだ?)

 セツナは、右手にずっしりとした重みを感じながら、違和感の正体を探ろうとした。だが、それは叶わない。前方に宿舎の正門が見えてきていた。宿舎を包み込んだまま燃え盛る炎の輝きは、正門周辺を赤々と照らし出している。いや、それはもはや門などとは呼べないだろう。

 激しく揺らめく火影の中、宿舎の南側に位置する正門は、なんらかの方法によって破壊されていたのだ。原因は外部からの圧力以外に考えられず、事実無理やり開放された正門からは、無数の兵士たちが雪崩れ込んできていた。

 ザルワーンの猛将グレイ=バルゼルグ旗下の屈強な兵士たちは、宿舎を焼き尽くす猛火の勢いには驚いている様子だったが、だれひとりとして怖気づいているようには見えなかった。冷雨の中、長時間待機し続けていたのだ。並大抵の精神力ではない。屋敷がひとつ燃え尽きたところで、恐怖など感じはしないのだろう。

 すぐ目の前でラクサスが立ち止まった。

 セツナもそれに倣って足を止めると、剣を構えるため、柄を両手で握った。いつもと異なる感覚が、セツナの視界を広げている。それはまるで黒き矛を振り回しているときと同じ感覚だった。気力が充溢し、あらゆる感覚が冴え渡っている。乱舞する雨音と渦を巻く炎の旋律、閃光が脳裏を焼き、雷鳴が耳朶に突き刺さる。兵士たちの靴音が止まず、鎧同士の擦れる金属音が耳元で踊った。囁きが聞こえた。

「あのものどもを確保せよ。殿下の御命令である」

 兵士がうなずき、包囲中の部隊に緊張が走るのが見て取れた。宿舎の敷地内になだれ込んできた兵士たちが、それぞれに得物を構えた。多くが剣であり、近接戦闘に特化した部隊が突入してきたようだった。近距離での戦いならまだなんとかなるかもしれない――そんな淡い期待が、セツナの胸中に生じて消えた。そんな心境とは裏腹に、セツナの五感は兵士たちの動きを捕捉して離さない。

 敷地内に突入してきた兵士の数はざっと三十人。しかし、その後方には数え切れないほどの兵士たちが控えており、さらに言えばここは敵地であった。兵士の補充など容易に違いない。眼前の敵をいくら倒したところできりがないのだ。

 だが、セツナは、兵士たちの挙動を見ていた。こちらに向かって進軍を始めた兵士たちの一挙手一投足が、セツナの瞼の裏を席巻していた。息吹が聞こえる。兵士ひとりひとりの鼓動が、セツナの意識に入り込んでくる。肥大しながらも尖鋭化した五感が、この場のあらゆる変化を見逃さない。

(行ける……!)

 セツナは、双眸を見開いた。視野一杯に広がるのは戦場の景色。恐ろしくも狂おしいほどの昂揚感が、彼の意識を塗り潰していく。今なら行ける。彼は、確信とともに濡れた地面を蹴った。ラクサスが驚いたのを視界の端に捉え、密やかに笑う。驚くのも無理はない。

 セツナ自身が驚いていた。

 しかし、驚愕が彼の行動を鈍らせることはなかった。肉体は地を離れている。飛躍。低空を滑るように飛んでいく。敵の元へ。距離は瞬く間に無へと帰し、兵士たちの姿が眼前に迫り来る。いや、近づいていっているのはセツナのほうだったが、セツナの視点からすれば敵陣が迫ってくるように感じられたのだ。

「来たぞ! かかれ!」

 部隊長と思しき男の号令が轟いたとき、セツナの肉体は既に敵陣の目の前にまで到達していた。兜の影に隠れた兵士たちの瞳が驚愕に見開かれたものの、それも一瞬にして消え失せた。代わりに現れたのは戦士の色彩。覚悟の音色。兵士たちの陣形が動き出す。が、こちらの速度に対応するには遅すぎた。

