第六百四十四話 魔王討滅策
大陸歴五百二年一月十六日。
ガンディア領土とクルセルク領土で激しい戦いが繰り広げられているちょうどそのころ、クルセルクの首都にして魔都クルセールに辿り着いたものがいた。
クルセールは、首都というだけあって城壁の分厚さと堅牢さは他の都市と比べ物にならないようだった。さすがの黒き矛でも一撃で貫くことなどできそうになく、魔都を攻略するには、一工夫もふた工夫もいるのではないかと思われた。もちろん、彼女がそんなことを心配する義理もなければ、必要もない。戦術や戦略など、軍師に任せておけばいいのだ。
彼女の役割は、もっと別のところにある。
(ここにも皇魔か。まったく、この国はどうなっているんだ? 魔王が皇魔を使役するというのは、本当の話なのか……?)
彼女は、開け放たれた南門の警備をしているらしい怪物の群れを遠目に見やり、息を潜めた。別段、物陰に隠れているわけでも、皇魔の視界から逃れているわけでもない。正々堂々、クルセールの南門に向かって歩いているのだ。だが、皇魔の視覚ですら彼女の姿を捉えることはできない。
なにものにも認識できなくなる能力――それがアーリアに発現した異能であり、彼女がこの任務に駆り出された理由でもある。
彼女の異能は、人間のみならず皇魔にも作用するのだ。皇魔の目に影も映らなければ、足音が聞こえることもない。臭いが鼻腔をくすぐるようなこともなければ、皇魔に彼女の接近を認識できるはずもないのだ。
アーリアは、警戒を怠らない皇魔たちの真横を擦り抜けるように歩きながら、リュウフブスと呼称される皇魔たちの横顔を見た。端正に整った顔立ちは、極めて人間の男に酷似しているのだが、人間の女がそれらに魅入られるようなことはなさそうだった。皇魔から滲み出るなにかが、人間の神経を逆撫でにするのだ。恐怖を喚起し、敵意を芽生えさせる。
それはアーリアであっても同じだ。皇魔に対する恐れは、五百年の長きに渡って醸成されたものなのだ。そう簡単に拭いきれるものではない。
任務中でさえなければ、アーリアはこの場で皇魔たちを殺戮することを躊躇いもしなかっただろう。
南門を潜り抜けて、クルセールへの潜入を果たした彼女は、視界に飛び込んできた異様な町並みに眉根を寄せた。
(これが……魔王の都)
南門から目的地の王城までは、大通りをまっすぐ進めばいいだけだ。道路は整備され、道沿いには人家や店舗といった建造物が立ち並んでおり、荘厳な王城が遥か先に聳えている。それだけならば、ほかの大都市と大きな違いはない。が、少し視線を上げれば、岩塊のような物体が浮遊しているのがわかる。そして視線を巡らせれば、異形の塔や奇妙な建造物が乱立しており、いびつな橋のようなものが魔都の上空を巡っている。
(魔都の名前通り、ね)
彼女は、嘆息とともに、人一人歩いていない大通りを進みだした。
「クルセルクが皇魔を使役するようになったのは、ユベルが王位を簒奪し、国王の座についてからだということまでは判明しています。以来、ユベルはみずからを魔王と名乗っている、ということですが、自嘲なのでしょうな。皇魔を使役する王など、魔王でしかない、と」
ナーレス=ラグナホルンがくだらない持論を披露したのは、年明け早々に開かれた軍議の場であった。ガンディオンの大会議場には、ガンディアの重臣が顔を揃えており、だれもが軍師のご高説に聞き入っているという風を装っていた。
「そんなことはどうでもよい。問題は、クルセルクとどう戦うか、ということではないのか?」
大将軍アルガザード・バロル=バルガザールが、好々爺然とした顔つきを崩さないながらも、厳しい口調でいった。
「もちろん、それが懸案事項なのは承知しておりますが、なにも、正面から衝突することだけが戦争ではないでしょう? それに数が数だ。正攻法で戦えば、我が方の被害はいや増すばかり。連合軍が結成され、正面から殴りあうだけの兵力を得たとはいえ、長期戦の可能性を考えると……」
「勧められない、と」
「ええ。もちろん、他に方法がないというのなら、戦術を駆使し、出来る限り損害のでないような戦いを心がけますが、皇魔の軍勢と真正面からぶつかり合うのは決して得策ではないでしょうね」
軍師は、度重なる軍議の場で、同じようなことを何度となくいっていた。どれだけ数を揃えたところで、皇魔の大群を相手にするという以上、不安を拭い去ることはできない。皇魔と戦ったことのある軍人だけでなく、非戦闘員である文官たちも、皇魔がいかに凶悪なのかは理解できている。獅子王宮に放たれた皇魔は、戦闘とは無縁だった人々にも恐怖を植え付けることに成功していた。
「では、どうするというのかね? 軍師殿」
「暗殺――」
「……なんだと?」
「魔王ユベルが皇魔を使役しているというのならば、魔王の息の根を止めることさえできれば、クルセルク軍が皇魔を運用することができなくなる可能性があります」
