第六百三十九話 黒禍(三)
獣姫率いるアバード突撃軍が、ランシードを防衛する皇魔の軍勢と戦闘状態に入ってからどれほどの時間が経過したのだろうか。
都市攻略のために戦力を分散したアバード突撃軍は、数の上でも、質の上でも、皇魔の軍勢に大きく劣っていた。それでも、獣姫ことシーラ・レーウェ=アバードを始め、アバードの武装召喚師セレネ=シドール、そして彼が手配した武装召喚師たちの活躍もあり、戦況は五分のまま推移した。弓聖サラン=キルクレイドも数多の皇魔を討ち取ったし、獣姫の侍女たちも負傷しながらも健闘した。
が、時間経過とともにアバード突撃軍が窮地に立たされる場面が見え始め、小隊がつぎつぎと壊滅していった。皇魔が勢いに乗ると、手が付けられなくなる。アバード突撃軍は劣勢に陥った。
そもそも、物量で勝る皇魔の群れに正面から戦いを挑むなど、馬鹿げたことだ。ランシードを制圧するための策に過ぎず、ランシードが連合軍の手に落ちた以上、皇魔の殲滅に拘って戦う必要などはないのだ。そして、戦闘狂のシーラも、この戦いの勝敗には拘ってはいなかった。目先の勝利よりも、目標の達成に、彼女の目は向けられている。
目標とは、クルセルクの魔王ユベル・レイ=クルセルクの討伐であり、皇魔という脅威の排除である。皇魔を支配する魔王さえ討てばいい、と、彼女を始め、連合軍首脳陣は捉えている。魔王あってのクルセルクなのだ。魔王さえいなくなれば、現体制は崩壊し、皇魔の脅威は立ち消えるだろう。
皇魔を殲滅する必要はない、というのはそういうことだ。
魔王さえ倒すことができれば、それでいい。
(だが、その前に敗走しちゃあ意味がないな)
シーラは、肩で息をしながら、リュウディースを睨んだ。青ざめた女の姿をした化け物は、紫電を帯びた槍を手にしている。どうやらリュウディースの能力で帯電しているわけではなく、召喚武装の槍らしい。妖艶な美女を思わせる容姿は、皇魔が様々な生物の総称であることを再確認させた。人間の容姿も多様だが、顔面に四つの眼孔を持つ化け物と、性的魅力に満ちた女のような多様性はない。同じ種族に、そのような多様性は生まれ得ないのではないか。
彼らは、聖皇の召喚に引き摺られたために、ひとくくりにされてしまった。
聖皇の魔性――皇魔。
不意に、リュウディースが動いた。手首を回して、槍を回転させたのだ。穂先に纏い付いた電光が輪を描いたかと思うと、激突音とともに火花が散った。矢が、皇魔のすらりと伸びた足元に落ちる。リュウディースが笑みを浮かべるが、その眼孔から赤い光が漏れるだけの目は、とても魅力的には見えない。
「遅イ」
リュウディースが、ひとの言葉を発したのは、これが初めてではない。皇魔は丁寧にも自己紹介までしてきたのだ。女王親衛の一、ルー・ルスカというらしい。リュウディースの生態について詳しくは知らないが、女のみというリュウディースのことだ。女王とはリュウディースの支配者のことで、女王親衛も、その支配者の側近や護衛という意味だろう。
その肩書に違わぬ実力を、皇魔は持っている。
さらに数度、ルー・ルスカは、ごくわずかな動作で、多方向から飛来する矢を叩き落としてみせた。召喚武装による五感の強化は、皇魔をとてつもなく凶悪なものにしてしまっているのだ。
シーラは、ルー・ルスカと一進一退の攻防を続けていた。そのため、味方部隊の状態を把握しながら、救援に向かうこともできなかった。敗色濃厚とはいえないものの、押されているのは間違いない。サランは、ランシード制圧部隊に合流を指示したということだが、それで状況が改善されるかは微妙なところだ。