 セツナは剣を振り被った。着地の寸前。敵陣の目前。接触の直前。最前列の兵士のひとりに向かって、全力で振り下ろす。気合とともに。

「はあっ!」

 セツナが振り下ろしたショート・ソードは兵士の兜に激突したが、兜を叩き切るという結果にはならなかった。跳ね返される。セツナの両手に衝撃が走ったが、大したことではない。剣が跳ね返された勢いに乗って、背後に飛び退きわずかに距離を開く。それは悪手。セツナの頭も理解していた。だが、最初の一撃が阻まれた以上、その威勢に任せることはできない。兵士が崩れ落ちたのが視界に映った。脳震盪でも起こしたのかもしれない。兜は斬撃こそ防ぎきったものの、剣の衝撃を殺すことはできなかったのだ。

 右から伸びてきた剣は体を捌いてかわし、左上方から落ちてきた斬撃はショート・ソードの切っ先で受け流す。転倒した兵士を飛び越え、その勢いのまま襲い掛かってきた敵の力任せの一撃も軽く回避した。即座にカウンターの斬撃を叩き込むが、またしても鎧の厚い装甲に阻まれ、致命傷には至らない。

 しかし。

(見える……!)

 セツナは、視界の内外に蠢く無数の敵の動きを把握していた。攻撃を避けられて驚くもの、次の攻撃に備えるもの、遠距離から援護できないかと思案するもの、後詰めのために集まるものども――それらの一挙手一投足が、セツナの脳裏の戦場を彩っていた。黒き矛を手にしているときと同様の感覚。つい先ほど黒き矛を召喚したことによる影響としか考えられない、

(だから、なんだよ?)

 セツナは不敵に笑った。

 だったら、それでいいじゃないか。

 セツナは、黒き矛の力に頼れるものならば頼ろうと想った。なんとしてでも生き残らなければならない。敵は多勢、こちらは寡兵というのもおこがましいほどの戦力差だ。召喚武装の力に頼ってなにが悪いというのだろう。もちろん、召喚はしない。が、それもいざとなればわかったものではない。理性のたがが外れれば、召喚してしまうかもしれない。

 こんなところで死にたくなどないのだ。

 剣を振るい、目の前の敵の剣を叩き落す。そして、即座に相手の側頭部にショート・ソードを叩きつけ、すぐさまその場を飛び退る。直後、寸前までセツナが立っていた場所に槍が突き刺さった。兵士の舌打ちが聞こえた。

 セツナは鼻で笑った。同時に考えを改める。

(斬れないなら、無理に斬らなくていい)

 殺せなくとも、無力化さえできればいいのだ。兜に強烈な衝撃を叩き込めば、気絶させることくらいはできるのだ。先の兵士のように、脳震盪を起こしてしまえば使い物にならなくなる。少なくともこの戦場に於いては。

「うろちょろしやがって!」

 攻撃をかわされ続けて頭に来たのか、兵士のひとりが叫んできた。もちろん、セツナはそ知らぬ顔をした。こちらだって命がけなのだ。掠りたくもなかった。

 数多に襲い来る斬撃を回避し、反撃に強力な一撃を叩き込んでいく。セツナの剣が閃くたびに、兵士がひとりまたひとりと崩れ落ちていった。

 敵の攻勢が、わずかに止む。セツナの戦い振りに怖れをなしたというわけでもないのだろうが。

「なんだこいつ……!」

「気をつけろよ。普通じゃない」

「ただのガキかと思ったが、どうやら違うらしいな……」

「武装召喚師……!」

「まさか」

 セツナは、口々に囁き合う兵士たちを一瞥しながら、状況がなにひとつ変わっていないことを確認した。彼の一撃によって昏倒した兵士たちは、優に十人を超えている。だが、それだけだ。兵士がひとり戦闘から脱落するたびに新たな戦力が補充されており、敷地内の敵の数は減少するどころか、むしろ増加しているようだった。もっとも、いまのセツナにとって数は問題ではない。

 気になるのは、ラクサスだった。セツナが敵の群れと格闘している最中、ラクサスもまた、別の場所で剣を振るっていたようだった。周囲を見回してわかったのは、ラクサスの足元に三人の兵士が倒れていたという事実だ。

