第六百四十六話 彼と死神(五)
灰色の空を、見ている。
灰色の平原で仰向けになって横たわり、視界いっぱいに広がる空を見やっている。流れる雲も、輝く太陽も、なにもかもが灰色一色だった。おそらく、起き上がって周りを見回しても、灰色なのだろう。
灰色の世界。
それは、夢と現の狭間にいるということを示している。
「またかよ」
ぼやくと、暗い影が視界を覆った。なにか巨大な物体が、灰色の空を舞っている。灰色の空を汚すただひとつの黒点。遥か上空を飛翔しているというのに、視界を覆い尽くすほどに感じるのは、それがあまりに巨大だからだろう。黒き竜。カオスブリンガーの化身。
「夢なきものに夢を見せてやっているのだ。嘆かれるいわれはないと思うが」
「はっ……くだらねえ」
セツナは、黒き竜の皮肉めいた言葉に、うんざりと吐き捨てた。絶大な力を秘めた矛の化身は、いつだって我が物顔で心の中に踏み込んでくるような奴だ。そんな相手に気を使う必要はない。
竜は、上空を大きく旋回すると、視界の片隅で止まった。ゆっくりと降下を始める。巨大な物体が音もなく近づいてくる。圧倒的な迫力には、威圧感を覚えざるを得ない。いつものことだが、そう簡単に慣れるというものでもないらしい。
上体を起こす。夢と現の境界の光景は、いつもと変わらない。なにもないだだっ広い平原。石も草花も灰色で塗り潰され、陽の光とそれによって生じる影さえも、灰色に染まっている。セツナ自身もだ。目に映る手も足も灰色であり、この世界で唯一、ほかの色彩を持つこむことができるのが、黒き竜だけのようだった。
漆黒の流動体のような巨躯を誇るドラゴン。灰色の世界唯一の違和感。灰色の調和を破壊する存在。破壊と殺戮の権化である彼には相応しいのかもしれないが。
「忠告だ」
竜は、遥か頭上からこちらを見下ろしている。赤く輝く無数の目は、さながら皇魔を彷彿とさせた。皇魔を殺しすぎたせいかもしれない。
「気をつけろ。敵は常におまえを見ているぞ」
「敵がだれなのか、それを教えてくれよ」
「それは自分で考えるのだな」
「なんのための忠告なんだか」
「おまえが二度とあのような失態を犯さないように、な」
竜が、嘲笑うように目を細めた。無数の目から漏れる紅い輝きだけは強く、烈しくなっている。
「ありがたいこって」
失態とは、エレニアに刺されたことに違いなかった。反論の余地はない。死なずに済んだのは運がよかっただけだ。エレニアが憎悪に我を忘れたために急所の一突きで殺す、ということに思い至らなかったからであり、セツナの努力の賜物ではない。むしろセツナは、殺されることさえ受け入れてしまっていた。
死んでもよかった、と思っていた。
いま思い返せば、愚かなことだと言い切れるのだが、そのときはそう思ってしまったのだ。疲れていたのかもしれない。
「でもさ、本当にありがたいと思ってるよ」
「殊勝な心がけだ」
「あんたのおかげで、俺は俺でいられる。そんな気がするんだ」
セツナは、その場で立ち上がった。夢と現の狭間。疲労は感じない。それどころか痛みもなければ、気怠さもなかった。軽い。いつも以上の軽やかさが、彼の心を少しばかり解きほぐした。
立ってみると、竜の巨大さがよくわかった。しかし、ザルワーンの守護龍と比較できるほどではない。あれと比べれば、なにもかも小さく見えるものだろうし、黒き竜としても本意ではないだろう。守護龍は、とにかく、とてつもない巨大さだったのだ。
竜は、黙したままなにかを考えていたようだった。
「……俺がいようがいまいが、おまえはおまえだ。セツナ。我が半身よ」
「半身……そうか、半身か」
竜の言葉を反芻して、実感とともにうなずく。
「悪くないな」
そういったとき、竜が笑った気がした。気がしただけで、本当は笑っていないのかもしれなかったが、そんなことはどうでもよくなった。
夢が終わるからだ。
瞼を開けた瞬間、目に飛び込んできたのはよく知った女の顔だった。闇に溶けるような黒髪と、光など見えていないような闇色の瞳。可愛らしい少女人形のような整った顔立ちは、彼女の年齢をわからないものにしていた。話によれば、ファリアと近い年齢らしいのだが、とてもそうは見えなかった。外見だけで判断してはいけないという好例ともいえるのだろうが。