アバード突撃軍の主戦力は、この戦場に出揃っている。アバードの獣姫、イシカの弓聖、武装召喚師たち。通常ならば、人間が相手ならば、十分すぎるほどの戦力だ。倍する兵力にも余裕で打ち勝つことができるのではないかと思えるほどの戦力。
その戦力の四分の一が削られている。地に伏した将兵の大半は、物言わぬ亡骸となっているだろう。何人死んだのだろうか。その死体と成り果てた将兵は、アバードの軍人ばかりだ。シーラもよく知っているものもいるようだ。なんども声をかけたものもいた。みんな、気のいい連中だった。
貧乏くじを引いた、などとは思うまい。
ランシードに突入するのも、賭けではあったのだ。都市内に皇魔がいないとも限らなかった。城壁外にのみ配置されている、などはいいきれないのだ。
イシカの部隊が全滅していてもおかしくはなかった、ということだ。
だから、シーラは、サランを恨みはしないし、むしろ尊敬する。彼は、自分の部下たちを平然と死地に送り込むことができる男なのだ。そして、みずからも死地に飛び込んでいる。
左後方、剛弓を構える男の姿を、シーラは、召喚武装とキャッツアイの超感覚で認識していた。その表情が拝めないことだけが残念だった。
「甘く見過ぎたな」
「そうダ、我らを甘く見過ぎたのダ。だから死ヌ」
「違ぇよ」
「なニ?」
ルー・ルスカが表情を歪めたのを認めて、シーラは、不敵に笑った。
「てめえらが甘く見過ぎだっていってんだよ」
地を蹴る。ルー・ルスカの槍が閃く。切っ先がこちらに向いた。電光が膨張した。穂先に矢が直撃した。切っ先があらぬ方向に向いた。雷光の奔流がシーラの網膜を灼いた。手応えが、両手から全身に伝播する。ハートオブビーストがルー・ルスカの腹を貫いたのだ。
「いや、甘いのは貴様ダ」
「どうだか」
シーラは、適当に言い返しながら、皇魔の肉体に衝撃が走ったのを認めた。断末魔は聞こえなかったものの、喉から空気が抜ける音は、聞き届けた。リュウディースの肉体から力が抜けていく。彼女は、槍を抜くと、皇魔の亡骸がくずおれるのを見届けた。皇魔の側頭部に特大の矢が突き刺さっている。
「中々いい連携だったぜ、じいさん」
シーラは、弓聖を振り返って、槍を掲げた。サランが、剛弓を軽々と持ち上げてみせた。やはり、サランの意図した通りの展開だったようだ。
(さすがは弓聖といったところか……)
ふう、と息を吐いて、彼女は戦線に復帰するべく周囲を見回そうとして、すぐさまその場を飛び離れた。轟音と衝撃が地面を震わせる。目を向ける。視界に、リュウディースの死体が舞い上がっていた。その手から雷の槍が零れ落ち、なにものかが掴み取る。槍を掴み取ったものこそ、シーラが飛び退かざるを得なくなった正体だった。
成人男性の二倍ほどの巨躯を誇るレスベルが、空から降ってきたのだ。左手に燃え盛る鎚を持っているところを見ると、その赤鬼も武装召喚術を行使するということだろうが、召喚武装を持っていなくとも十分な戦闘力を持っていそうな巨大さは、ただただ周囲を圧倒した。レスベルは、中型に分類される皇魔だ。それでも二メートルから三メートルの巨躯なのだが、目の前に降ってきた鬼は、レスベルの常識を覆した。
「はっはーっ! リュウディースの雑魚がよぉ! 柄にもなくでしゃばるから死ぬんだよなあ!」
巨大な赤鬼は、右手に雷の槍を軽く振り回すと、大気が震えるほどの大声で言い放った。サランの矢がレスベルに迫るも、ルー・ルスカのように無駄のない動作で容易く撃ち落とされる。レスベルの両目がぎらぎらと輝いた。その目は、シーラの槍を見ている。