「なるほど、それが先の話につながるわけか」
「暗殺……暗殺か。あまり褒められた手段ではないな」
「陛下の仰りたいこともわかりますよ。古来、暗殺でことを成し遂げたものなど、そういるものではない。しかし、事情が事情です。手段を選んでいられる立場にはないのです、我々は。クルセルクが現在保有する皇魔は六万ほど。それだけでも手に余るというのに、増加する可能性も低くはない。いや、必ず増えるでしょう。先の戦いを考えればわかる」
「皇魔の供給を止めるためにも、魔王を討つしかない、か」
「しかし、どうやって暗殺するというのだ? そもそも、ユベルの居場所はわかっているのか?」
「ユベルは、クルセールの魔王城から動かないことが多い。暗殺する機会はいくらでもあるでしょう。ただし、クルセルクに充満する皇魔の警戒網を突破し、魔王城に潜入することができれば、の話ですが……」
「つまり、できない、ということではないのか?」
「できない、ということを議題にすることなどありませんよ」
ナーレスは微笑すると、レオンガンドを一瞥した。レオンガンドも、彼がなにを考えているのか理解していたらしく、即答した。
「アーリア、だな?」
「ええ。お願いできますでしょうか?」
「どうだ? アーリア」
レオンガンドに問われて、アーリアは初めて大会議場に姿を表した。文官の中には驚きの声を発するものもいたようだが、三将軍は顔色一つ変えなかった。予期していたところもあるのだろうが。
「はい?」
「君の異能ならば、皇魔にも、魔王にも見つかるまい?」
「おそらく……」
そのとき、アーリアが断言しなかったのは、ただひとり、彼女の異能が及ばない人間が存在することを思い出したからだ。
セツナ・ラーズ=エンジュール。
彼だけが、アーリアの存在理由を否定した。だから殺そうとしたのだが、それも失敗に終わった。彼はいまやガンディアに、レオンガンドにとってなくてはならない存在になってしまった。もはや殺すことなどできまい。いや、あのときですら、彼を手に掛けることなどできなかったのだ。あのころよりも強くなった彼は、アーリアにも手に負えない存在となっていても不思議ではなかった。
実際のところは、給仕に扮した女にさえ殺されかけるような、弱く脆い少年に過ぎないのだが。
「では、魔王の討滅は君に任せよう」
「討滅?」
「そう、討滅だ。暗殺ではないのだ、これは」
「なるほど」
アーリアは、レオンガンドの言いたいことを瞬時に理解した。彼は、ガンディアは常に公明正大でありたい、と考えているのだ。暗殺などという後ろめたい方法を使ったことが知れれば、悪い評判が立つだろうこと請け合いだ。ラインス一派さえ、レオンガンドの指示によって暗殺されたという噂が立ち、半ば真実のように言いふらされている。
もちろん、ラインス一派の所業を知るものにしてみれば、レオンガンドが手を下したことが事実であったとしても、なんの問題はないと思うだろう。が、だれもがそのようには受け取るまい。国民の心情を逆撫でにするようなことはしたくないのが、レオンガンドという男だった。
暗殺という言葉の響きは、あまりに暗い。
相手が魔王とはいえ、暗殺によって始末した、などという噂が流れるのは阻止したいのだろう。ナーレスは、そのことも予め留意していたに違いない。
軍議に列席した面々には、反レオンガンド派はおろか、中立派の人間さえいなかった。
魔都に入り込めさえすれば、魔王城まで辿り着くのは容易かった。
南門から北へまっすぐ進めばよく、寄り道する必要のないアーリアにとって、これほど楽なことはなかった。辛かったのは、ガンディアとクルセルクの国境を越えてからクルセールに至るまでの道中だ。皇魔が充満する大地。監視の目はそこかしこに光っている。アーリアだけならば見つかることはないのだが、国境からクルセールまで徒歩で辿り着こうとするには、日数が足りなすぎた。
昨年の内にクルセルク領に侵入していれば、徒歩であっても、余裕を持ってクルセールに到達することもできたのだろうが。
馬を使った。
国境を越えてしばらくの間は、馬に乗っていても、発見されることはなかった。しかし、リネンダールとゼノキス要塞のちょうど中間地点で、哨戒任務中らしい皇魔の小隊と遭遇。皇魔は、馬の様子を不審に思ったのか、いきなり襲いかかってきた。アーリアはもちろん応戦しなかった。馬は皇魔に殺されたが、皇魔が馬に襲いかかった隙に、アーリアはその場を脱出している。
そこからは徒歩でクルセールを目指した。体力には自信がある。異能だけでは、レオンガンドの影は務まらないのだ。
果たして、彼女は無事クルセールに辿り着き、魔王城の禍々しい城門をくぐり抜けることに成功した。
クルセールの城壁外に比べれば手薄な警備は、魔王城に侵入者が現れることなどない、という自信の現れに違いなかった。その自信は油断そのものであり、油断は、彼女の任務にとって有利に働いた。
