第六百四十五話 女神と天使
ガンディア決戦軍は、魔王軍の撃退に成功すると、勝利の余韻に浸る間もなくマルウェールに入った。増強された城壁が原型を留めぬほどに破壊され、さらに第二城壁までも崩壊寸前だったという事実に肝を冷やしたのは、レオンガンドだけではないだろう。戦いが長引けば、マルウェールが陥落していたかもしれなかった。
二重の堀は血で汚れ、無数の皇魔の死体が浮かんでいた。戦争の最中だ。皇魔の死体を撤去するのは、もう少し戦いが落ち着いてからになるだろう。瓦礫の撤去や城壁の補修も遅れることになるが、人数を割けない以上、仕方のないことだ。
マルウェールで囮役を務めたのは、ザルワーン方面軍第一、第二軍団である。城壁こそ破壊され、都市内への侵入を許したものの、被害そのものは少なく済んだようだった。両軍団は、ザルワーン方面を舞台にした戦いでもっとも損害の少なかった軍団でもある。籠城戦に徹したことが功を奏したのだろうが、ナーレスの提案によって城壁と堀を追加したことも大きかったに違いない。
レオンガンドは、両軍団長を労ると、すぐさま褒美を取らせた。ザルワーン方面軍第一軍団長ミルディ=ハボックには、皇魔から剥ぎ取ったという銀甲冑の召喚武装を、第二軍団長ユーラ=リバイエンには、同じく皇魔の武装召喚師が使っていた曲刀を、マルウェールを守り抜くという大任を果たした褒美とした。
ミルディ=ハボックは自分には相応しくないといったが、なにも軍団長が使う必要はないということで受け取らせた。一方のユーラは、これで戦えると息巻いていたが、武装召喚師でもなければ、鍛えあげられた肉体を持つわけでもない彼が、召喚武装を自由自在に扱えるとは思えなかった。幸い、ユーラの部下には、旧龍眼軍の精鋭が集まっている。使い手は見つかるだろう。
レオンガンドたちがマルウェールに入って最初にしたことがそれだ。つぎに、ガンディア決戦軍の戦力の確認である。三万近い皇魔を撃退するためにどれだけの犠牲を払ったのか、確認する必要があった。
「ガンディア方面軍第三軍団は壊滅。軍団長ガッシュ=ウェボンが戦死し、軍団としての機能は失われたといっても過言ではありません。また、ザルワーン方面軍第七軍団も同様に軍団長を失った上、兵数が極端に減少しているため、他の軍団と合流させました」
「ほかには、ガンディア方面軍第四軍団が半壊、ザルワーン方面軍第六軍団も壊滅状態といっても過言ではありませんな。どちらも軍団長は健在ですが」
「他の軍団も、無傷ではいられませなんだな」
「それはそうだろう。相手は皇魔だぞ。当初相手にした数こそこちらより少なかったが、それも微々たる差だ。力量でいえば、こちらが押し負けても不思議ではなかった」
レオンガンドは、軍師や将軍の報告に息を深めた。椅子に深々と座り、卓上の報告書に目を落とす。会議室には、大将軍を始めとするガンディア軍の重鎮が顔を並べている。アルガザード・バロル=バルガザール、ナーレス=ラグナホルン、アスタル=ラナディース、デイオン=ホークロウの四人と、ゼフィル=マルディーン、バレット=ワイズムーンというレオンガンドの側近ふたりだ。
残りの側近のうち、ケリウス=マグナートはログナー方面マイラムにあり、スレイン=ストールはザルワーン方面龍府で、それぞれレオンガンドの代官として働いている。ガンディオンはというと、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールが王宮に入ってくれており、かつての影の王の手腕を発揮してくれていることだろう。後顧の憂いはない。
憂うべきは、今後の戦いについてだろう。
緒戦こそ勝利したとはいえ、敵はまだ数多にいるのだ。
