第六十三話 雷火、激しく
「カインの調べでは、ここの連中に長期戦の構えはないらしい。後続の部隊があるかまではわからなかったが、少なくともラナディース将軍の討伐を目的とした軍勢ではあるようだ」
セツナは、ラクサスの話を聞きながら窓の外を覗いていた。セツナたちの部屋があるのは建物の三階であり、暗闇に慣れた眼は、ある程度の距離までなら見渡すことができた。夜空は厚い雲によって閉ざされ、月明かりも星々の輝きも地上を照らすことはかなわなかった。
月光の代わりに天より降り注ぐのは、大雨である。
朝方から降り続けていた雨は、時とともにその勢いを増し、いまや豪雨といっても過言ではないくらいになっていた。時折、雲の狭間に閃光が走り、雷鳴が天地を揺るがせるほどに響いた。雷雨。雨脚は、未だに強くなり続けている。
一瞬の雷光が夜の闇に浮かべるのは、眼下の道路という道路を埋め尽くす甲冑の群れであり、それらの鎧が稲光を反射して輝く恐ろしい光景だった。何十人、何百人では済まない数の武装した兵士が、セツナたちの宿舎を十重二十重に包囲している。
「……うわお」
おどけたようにいってみたものの、セツナは、驚きのあまり半ば思考停止に陥ろうとしていた。なんという数なのだろう。恐怖が、セツナの表情から血の気を奪う。初陣において六千という軍勢と対峙した記憶は、色褪せることなくセツナの脳裏に焼きついていたが、しかし状況が違った。晴れ渡った空の下で正面からぶつかり合った軍勢と、夜の闇に紛れるようにして蠢く無数の敵とでは、感じる怖さがまったく異なっていた。
静かに、ゆっくりと、その包囲陣を完成へと近づけていく敵軍の様子は、得体の知れぬ恐怖となってセツナの意識を締め上げていく。
「未だに攻め寄せてこないところを見ると、我々を捕縛するつもりのようだな。あちらにしてみれば、我々の正体が気になるのだろう」
「で、どうすんです?」
「当然、逃げるさ。捕まるわけにはいかない」
「でも、どうやって……?」
「なんとしてでも」
ラクサスの要領を得ない言葉に、セツナは半眼で彼を見た。闇に慣れた眼は、影に浮かぶラクサスの輪郭を捉えている。鎧を着込み、剣を携えた騎士の輪郭。勇ましく堂々としたものだった。その輪郭さえも頼もしいのだ。
セツナは、不安が多少なりとも薄れたことを認めたものの、皮肉を口にせざるを得なかった。
「行き当たりばったりってことですか?」
もっとも、ラクサスは取り合ってもくれなかったが。
「カインには、オリスンとともに馬車の確保に向かってもらった。逃げ切るには足が必要だからな」
「ふたりだけで、だいじょうぶなんですか?」
「心配すべきはこちらのほうだろう? 彼は自由だ」
「ああ……」
セツナは、ラクサスの台詞に納得した。ランカインの顔が脳裏を過ぎる。鎖を外されて、己が本能の赴くままに暴れ回る狂気の殺戮者を幻視する。闘争と破壊の権化たるあの男を自由にさせるなどあってはならないことのように思えるのだが、かといってセツナに彼の代わりが務まるはずもなければ、ラクサスに行かれるとセツナが困るのだ。
ランカインとふたりで行動するのは、考えるだけでも嫌だった。
「当面は、君とわたしのふたりだけさ。心許ないな」
「ははは……」
ラクサスの嘆息するような言葉には、セツナも同意せざるを得ない。例え鎧を着込み、剣を帯びても、それだけで心強く感じられるはずがなかった。
敵の数は圧倒的であり、セツナは、黒き矛に頼ってはならないという条件がある。黒き矛の使い手がログナー国内に潜入していることが露見すれば、ガンディアがどういう目に遭うかわかったものではないのだ。無論、ガンディア軍もそう簡単に敗れはしないだろう。ログナーも手を出せる状況にはない。
しかし、万が一ということもある。