 やはり、強い。

 セツナは、無用な心配をするのをやめると、地を蹴った。後方へと飛び退すさる。兵士たちの掛け声が響いた。閃光と雷鳴が落ちてくる。前方の鎧の群れが、雷光を反射して輝いたように見えた。敵兵は、セツナとの間に生まれたわずかな空白を埋めるために勢いよく飛び出してきている。彼は、足の爪先が地に着いた瞬間、再び跳躍した。前方へ。

「――!?」

 唖然とする兵士たちの頭上を飛び越え、その背後――敵陣の真っ只中に着地する。周囲四方の敵兵は、セツナの大胆というよりは無謀極まりない行動に驚きすぎたのか、反応が遅れた。その隙を見逃すセツナではなかった。眼前の兵士の兜を剣で殴りつけると、返す刀で左右の兵士にも打撃を叩き込み、飛び越えた兵士たちの背後を突くべく踵を返そうとした。が。

(あれ……?)

 眩暈が、セツナの意識を揺らした。全身から急速に力が抜けていくのが、他人事のように理解できた。全身を躍動させていた圧倒的な活力が失われていく。残るのは、急激な運動で疲弊しきった未熟な男の体に過ぎない。両手の間から剣が滑り落ちた。雨に濡れた地面に剣が落ちて、小さな音を立てた。

 セツナは、愕然とした。もはや兵士たちの囁きも聞こえなければ、戦場の景色が脳裏を彩ることもない。感覚が元に戻ったのだ。狭い視野では、兵士ひとりひとりの動きを把握することなどできるはずがなかった。全身が悲鳴を上げている。それはそうだろう。あんな人間離れした運動についていけるほど鍛えてはいないのだ。自嘲する。調子に乗りすぎたのだ。

(俺はいつもこうだ)

 力に振り回されている。

 黒き矛の持つ圧倒的な力に触れれば、だれでもそうならざるを得ないのかもしれないが、だとしても許されていいようなことではない。力を制御できていないのだ。力を使う己の意思を。

 降り注ぐ雨の冷ややかさが、セツナを嘲笑うでもなく包み込んでいく。

 周囲の兵士たちが、即座に手を出してこなかったのは不幸中の幸いだった。突然動かなくなったことに不審を抱いたのかもしれない。セツナは、いまはその兵士たちの慎重さに感謝したい気分だった、呼吸が荒い。手が震えている。動けやしない。

 靴音が聞こえた。至近距離。兵士たちによる包囲が狭められていく。元々、この兵士の群れの中に飛び込んだのはセツナ自身である。自分で自分の首を締め上げてしまったのだ。笑うに笑えない。

 セツナは、やっとのことで剣を拾い上げることができた。しかし、いまの体力では手に持つだけで精一杯だった。振り回すことは愚か、相手に叩きつけるなどできるわけがなかった。呼吸を整えることさえできない。それだけ、さっきまでの運動が尋常なものではなかったのだが。

「ニーウェ!」

 ラクサスの呼び声が遠い。兵士の群れが壁となって、近づくこともままならないのだろう。

 セツナは、ラクサスには悪いことをしてしまったと反省していた。ラクサスの近くで戦っていれば、こんな事態には陥らなかったはずなのだ。力に酔い、調子に乗ってしまったがために招いた窮地。自業自得に他ならない。

(全部、俺のせいだよ)

 セツナは、自嘲するしかなかった。

 周囲を取り囲んだ兵士たちは、一斉に剣の切っ先を突きつけてきた。武器を捨て、無駄な抵抗はやめろとでも言いたいのかもしれない。彼らは無言であり、沈黙こそが最大の武器だとでもいいたげだったが。

 彼らの目的がセツナたちの確保であるならば、即刻殺されるということはないのだろうが、投降したところで身の安全が保障されるわけでもない。むしろ、情報を聞き出せるだけ聞き出した後に用済みと処分されるのが落ちだ。

 かといって、暴れることはできない。押し潰されるように殺されるだろう。相手にしてみれば、セツナとラクサスのうち、どちらかひとりでも確保できればいいのだから。

(そうだな……)

 セツナは、剣を鞘に収めた。ラクサスから頂いた代物をこんなところに捨てることはできない。

 第一、諦めてはいないのだ。

 戦うだけの体力はない。立ち向かうほどの気力もない。精も根も尽き果て、残っているのは生きたいという本能と、任務を遂行しなければならないという使命感だけかもしれない。