「この程度の犠牲で済んで良かった、と見るべきだな」
レオンガンドは、報告書にざっと目を通してから、つぶやいた。傭兵を含めて一万八千に届こうという兵数は、一日足らずで一万二千程度に減少している。五千人以上の将兵が、十六日の戦いで命を落としたのだ。ザルワーン戦争など比較にもならないような損害だ。
《大陸召喚師協会》から借り出した武装召喚師を全員投入しても、苦戦を強いられた、という事実がある。リョハンの援軍の到着が遅ければ、ガンディア決戦軍は戦線を維持することもできなくなっていたかもしれない。
それもこれも、敵に武装召喚師がいたからだ。皇魔の武装召喚師。ただでさえ凶悪な皇魔が、一層恐ろしい化け物へと強化されたのだ。通常人が太刀打ちできるはずもなければ、歴戦の猛者でさえ、後れを取った。《協会》の武装召喚師さえも、苦戦し、ときには殺されてしまうような相手だった。
勝てただけでも良しとするべきなのだろう。
「あとは、クルセルクでの戦いがどう推移しているのかが問題か」
レオンガンドは、そういったものの、セツナたちの勝利を疑うことはなかった。
ジベル突撃軍はただでさえ膨大な兵数を誇る軍勢である。そこに黒き矛と《獅子の尾》が加わっているのだ。負ける要素はなかった。
不安があるとすれば、アバード側の二軍団だ。アバード突撃軍も遊撃軍も戦力的には十分なのだが、攻略対象の都市の防衛規模によっては苦戦を強いられる可能性がある。通常戦力だけならばまだしも、何千もの皇魔が都市の防衛に回されていた場合、太刀打ち出来ないかもしれない。
無論、獣姫と弓聖が規格外の戦闘力を誇るのは知っているし、メレドの親衛隊が凶悪なのも理解している。だが、武装召喚師を多数揃えたガンディア決戦軍でさえ、予期せぬ出血を強いられたのだ。ガンディア決戦軍ほどの戦力を揃えられていない二軍団には、あまり期待しないほうがいいのかもしれなかった。
それから、今後の方針についての再確認が行われた。
ナーレスの立てた戦略に従うのは変わらない。ザルワーン方面での戦いも、彼の思惑通りに勝利することができたのだ。損害こそ、彼の想定より多いものの、それは皇魔が武装召喚術を行使するはずがないという前提で考えられた想定なのだ。前提が覆された以上、結果が変わるのは当然のことだった。
『皇魔が武装召喚術を駆使するという情報があれば、もっと別の戦い方を考えたのですが』
戦いの最中、ナーレスが漏らした言葉には、後悔があった。もっと情報を集めたかったというのが、ナーレスの本音だったに違いない。クルセルクは、つい最近まで鎖国同然の状態にあり、情報を集めるのも至難の業だった。それに、皇魔が人間の言葉を発し、武装召喚術を行使するなど、ありえないことだとだれもが思う。皇魔の武装召喚師が投入されるなど、想像のしようがないのだ。こればかりは、だれもナーレスを責められなかった。
むしろ、それでも勝利をもぎ取れたのは、ナーレスの策のおかげだ、というべきだろう。
彼が、クルセルクを討つために手練手管を尽くし、国中のみならず、北の大地から戦力を集めたからこその勝利なのだ。
北の大地――つまりはヴァシュタリアの勢力圏内の唯一の自治領であるところの、空中都市リョハンからの援軍のことだ。
軍議を終えたレオンガンドは、ようやく、リョハンから援軍としてこの地に訪れた武装召喚師たちと対面する機会を得た。
場所は、軍議の開かれた建物とは別の建物だ。ファリア=バルディッシュ率いるリョハンの人々のためだけに用意された宿舎である。勝利の立役者である彼らに報いるには、それくらい用意するのは当然だろう。
