第六百四十七話 エインの依頼
「セツナ様!」
セツナを呼ぶ声が響き渡ったのは、ジベル突撃軍がセイドロックで接収した軍事基地の廊下を歩いているときだった。その声の大きさには、廊下を歩く軍関係者が驚くほどだったが、セツナに驚きはなかった。いつものことだと思うしかない。
「ん?」
振り返ると、軍師見習いとでもいうべき少年が、三人の部下を置き去りにして駆け寄ってくる光景が目に飛び込んできた。エイン=ラジャール。彼が身につけた白い制服は、参謀局に所属していることを示していた。胸元に飾られた紋章が、彼の立場を明確にしている。
参謀局第一室長。連合軍におけるガンディア軍の影響力は、彼をジベル突撃軍の軍師という立ち位置にしてしまっているが、エインの戦績を考えれば問題はなさそうだった。ジベル突撃軍の指揮官を務めるハーマイン=セクトルが、エインの役職について異論を挟んだ様子もない。
エインは、セツナの目の前で立ち止まると、息を弾ませながら問いかけてきた。
「もう動いてだいじょうぶなんですか?」
「ああ。見ての通り、傷ひとつ負ってないし、疲れもある程度は取れた」
「さすがはセツナ様! ですね!」
エインが諸手を上げて飛び上がった。廊下を行き交う軍人たちの視線が突き刺さったはずだが、彼はまったく気にしていないようだ。心の底から喜んでくれるのはありがたいのだが。
「えーと……時々おまえのノリについていけなくなるよ」
「ええっ!?」
「そういうところがさ」
大袈裟に驚いてみせるエインに追い打ちをかけたのは冗談だったが、セツナの背後から口を挟んできた女はそう受け取ってくれなかったようだった。
「まあよろしいじゃないですか。ご主人様を慕っておいでなのですから」
「そうです! 嫌われるよりはずっといいですよ!」
「そりゃあな……」
セツナは、ぴょんぴょんと飛び跳ねるエインと、なにやら面白いものでも見るかのような表情のレムを交互に見て、鼻を掻いた。
一月十八日午後、ジベル突撃軍は、首脳陣を集めて軍議を開いた。
軍議には、ジベル軍からはハーマイン=セクトル将軍を始め、各軍団長が参加し、ルシオンからは王子ハルベルク・レウス=ルシオンと白聖騎士隊の隊長を務めているリノンクレアが、ベレルからは豪槍騎士団長と重盾騎士団長が顔を揃えた。ガンディアからはガンディア方面軍第一、第二軍団長のほか、エイン=ラジャールと、《獅子の尾》隊長セツナ・ラーズ=エンジュールが顔を出している。
軍議の席では、やはりエインの発言力が強かった。彼には、ザルワーン戦争での実績がある上、ナーレス=ラグナホルンという強力な後ろ盾がある。ナーレスの軍師としての評価は、ガンディアと近隣諸国の中で異様なほどに高く、彼が認める人材というだけで、エインの評価も高まっているようだった。
「現在の戦況ですが、ジベル突撃軍はセツナ様の活躍もあって、セイドロックの制圧に成功。ただいま、セイドロックに滞在し、つぎの作戦に向けての準備中です」
エインは、セツナの活躍を強調したものの、異論を挟むものはいなかった。それからセイドロック攻略戦におけるジベル突撃軍の損害をつぶさに語った。それによると、ジベル突撃軍の損害は軽微とはいえないものの、エインやハーマインの予想よりは少ない出血で済んだということらしい。
もう少し正確にいうと、開戦前は約一万七千の兵数だったのが、セイドロック制圧後には約一万五千二百にまで減少しており、一割ほど損耗したということになる。都市内部での戦闘では思ったほどの損害は出なかったのだが、都市外部での皇魔との戦闘が、ジベル突撃軍に多大な出血を強いたのだ。もっとも損害が大きかったのは、ジベルの黒き角と、ベレルの豪槍騎士団であり、それぞれ三百人以上失っているという。
数の上で大きく上回っていたというのにこれである。皇魔がいかに凶悪なのかがわかろうというものだろう。
負傷者も多く、医療部隊は休む間もない状態らしく、《獅子の尾》専属のマリア=スコールとエミル=リジルも駆り出される始末だった。幸い、《獅子の尾》の隊士たちは軽傷で済んでおり、彼女たちに頼る必要さえなかったのだが。
「知りたいのはほかの軍の状況だな。アバード突撃軍と遊撃軍の援護はできたが、勝利を見届けることはできなかったし……」
「ガンディア決戦軍を含め、各軍の状況を把握するのは、もう少し時間がかかるでしょうね。しかし、セイドロックの西を皇魔の群れが北上していたという報告もあり、ガンディア決戦軍がクルセルク軍を撃退したのは間違いないかと」
「つまるところ、軍師殿の戦術は成った、ということか」
「ランシードとゴードヴァンの状況は不明ですが、少なくとも、皇魔の間引きとセイドロックの制圧は成功したといっていいでしょうね。皇魔がガンディア領土から撤退していると考えれば、マルウェールも無事でしょうし……」
エインが告げると、だれかが大きく息を吐いた。クルセルクとの戦争の第一戦が連合軍側の勝利で終わることができたことで、緊張が解けたのかもしれない。
が、戦いはこれで終わりではないのだ。敵の戦力は、まだ、こちらと同等か、上回っているかもしれないのだ。
六万の皇魔と二万の正規軍。そのうち、第一戦でどれくらい削れたのかは不明だ。少なくとも一万以上の皇魔が、クルセルクの大地で死んだはずだったし、クルセルクの正規兵二千名が、ジベル突撃軍に敗れている。
当然のことだが、セイドロックの守備についていた二千人の正規兵は、殲滅したわけではない。鋼冑戦団と名乗る軍団は、ジベルの死神部隊や精鋭との激戦の果て、敗北を認め、こちらに降ったのだ。
