第六百四十一話 天魔
空は青い。
滲んだような青さは、この世界が、本来あるべき場所ではないことを示している。彼らの故郷の空は、もっと、美しくあざやかな青さを湛えているというのだ。もちろん、この世界で生まれ育った彼にとってそれがどうのようなものなのか、理解することなどできるはずもない。
ただ、彼らの先祖が紡いできた言葉に嘘や偽りが混じっているとも思えなかった。五百年、語り継いできたのだ。どこかで脚色されたとしても不思議ではないが、空の色のあざやかさをねじ曲げる意味もあるまい。
空は、もっと青く、澄んでいたのだろう。
「故郷……ねえ」
寒風渦巻く空を泳ぐように揺蕩いながら、彼は、大君や兄弟が散々口にしてきた願いや望みを思い出して、一笑に付した。
だれもが、故郷への帰還を願っている。
それは、彼の種族だけの願いではない。この世界の住人が皇魔と総称する異世界存在のほとんどが、そう願い、望んでいる。中にはこの大地から人間を排除し、安寧を得ようと考えるものもいないではないが、大多数が本来あるべき世界へ帰りたがっている。
異世界に流れ着いて、五百年だ。
もう、この世界に根を張っているといっても間違いはなかった。人間や多種多様な動植物が生息する世界にも、なれたはずだ。相変わらず人間と見れば殺すしか能のない連中ばかりだが、それも、あるひとりの人間の出現で、変化が現れ始めていた。
その人間は、魔王と自称している。
皇魔を使うから魔王なのか、魔王と名乗るから皇魔を使っているのか。
どちらにせよ、人間の価値観や倫理、道徳からは大きく逸脱した人物であることに違いはない。
彼も、魔王に忠誠を誓う皇魔のひとりだ。
ウィレドと呼ばれる種族の戦士である彼は、いつからか将軍という地位を与えられ、魔天衆の筆頭という立場に立っていた。魔天衆は、陸上戦闘に特化した覇獄衆の対を成す、空中機動軍のことである。属するのは、ウィレドやベクロボス、シフといった飛行能力を持つ皇魔ばかりであり、その役割は空中からの強襲や覇獄衆の運搬のみならず、敵地への潜入と情報収集も行うことがあった。とはいえ、皇魔ができる情報収集などたかが知れている。上空から敵陣の様子を探る、というのが主な役目だった。
退屈な任務だったが、魔王に忠誠を誓っている以上、従うよりほかはなかった。魔王は、人間だ。脆弱極まりない生き物に過ぎない。彼ならば、頭を握りつぶして即死させることも容易だろう。彼だけではない。魔王の寵姫であるリュウディースの女王ですら、魔王を殺すことくらい簡単に出来てしまうはずだ。
逆に魔王は、ブリークのような雑魚さえ殺せないだろう。それが、人間と皇魔の力の差というものだ。通常、その力関係が逆転することなどありえない。皇魔が人間に心服することなどありえないのだ。
だが、彼は魔王には心から敬服していた。魔王ユベルのためならば、一族の裏切り者という汚名を着せられてもよかった。魔王の支配を受け入れている限り、彼は自分を見失わずに済んだ。自分を自覚することができた。荒ぶる魂を、抑えることができたのだ。
魔王ユベルは、彼らの心に安息と平穏を与えてくれる唯一無二の存在だった。
「つまりさ、いまの俺にとって大事なのは、故郷じゃなくて魔王陛下なわけ。わかる?」
彼は、自分の周囲を飛行する銀翼の皇魔たちに問いかけたが、シフたちは小首を傾げるだけで、なにも言い返しては来なかった。それもそのはずで、シフが人間の言葉を解するわけがなかった。彼は、自分が次第に人間社会に染まっていくのを感じていたが、それを止めようという気も起きなかった。魔王は人間なのだ。魔王の側にあり続けようと思うのならば、人間らしさを得ていく必要がある。リュスカの立ち位置を得ることは不可能だが、彼女とは別の居場所は見つけられるかもしれない。
そんなことを思いながら、彼は眼下に視線を落とした。もう随分長い間、ガンディア王国領土の上空を流れている。頭上には雲海があり、地上からは彼らの存在など認識できないだろう。できたとしても鳥が飛んでいるとしか思うまい。シフは、銀色の猛禽にしか見えなかったし、ウィレドの彼にしたって、遠目から見れば鳥のように見えるはずだった。
遥か眼下には、ガンディア王国領ザルワーン地方が広がっている。クルセルクの南西に位置する地方は、数カ月前までザルワーンという強国の領土だった。ザルワーンはガンディアとの戦争に敗れ、その領土の大半をガンディアに奪われてしまったということだ。
人間という生き物は、領土を奪い合うことで歴史を積み重ねてきた、らしい。剣を交え、命を散らし、無意味に、無駄に、闘争を繰り返している、らしい。それが人間という生き物のサガであると、魔王はいい、師も笑った。