 それでも、セツナは諦めなかった。

 ランカインたちに期待を寄せているというわけではない。

 切り札がある。

 ひとつだけ、この状況を打破し、逆転しうる切り札が残っていた。それを使うことは禁じられている。それはあまりにも有名になりすぎた。黒き矛。バルサー平原で千もの命を吸った魔性の矛。ガンディアの切り札。

 こえが、聞こえた。


『我を呼べ。我が手を取れ。我が力を振るえ。我は無限の――』


 それがなんであるか、セツナは理解できなかった。ただ、心の奥底から響いてきた音色は、とてつもなく恐ろしげで圧倒的であり、破壊と殺戮の権化であるかのような響きを持ちながらも、どこか儚げだった。それに懐かしさがある。

 そして、セツナは手を掲げた。

 目の前の兵士が、びくりとした。

「う、動くな!」

「武装――」

 セツナは、呪文の末尾を紡ごうとしたが、それはできなかった。

 雷鳴のような轟音とともに地面が激しく揺れ、セツナは、舌を噛んだのだ。口の中に広がる痛みに悶えるよりも、その場に踏ん張ることのほうが先決だった。しかし、あまりに苛烈な震動の前には、体力の残っていないセツナは無力に他ならなかった。転倒し、全身を強打する。だが、それは周囲の兵士たちも同じらしかった。

「な、なんだ!?」

「地震だと!」

「これはいったい?」

 口々に喚く兵士たちの様子から、彼らの混乱ぶりが窺える。立ち上がることさえままならないほどの地震だった。状況を把握することもできない。

 なにかが崩れ落ちる音が響いた。宿舎だった。元より黒き矛の炎で焼き尽くされていたのだ。そこへ強烈な衝撃が加われば、倒壊するのは当然といえた。火は、大雨によってほぼ消されていた。

 宿舎の敷地内には、闇が帰還を果たそうとしていた。

 セツナは、大地の揺れが中々収まらないことに違和感を覚えた。無論、この地震が自然災害などではないことくらい百も承知である。ランカインの手斧の力だろう。これほど激しい地震が起こせるのは知らなかったが、他人の召喚武装の能力など知らなくて当たり前なのだ。

 再び、地響きとともに轟音が鳴り響いた。大地が激しく震え、なにかが地中からりあがってくるような感覚がセツナを襲った。それは、宿舎の北側から迫ってきていた。

 セツナが地に伏せたままそちらを見遣ると、地中からいくつもの巨大な岩盤が迫り上がっていくという神秘的な光景が展開されていた。

 間違いなくランカインの仕業だった。

 まるで岩盤で作り上げられた橋のようにも見えるその上を、ふたつの影が疾駆してくるのがセツナの眼に映った。地震は収まらない。正門目前の地中からも岩盤が隆起し、巻き込まれた数人の兵士は、迫り上がる勢いで地面に振り落とされた。悲鳴が上がった。

 セツナは視線を巡らせて、ラクサスの居場所を確認しようとしたが、だれもかれもが地に伏せているため見分けがつかなかった。

 声が、頭上から降ってきた。

「ニーウェ!」

(え……?)

 セツナが顔を上げると、頭上高く聳え立った岩盤からふたつの影が飛び降りてくるところだった。二頭の馬。そのうち一頭の馬上には、ランカインの姿があった。

 馬がセツナの眼前に降り立つと、周囲の兵士が愕然とするのも尻目にこちらに駆け寄ってきた。馬の足が、地に這い蹲る兵士たちを踏み潰していく。

 そして馬上のランカインが、セツナに向かって手を差し出してきた。

「掴まれ」

 男の眼が、笑っているように見えた。なにを笑っているのだろう。この状況を楽しんでいるのだろうか。いや、楽しんでいるのだろう。自由に力を振るえるこの状況を心の底から楽しんでいるのだろう。闘争と殺戮と狂気の混在するこの戦場こそが、彼の呼吸する世界なのだ。

(俺は……)

 セツナは、一瞬の躊躇いの後、残る力を振り絞ってランカインの手を掴んだ。

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