黒き矛の不在を伝え聞いたどこかの国が、ガンディアに攻め寄せないとも限らないのだ。わずかな可能性すらも排除しなければならない。
セツナは、そのために剣を握るのだ。体調は万全。右足の怪我もほとんど治りかけている。戦闘に支障がないほどには。
「だが、この程度、窮地ですらない。我々の真の目的地は王都マイラム。兵力も警戒も、ここの比ではないと考えるべきだ」
「こんなことくらいで弱音を吐いてちゃ駄目ってことですね」
「その通り」
ラクサスが、窓の外を覗いた。雷光とともに物凄まじい轟音が鳴り響き、宿舎が激しく揺れた。どこか近くに雷でも落ちたのかもしれなかった。
「さて。そろそろだな」
「はい?」
「ふたりが行動しやすいよう、目立たなくてはならない。ニーウェ、君の矛の力を借りよう」
「へ?」
ラクサスの予期せぬ言葉に、セツナは我ながら間の抜けた顔になったことを自覚した。
「君に聞いた話が本当なら、炎を吐き出せるのだろう? あの夜吸い込んだ炎のすべてを」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「エメリオンとロクサリアは無事でしょうか」
「あの二頭はだれが見ても欲しがるほど優秀な馬だ。危害を加えるどころか、丁重に扱っていると見ていい。俺たちへの殺害許可は出ているかもしれないがな」
ランカインは、笑みをこぼした。血が滾っている。昂揚する意識が、全身のあらゆる感覚を肥大させ、さらに尖鋭化していく。重苦しい夜の闇も、凍てつくような風雨も、まばゆいばかりの雷光さえも、彼にとっては歓迎すべき事象だった。
ランカインとオリスンのふたりは、宿舎の外にいた。宿舎の北側の塀に隠れるようにしていた。数多に降り注ぐ大雨の中、傘もレインコートも身に付けず、寒さに体を震わせながら時が来るのを待っている。
息を潜めていると、塀の外を埋め尽くす兵士たちの靴音や、鎧が立てる金属音が、雨音の狭間に聞こえることがあった。兵士たちは、愚痴ひとつこぼさず、粛々と、この宿舎の包囲を完全なものへと近づけようとしていた。宿舎近辺の通りという通りを兵士で埋め尽くし、どこにも逃げ出せないようにするつもりなのだろう。
「はあ……」
「ふふ。こういうときは笑うものだ。楽しかろう? 生きるか死ぬかの瀬戸際。己の命の価値が試されているのだからな」
バルガザール家所有の二頭の馬は、一行が宿舎として与えられた建物の北にある馬小屋に繋ぎ止められているはずだった。幌馬車もそこで保管されているというのだが、実際はどうなのかわからない。馬のほうは、オリスンが日没まで面倒を見ていたこともあって、ほぼ確実にそこにいるだろうということだった。
最悪、馬車は放置せざるを得ないかもしれない。そうなった場合、二頭の馬に四人で分乗することになるのだが、エメリオンとロクサリアならば、大人ふたりくらい背に乗せることは容易いだろう。オリスンは反対するかもしれないが。
ランカインは、手にした得物を見下ろした。斧頭に竜の頭部を模した装飾のある派手な手斧である。地竜父といった。火竜娘と同じく彼の召喚武装であり、地竜父は大地を司る力を秘めていた。地震を起こし、地中の岩石を隆起させるといった小規模な災害にも等しいことができた。
これを使えば、宿舎を包囲する何百人というザルワーンの兵士と戦うこともできるだろう。しかし、それでは意味がない。無駄に命を散らすだけだ。多勢に無勢。相手は統率の取れた軍隊だ。しかも音に聞く猛将グレイ=バルゼルグ率いる精鋭部隊なのだ。野盗や皇魔とはわけが違う。
最初こそ、ランカインが優勢になるかもしれない。地竜父による地震攻撃は、奇襲に最適だろう。だが、その状況がいつまでも続くわけがなかった。
いずれ、押される。
(さあ、どうする?)