鋼冑戦団は、ハーマイン将軍の判断によりジベル突撃軍に加えられた。それもこれも、クルセルクを魔王の手から解放したいという鋼冑戦団長の願いを聞き入れたからだ。皇魔が我が物顔で闊歩する国など愛せるはずもない、というのは、ジベル突撃軍首脳陣の共通認識であり、反対するものはほとんどいなかった。反対者も、監視さえしっかりしておけば問題はないといい、鋼冑戦団の同行が認められる運びになった。
「我々がつぎに攻撃するのは、予定通りウェイドリッド砦になります。が、それは、ランシードやゴードヴァンの制圧が確認できてからのこと」
「まずは後方の安全を確保しなければな……」
「ええ。各軍との連携を密にし、万全を期すべきです。クルセルクの戦力は未だに多い。油断することなど、あってはなりません」
エインが語気を強めていった。どれだけの戦力が整っていたとしても、油断が敗北に繋がるということを知っているのだ。ザルワーン戦争がそれだ。ガンディアを圧倒的に上回る戦力を有したはずのザルワーンが敗北したのは、どこかに油断があったからだ。それはナーレスの工作などによって生まれた油断であったとしても、教訓になったのは間違いない。
「エイン殿のいう通り、確認が取れるまでは我々も動くに動けない。皆、体を休め、英気を養ってくれたまえ」
「はっ」
「殿下も、よろしいですね?」
ハーマインは、なぜかルシオンの王子を見やった。ハルベルクも心外だったのだろう。少しばかり困惑したような表情を浮かべると、静かに肯定した。
「我々にも異論などありませんよ」
「では、解散」
ハーマインが宣言すると、列席者は立ち上がり、敬礼を交わし合った。
十八日の軍議は、そのようにして終わった。
「軍議といっても、なにも進展しないんでしょ? どうせさあ、あの軍師様が考えた通りに動くだけなんだし……っていうか、それなら参謀局だっていらないんじゃないの?」
ミリュウが身も蓋もないことをいったのは、セツナとレムが部屋を出て行ってから、しばらく時間が経過してからのことだった。
王立親衛隊《獅子の尾》に充てがわれた部屋は、とにかく広く、豪華だ。テーブルもソファも、天井からぶら下がっている魔晶灯も、精緻な細工が施されていて、見ているだけでも飽きないような代物ばかりだった。連合軍が接収した軍事基地の敷地内にある建物の一室であったが、この建物自体が《獅子の尾》専用といってもいい扱いだった。
『《獅子の尾》とセツナ様の大活躍があってこその勝利なんですから、特別扱いも当然ですよ』
エインが胸を張っていったものだが、おかげでだれにも邪魔されることなく休めるのだから、悪いことではない。
セツナが丸一日以上、だれに邪魔されることなく眠ることができたのも、隔離された空間を与えられたからなのかもしれなかった。
ミリュウは横幅の広いソファの上にだらしなく寝そべっており、ファリアは椅子に腰掛けて、書類と向き合っていた。昨日は丸一日ぼーっとしていたものだが、今日はそうはいかない。
「そんなことはないわ。戦いは流動的に変化するものよ。軍師様だって、なにもかも見通せるはずがないでしょ? そんなことができたら、本当に軍師様ひとりで済んでしまうわ」
「軍師ひとりでどうにかできるもんでもないですけどねー」
不意に割り込んできた声に目を向けると、エイン=ラジャールが部屋に入ってくるところだった。
「あら、おかえりなさい。早かったんですね」
「ミリュウさんのいうとおり、たいした軍議でもなかったですし」
エインに続いて、セツナ、レムが部屋に入ってきたので、ミリュウがソファから飛び上がるように離れ、セツナに飛びついていった。
「あーん、セツナー、おかえりー!」
「セツナもおかえり」
「ただいま、ミリュウ、ファリア」
セツナも慣れたもので、ミリュウを適当にいなしながら歩き、ソファに腰を落ち着けた。ミリュウは諦めずにセツナに抱きつくので、結局セツナが根負けするといういつもの光景を見遣りながら、ファリアは頬を緩めた。ミリュウの積極性を羨ましく想うのだが、同時に、自分にはできないことだと諦めもするのだ。
「ルウファは?」
「エミルんとこよ」
「元気だなあ、あいつ」
「怪我もしてないしねー」
ルウファは中遠距離での戦闘を心がけていたせいか、無傷で戦闘を終えることができたのだ。ミリュウは皇魔の群れの中に突っ込んで戦ったことが裏目に出て傷を負ったが、かすり傷といっても過言ではない程度のものだ。ファリアも、ブリークの雷撃をかすった程度で済んだ。さすがは《獅子の尾》の武装召喚師だという評判が、ジベル突撃軍の中に広まっている、らしい。
「レムもおかえりなさい」
「気になさらないでくださいませ、ファリア様」
レムは少しばかり驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。距離感の計りにくい、微妙な笑顔だ。
彼女の、セツナの護衛というよりは専属の使用人のような態度には、解せないところが多い。セツナの暗殺を図ったかと思えば、護衛任務が下れば手のひらを返したかのように、従順な下僕と成り果てた。そして、その下僕同然の立場を楽しんでいる様子さえある。
ファリアにとってミリュウ以上に不可解なのが、レムという女だった。
「それで、軍議はどうだったの?」
「どうもこうもないよ。各軍の状況を把握するまでは動けないってさ」
「それなんですが」
「ん?」
「セツナ様さえよければ、ひとつ、頼まれてくれませんか?」
エインには、なにか考えがあるようだった。