師は、ザルワーンの人間として、ガンディアと戦った人物だった。師は、ザルワーンがガンディアに敗れた後、魔王と出逢い、傘下に入ったということだ。彼にとって、魔王と師は、特別な人間だった。魔王は、彼の心に安息をもたらし、師は、彼の体に強大な力をもたらした。
武装召喚術の体得。
鋭敏化した五感が、遥か地上の情景を彼の目に焼き付けていく。
「……敗けるなあ、こりゃ」
彼は、一目見て、ザルワーン方面での戦闘の趨勢を理解した。
クルセルクとの国境にほど近い位置にマルウェールという都市がある。その都市には、最低限の防衛戦力しか配備されておらず、彼の師は、これをガンディア及び反クルセルク連合軍の策と見た。その上で、戦力を過剰に投入した。それが、この戦争の始まりだった。
クルセルクがガンディア及び連合軍と戦争することになったきっかけはもっと別のところにあったのだが、それはどうでもいいことだ。ともかく、開戦の火蓋を切ったのは、覇獄衆を主力としたクルセルク軍のマルウェールへの攻撃だった。
師は、マルウェールを速攻で落とせなかった場合、軍勢をふたつに分けることにしていた。半数はマルウェール攻囲軍としてその場に止め、半数は、マルウェールから南西に位置する都市スルークとゼオルの攻略に向かわせるつもりだった。二都市の攻略が終われば、さらに南下し、ナグラシアからマイラムへ至る予定だったのだ。戦力は、その道中に増えるだろう。反魔王を掲げた四カ国連合を征討したときと同じように、各地の皇魔を糾合していけばいい。皇魔は、この大陸のどこにでも隠れ住んでいる。
連合軍の策を物量で押し潰し、その余勢を駆ってガンディアの王都まで攻めこむつもりだったのだ。、が、どうやら師の思惑通りには事は運ばなかったようだった。
ザルワーンの大地で繰り広げられているのは、人間と皇魔の戦いである。人間とはつまりガンディアを始めとする複数の国家からなる連合軍に属するものたちであり、皇魔とは、魔王ユベルに付き従うものたちのことだ。
三万に及ぶ皇魔が、マルウェールに差し向けられた。その半数が、マルウェールの攻囲に当たり、残りの半数がガンディア領土を制圧するために別働隊として動いた。常識的に考えれば、皇魔が一万五千体もいれば、ガンディアを滅ぼすことなど容易いことだ。ガンディアがどれだけ武装召喚師を揃えていようと、こちらにも武装召喚術を会得した戦士たちが多数いるのだ。人間と皇魔の生まれながらの能力差は、如何ともし難いものがある。
ザルワーン方面に集められた戦力など一蹴し、瞬く間にゼオル、スルークを攻め落とすだろうと、彼も思っていた。
だが、人間は、思った以上に粘った。
別働隊一万五千を多少上回る兵数で包囲戦を展開した連合軍は、彼が見ている前で、大いに健闘して見せた。押されたのだ。皇魔と人間の能力差を無視した戦局に、彼は、マルウェールの戦力をさらに割き、別働隊と合流させた。
連合軍の包囲網を打ち破り、合流した別働隊の戦力は、敵を大きく上回った。ようやく、クルセルク軍が勢いに乗ることができた。数も質もこちらが上。ザルワーン方面の制圧は時間の問題だろう――そう思った矢先だった。
戦場に異変が起きた。
皇魔の群れの中心で大爆発が発生したかと思うと、どこからともなく降ってきた五人の人間によって、二万もの軍勢が蹂躙され始めたのだ。
蹂躙、である。
圧倒的かつ絶大な力を持った五人の人間は、明らかに武装召喚師であり、それも飛び抜けて強力な召喚武装の使い手に違いなかった。
彼の目は、五人の武装召喚師が、大小無数の皇魔をつぎつぎと屠り、蹴散らし、薙ぎ払っていく惨状を見ていた。金色の巨拳が皇魔の小隊を押し潰せば、吹き荒れる吹雪が鬼どもを氷漬けにし、氷像を純白の光が吹き飛ばしていく。爆炎が舞い上がり、暴風が渦巻き、雷光の帯が皇魔たちを薙ぎ倒す。巨獣を一刀の元に切り捨てたのは、皇魔である彼の目にも老齢だとわかる人間の女であり、彼は驚嘆するしかなかった。
不意に、その老女の目が、こちらを捉えた。隣に立っていた女が両手を振りかざす。
「冗談だろ!?」
彼は、女の両手の先に球状の光が生まれるのを目撃したとき、全力で後退した。直後、純白の光芒が彼の視界を塗り潰し、数体のシフを蒸発させた。反応がわずかでも遅れていたら、自分もただでは済まなかっただろう。
人間に恐れを抱いたのは、これが初めてのことだった。
再び地上に視線を戻す。光線を発射した女がその場にへたり込んでいたが、老女の姿は掻き消えていた。女の周囲に生きている皇魔の姿はない。
様々な皇魔の亡骸ばかりが、武装召喚師たちの周囲の地面を埋め尽くしていた。