リョハンの召喚師たちは、宿舎の広間で待ち受けていた。老人から少年まで、多様な年齢層からなる六名の武装召喚師たち。名前と身体的特徴だけは頭に入れていたので、どれがだれなのかすぐにわかった。
「隻眼の獅子王……ってあんたのこと?」
と、いきなり礼儀もなく問いかけてきたのは、さっきまでソファに座っていた小柄な少年だった。レオンガンドが広間に足を踏み入れた途端、彼の足元まで飛びついてきたらしい。
黄金色の頭髪が魔晶灯の光を反射してきらきらと輝く中、その翡翠の瞳が無邪気な光を湛えている。マリク=マジク。史上最年少で四大天侍の一員となった武装召喚師らしく、その才能と実力は折り紙つきといえる。
「マリク君、失礼ですよ。いくら我々の援護なしには勝利できなかったとはいえ、無作法を働くなど、あってはならないことです」
マリクを窘めながらもガンディア軍を扱き下ろすのを忘れなかったのは、シヴィル=ソードウィンという男だ。短く刈り揃えた髪と、黒縁の眼鏡が印象的だが、眼鏡の奥に光る目にこそ注目するべきかもしれない。筋骨隆々の体躯からは想像しにくいものの、理知的な目をした男だった。四大天侍の隊長格、らしい。
「ようこそ、いらっしゃられました、レオンガンド陛下。わたくしはシヴィル=ソードウィン。四大天侍の纏め役、とでもお考えください。そこの失礼なのは、マリク=マジク。わたくしの隣に控えるのが、カート=タリスマ」
シヴィルが紹介すると、彼の隣にいた剃髪の男が黙礼してきた。長身痩躯の若い男だが、実力者であることは彼が四大天侍の一員であることからも理解できるというものだ。頭髪こそ剃っているが、睫毛は長く、女性的な顔立ちでさえあった。
「そして、わたしがニュウ=ディーでございますわ。どうぞ、お見知り置きを。レオンガンド陛下」
女が椅子から立ち上がり、一礼してきたので、レオンガンドもそれに応えた。腰辺りまで伸ばされた灰色の髪と、豊満な胸が特徴的な女性だ。分厚い防寒着を身につけていても、彼女の胸の大きさは隠し切れないようなのだ。男ならばだれしもその胸に目が行くのではないか。
「爆乳ディーで覚えると早いよ」
「なにがよ!」
「いろいろ?」
「あー、もうっ! ひとがせっかく真面目に決めてるのに、邪魔しないでくれる?」
「君も静かにしたらどうだ? 陛下も困っていらっしゃるぞ」
「あ……」
ニュウ=ディーがこちらの視線に気づいたのか、顔面を蒼白にさせた。レオンガンドには彼女の反応の意味がわからなかったが、とりあえず口を開いた。
「いや、構いませんよ。こちらが突然お邪魔したのでね……」
「ふふ……賑やかでございましょう?」
「ええ、とても」
レオンガンドは、笑みとともに肯定して、老女に視線を向けた。長衣を着込んだ老女の肌は、歳相応にシワが刻まれている。が、血色は良く、とても六十代には見えない若々しさがあった。そもそも、昨日の戦いで大型皇魔をもっとも数多く撃破したのが、この老女なのだ。心配するだけ無駄だろう。
「ようこそおいでくださいました、ファリア=バルディッシュ様。四大天侍の皆様方」
ファリア=バルディッシュ。
リョハンの戦女神と謳われる、当代最高峰の武装召喚師のひとり、だという。レオンガンドもよく知るファリア・ベルファリア=アスラリアの祖母であり、彼女の名前が、このファリア=バルディッシュから取られているのは知られた話だ。ファリア=バルディッシュのような武装召喚師になってほしいという願いが込められているのだろう。
ファリアがファリア=バルディッシュの領域に至るには、まだまだ修練を積む必要があるようだが。
レオンガンドは、ファリア=バルディッシュのやわらかな表情の中にファリアの面影を見出して、そんなことを思ったのだった。
ファリアはいま、クルセルクの戦場にいるはずだ。