「なんだよ」
セツナは、口先を尖らせて、彼女の顔を追い払うようにした。闇の中、女が顔を離しながら、少し笑ったようだった。小さな声は、眠っているものをおこさない配慮なのだろう。
「よく眠るものだと思いまして」
「そりゃそうだろ。あんだけ働いたんだ。少しくらい眠ったって、だれも文句はいえないはずだ」
「文句をいっているわけではございませんわよ。ご主人様の寝顔は可愛らしくて、嫌いではないし」
「口を開けば皮肉か冗談しかいえないんだな」
セツナは、彼女の言葉を素直には受け取らなかった。
ずっと眠っていたからなのか、疲れが体中に残っていた。節々が痛む。筋肉痛は、黒き矛の力に翻弄された証でもある。制御してはいても、あまりに大きすぎる力は、セツナの心身に多大な負担をかけるものだ。だから、電池が切れたように眠ってしまったのだ。
「勝った……んだな?」
「はい。ご主人様のご活躍により、ジベル突撃軍は無事セイドロックを制圧することができまして、わたくしどももこうしてゆっくりと休むことができている次第です」
「そうか。それを聞いて安心しだよ」
適当に返事をして、セツナは疑問符を浮かべた。
寝息が、すぐ近くで聞こえていた。頭を少し横に倒すと、視界に赤毛が入り込んでくる。ミリュウが、寝台に突っ伏している。どうやらセツナをつきっきりで看病していたら、眠ってしまったようだ。憶測でしかないが、ほかに理由は考えられなかった。
セツナは、ミリュウを起こさないように、慎重に上体を起こした。体中の筋肉が悲鳴を上げる。先の戦いで肉体を酷使した結果だ。甘んじて受け入れるしかない。しかし、勝てたのだ。勝利に貢献することができたという事実だけで十分だった。
レムは、枕元に座っていた。いつも電源が落ちたかのように眠る彼女だが、目を覚ませば即座にセツナの護衛を始めるのだから驚きだ。自分の任務を全うするための努力を惜しまないということであり、彼女のそういうところは嫌いにはなれなかった。
自分の役割を全うしようとする人間を嫌悪する道理はないのだ。それがセツナにとって不利益になることであったとしても、だ。
(護衛という名の監視任務か)
竜は、常に見られている、と警告してきた。それはつまり、レムがセツナを監視しているということにほかならない。もちろん、そんなことは最初からわかっていたことだ。死神零号ことクレイグ・ゼム=ミドナスは、レム侵入事件を手打ちにするために、彼女をセツナの護衛にするという案をレオンガンドに提示した、という。
護衛として四六時中同行させることでセツナの弱点でも探ろうというジベルの魂胆は、その時点でわかりきっていたのだ。それでもジベル側の提案を受け入れたのは、死神部隊のひとりを手元に置いておくことで、ジベルの中でも秘匿とされていた死神部隊の全容が明らかになるかもしれないという思惑があったからだ。死神部隊とは何なのか、死神の実力とは如何程のものなのか。今後のことを考えれば、知っておくに越したことはない。
とはいえ、ジベル突撃軍として戦場をともにしたことで、死神の能力の一端は知ることができた。隠すほどのものではない、という判断が死神部隊にあったのだろうが、その特異な能力は、召喚武装の能力なのか、外法を施術されたことによって発現した異能なのか、セツナには判別できなかった。
暗闇の中、死神の横顔を見ている。美少女という言葉が掛け値なしに似合う女の横顔だ。傷ひとつ見当たらないのは、戦場では仮面をかぶっているおかげ、ということでもあるまい。
死神壱号としての彼女の実力は、ファリアやミリュウ、ルウファといった優秀な武装召喚師にこそ遅れを取るものの、一般兵やルシオンの精兵はいわずもがな、《大陸召喚師協会》から派遣された武装召喚師よりも強いといって差し支えなかった。そして彼女の場合、彼女と死神のふたりがかりで戦うことができるのだ。その点を踏まえると、ファリアたちにも匹敵する力を発揮していたかもしれない。