「両手に召喚武装で力も二倍! おまえを殺せば、さらに倍ってわけだなあっ!」
赤鬼の巨大な足が、リュウディースの死体ごと地面を踏み締めた。シーラは、距離を取ろうとした。ルー・ルスカとの戦闘で消耗しすぎている。そんな状態で戦える相手ではないと判断した。それがまずかったのだろう。気がついたときには、赤鬼の巨躯が目の前にあった。
「うらあっ!」
炎の鎚が頭上から降ってきた。凄まじい熱量に、全身から汗が吹き出す。死は、いつだって覚悟していた。呆気無く死ぬことだって、あるだろう。彼女は、せめて一矢報いるためだけに槍を突き出した。熱気が、髪を焼き、皮膚を溶かす――錯覚。
「うがああああああああああああ!」
レスベルが、悲鳴を上げながら、怒気を撒き散らした理由は、即座にはわからなかった。わかるはずもなかった。
シーラは、レスベルの巨体が吹き飛ばされていくのを呆然と見ていた。左腕が血を吹き出しながら空中を舞い、炎の鎚が熱を失う瞬間も、見届けた。鬼が踏み止まって転倒を阻止し、雷の槍を振りかぶるのも、見た。
「貴様あっ! ぶっ殺すぅうううううう!」
そして、鬼の視線の先に、漆黒の戦士が突っ立っているのを認識する。
「皇魔って、案外おしゃべりなんだな」
黒き矛のセツナは、そんなことをいった。
「断末魔しか思い出せないんだが」
彼の姿が、シーラの視界から消えた直後、レスベルの巨躯から首が切り離されていた。切り口から鮮血が噴き出すと、セツナの姿は掻き消えていた。
「血を媒介とする空間転移……黒き矛の能力のひとつ、ですかねえ」
セレネ=シドールの自信のなさげな解説を聞きながら、シーラは、手で額を拭った。汗が流れている。レスベルの鎚は、凄まじい熱量を発していたのだ。触れる前に溶けるかもしれないほどの熱量。直撃していれば、死んでいたのは疑いようがない。
鼓動が、早い。
シーラは、拳を握りしめて、顔を上げた。
「これが……恋!?」
網膜には、黒き矛のセツナの、物憂げな表情が焼き付いている。竜を模した兜の隙間から覗く、赤い瞳。それもこれも、召喚武装を手にしているものの特権といってもいいだろう。常人の視力では、決して見ることのできないものだ。
「あの、姫さま、大丈夫ですか?」
「うん、だいじょうぶ!」
「いや、頭の方……」
「いくらセンセでも、いっていいことと悪いことがあるぜ?」
シーラは、セレネを振り返って、意地悪に睨んだ。気の弱そうな武装召喚師は慌てて視線を逸らすと、すぐさま味方の救援に向かった。
「ガンディアに手向かえばああなる、といういい見本ですな」
サラン=キルクレイドが、シーラに近寄ってくるなり、囁くようにいった。彼は、巨大なレスベルの亡骸に目を向けている。圧倒的な力を持つ皇魔ですら、黒き矛の前では赤子同然に処理されたのだ。サランが愚痴りたくなるのも、わからなくはない。
「メレドの動きに同調しておいてよかった。ガンディアとて、片方の言い分だけを聞く、などということはないでしょうし」
「……ガンディアとは同盟を結ぶべきだ、とでも、陛下に申し上げておくかな」
シーラは、サランに同意すると、侍女たちに槍と鎚の回収を命じた。
そんな中、遠方から皇魔の断末魔が聞こえてくる。
黒い嵐が、ランシードの戦場に巻き起こっていた。
殺戮と混沌を撒き散らす漆黒の暴風。
「うん、それが正解だな」
たったひとりで、劣勢の戦場を塗り替えていく武装召喚師の存在は、脅威以外のなにものでもなかった。