魔王城の中には、皇魔の姿は少なく、むしろ人間のほうが多かった。文官らしき人間の姿が多い。アーリアはそういったひとびとの目の前を平然と歩いて行く。だれの目にも映らないのだ。隠れる必要もなかった。
魔王の居場所ではなく、寝所を探した。寝所に潜み、魔王が隙を見せるときを待つつもりだった。魔王は人間だという。人間ならば、夜になれば眠る必要がある。それは皇魔も同じだ。生物ならば、睡眠が必要不可欠だ。そして、眠っている時間ほど無防備な瞬間はない。
魔王は、屈強な護衛を連れ回しているに違いなく、その護衛が皇魔である可能性は限りなく高い。皇魔を使役することのできる人間が、脆弱な人間で護衛を固める道理はなかった。皇魔は、手強い。いかにアーリアといえども、気の抜くことなどできない相手だ。
そんな連中の中でも選りすぐりが、護衛になっているはずだ。つまり、不意討ちが失敗すれば、なにもかもおしまいなのだ。魔王の護りが堅くなる。クルセール中の皇魔が呼び集められれば、アーリアは逃げるしかなくなる。
アーリアの異能にも、弱点と呼べるものはあるのだ。攻撃の瞬間、彼女の異能は解かれ、すべてのものに認識されてしまう。攻撃さえやめれば、再び消えることは造作も無い。が、攻撃と消失を同時に行うことはできない。
(つまり、好機は一度)
魔王の寝所は、使用人たちの会話のおかげですぐにわかった。それから彼女は脇目もふらず、魔王の寝室に向かった。急ぎもしなければ、焦りもしない。どうせ、魔王の寝室に辿り着いたところで、すぐに行動を起こすわけではないのだ。
塔の階段を登り、魔王の寝室の前まで辿り着く。魔王の寝室の前には、皇魔リュウディースが二体、無表情で立っていた。警備なのだろう。
アーリアは、蒼白の魔女の整った顔立ちを見やりながら、ため息をつきたくなった。これでは、扉を開けて室内で潜入することはできそうになかった。そう思っていたのだが。
「なにも欲するものなどないんだ。俺には」
階下から声が聞こえてきたとき、アーリアは、緊張を覚えた。魔王の寝室を目指して塔を登ってくる人間など、魔王以外には考えられなかったからだが、リュウディースたちが畏まったのを見て、彼女は確信を抱いた。
魔王ユベル・レイ=クルセルクがもうすぐそこまで来ている。
(だが、なぜだ? まだ昼間だろうに)
アーリアの疑問は、魔王の生活周期を理解していないからだ、という自答で一応の決着を見るが、納得しきったわけではない。
「復讐だけ。ただそれだけさ。だから、時折苦しくなる。皆を巻き込んでまですることなのか、とな」
「でも、皆、ユベルには感謝している」
「そうかな? そうだと、いいんだけど」
「リュスカは、そう」
男と女の話し声は、もうすぐ側まで近づいてきていた。女の辿々しい話し方には苛立ちを禁じ得ないが、そんなことはどうでもいいくらいの緊張が、アーリアを襲っている。足音はふたつ。魔王と思しき男と、その護衛らしき女。人間の女を護衛にしているということになるが、だとすれば、ルクス=ヴェインほどの強者なのかもしれない。
やがて、魔王が階下から姿を表したとき、アーリアは息を呑んだ。魔王の容貌を目撃した瞬間、凄まじい衝撃が彼女の思考を真っ白に染め上げたのだ。黒髪黒目の若い男。ただそれだけならばなんの問題もない。問題なのは、顔の作りだった。生死をともにした少年によく似ていた。いや、似ている、というものではなかった。
彼そのものだったのだ。
(エレン、あなたが魔王だったというの!?)
アーリアは、愕然と、胸中で叫んだ。危うく絶叫するところだったが、それだけはなんとか堪えることができた。
同時に、魔王が皇魔を支配し、使役していることが事実だということを理解した。エレンはかつて、不能者の烙印を押された。失敗作、廃棄予定物とさえいわれたのは、外法機関が行った実験の中で、彼の異能はまったく発現しなかったからだ。
それもそのはずだった。
外法機関は非力で下衆な人間の集まりなのだ。
実験で皇魔を使うなど、できるはずがなかった。皇魔を使役する異能が、皇魔以外の実験物で発揮するはずがない。
彼は不能者などではなかった。失敗作などではなかったのだ。
皇魔を使役するなど、もっとも恐ろしい異能のひとつといっていいのではないだろうか。
(皇魔の使役がエレンの異能なら……魔王ユベルがエレンなら……魔王を討つことなどできない。できるはずがない……!)
アーリアは、すぐさまその場を離れた。階段を駆け下りながら、早急に連合軍、いや、ガンディア軍と合流することを考えた。
エレンを討てば、エレンを殺せば、確かに魔王の力、皇魔を支配する力は失われるだろう。だがそれは同時に、何万もの皇魔をクルセルクの地に解き放つということにほかならない。
支配から解き放たれた皇魔は、クルセルクの国民を殺戮するだろう。
レオンガンドは、そんなことを望みはしないはずだ。