静寂が、横たわっている。ミリュウの健やかな寝息だけが聞こえるのだが、その寝息が、静寂をより深めていくようだった。
セツナは、沈黙が嫌いではない。むしろ、会話をするのが苦手だった。そしていまのセツナには、静寂を楽しむだけの精神的余裕がある。疲労はあるが、耐えられないほどのものではない。
やがて、レムがセツナの視線に気づいたのか、顔をこちらに向けてきた。
「わたくしの顔になにかついていますか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「では、見とれていたのですか?」
レムがからかうようにいってきたので、セツナは小さく肯定した。
「そうかもしれない」
彼女は、なにも言い返してこなかった。セツナの返答が予想していたものと違っていたのかもしれないし、どうやってからかうべきか考えているからかもしれない。レムの思考回路ほど読みにくいものはない。いや、他人がなにを考えているのかなど、わかろうとするほど愚かなことはないのかもしれないが。
ミリュウは、わかりやすい。彼女はなぜか、セツナのことを第一に考えている節がある。セツナ以外は二の次で、だからレムと激突しやすいようだ。ファリアもまあ、わかる。彼女は使命を最優先事項としていたが、その使命が失われたいま、仕事を一番に考えるようになったらしい。ルウファも似たようなものだが、彼の場合、仕事というよりは王家への忠誠心のほうが強く、深い。そこに家族や、恋人であるエミル=リジルのことが入り込んでくるようだ。
では、自分はどうなのか。
ふと考えるが、結局のところ、自分にはなにもない、というところに落ち着くのが虚しさを呼んだ。
「わたくしも、ご主人様に見惚れていましたのでございますよ」
「へえ」
「あなたが皇魔を殺戮する様は、死神よりも死神らしくてね」
「死神だって、あんなに殺しはしないかもな」
セツナは、自嘲気味に笑った。うんざりするほど殺している。人も魔も、飽きるくらいに殺しているのだ。これからも殺し続けるだろう。ガンディアがその覇道を止めない限り、セツナの命が失われない限り、燃え尽きてしまわない限り。
レムは、そんなセツナの反応が気に入らなかったようだ。
「それなのに、あなたはどうして絶望しないのかしら」
「そんなことが気になるのか?」
「うん。だって、そんなの不公平じゃない?」
「なにが」
セツナには、レムのいっている言葉の意味がわからない。レムもそのことはわかっているらしく、意地悪く微笑んできた。そして、静かにいってくるのだ。
「あたしたちはみんな絶望している。カナギも、シウルも、ゴーシュも、みんなね。なにもかも失って、絶望して……そしてクレイグに拾われて死神になったの」
レムの独白は続く。
「死神としての力を振るって、殺戮して、そのたびに絶望を深めていく。それがあたしたち死神の本質。あなたは違う。絶望もしなければ、未来を諦めてもいない。同じ血塗られた道を歩いているはずなのに」
「だから、気に入らない?」
「そうね。きっとそう……」
「なんていうか、勝手な話だな」
セツナは、レムの言い分の身勝手さに天を仰いだ。暗闇の中、うっすらと高い天井が見える。
「でも、それが人間ってものでしょ?」
「死神じゃなかったっけ?」
「そういえば……そうね。変なの」
セツナの指摘に、彼女はきょとんとした。それから、細い膝を抱え、膝の間に顔を埋めた。
「あたしは死神で、人間なんてとっくにやめたはずなのにな……」
レムに対する警戒心が薄れているのは、彼女があまりに無防備で、セツナに対する敵愾心や悪意といったものを見せないからなのは明らかだが、それ以外にも、監視者としての役割を果たしていないように見えるからかもしれない。そう見えるだけで、実際はセツナのことをしっかりと監視しているのかもしれず、気を抜いてはいけないのだが。
(それはわかっているんだけどな……)
セツナは、ミリュウの髪を撫でて、それからレムを横目に見た。
少女の物憂げな横顔が、闇に浮かんでいた。