そんなことは決まりきっていた。こんなところで大軍相手に喧嘩を売る必要はないのだ。逃げてしまえばいい。投降など以ての外であり、そして闘争もまた愚の骨頂だった。逃げることこそが、いまのランカインたちにとって最良の選択なのだ。
そのためには足が必要だった。レコンダールの都市を駆け抜け、追撃部隊を振り切るだけの速度を持った足――馬が。
不意に、ランカインたちの背後で大きな音がした。天を割く雷鳴よりは小さく、兵士たちの足音より遥かに巨大な破壊音。なにが破壊されたのかはわからないが、それが宿舎に残ったふたりからの合図であることは間違いなかった。
熱風が、宿舎を振り返ろうとするランカインの頬を撫でた。塀の向こう側から兵士たちのどよめきが聞こえてきた。直後、彼の視界を紅蓮の炎が覆った。宿舎の中から噴き出した深紅の猛火は、三階建ての建築物を瞬く間に飲み込んでいった。一瞬にして巨大な火柱が聳え立ち、宿舎の周囲は騒然となった。包囲陣が乱れたのか、怒号や罵声が響く。
激しい雨の中、炎の勢いは増すばかりだ。
「これは……」
「行くぞ」
ランカインは、炎と燃える宿舎に笑みを投げかけると、即座にオリスンを促した。宿舎の四方を囲う塀の外で兵士たちが慌しく動くのが想像できる。彼らは相当焦ったのだろう。宿舎の南側にある正門に人員を集め、強引に門を突破することにしたようだった。
その慌てっぷりを見る限り、彼らの目的がラクサスたちの確保だという予想はあながち間違っていなかったようだ。
ランカインは口の端に笑みを浮かべると、塀の傍の木を攀じ登ると、太目の枝を伝うようにして塀に取り付いた。外を見遣ると、案の定、兵士たちの注意は紅蓮の宿舎へと集中している上、北側の兵士は少なくなっていた。
ランカインは用意していたロープの端をオリスンに投げて寄越すと、彼がロープを伝って登ってくるのを待った。北側の監視が弱まっている今が好機だった。馬小屋へと駆け込み、馬を奪取するのだ。馬車に関しては、そのときの状況によるとしか考えられなかったが。
「で……ここからどうするんですか?」
なんとか塀の上まで辿り着いたといった様子のオリスンに対して、ランカインは、ただ微笑を浮かべた。狂ったような鮮烈な微笑み。
「飛ぶのさ」
ランカインは、左腕をオリスンの腰に回すと、彼が驚くのも構わずに跳躍した。背後からの熱波が彼の飛躍を軽やかなものにする。それは気の所為ではない。燃え盛る紅蓮の炎が、ランカインの肉体を活性化させていた。視野は広がり、闇に蠢くすべてが見えた。路上の兵士たちのうち数名がこちらに気づいた。ランカインは喜んだ。精鋭中の精鋭ならば、そうでなくては――。
ランカインは、着地と同時にオリスンを手離すと、即座に手斧を地面に叩きつけた。兵士たちが殺到してくるより遥かに速く。
「玄層息吹」
地竜父の秘められた力が解放され、周囲十数メートルの大地が震え出す。激しく、切なく、強烈に。
さすがの精兵たちも、突然の地震には為す術もなかったのだろう。転倒するものは多く、元より不完全極まりなかった陣形は無残なほどに崩壊した。そしてその陣形の綻びの中に逃走経路を見出して、ランカインは、背後を一瞥した。地震によって転倒したのは敵だけではない。オリスンもまた、ずぶ濡れの地面に這い蹲っていた。
「な、なんだ!?」
「なにが起きたんだ!」
「武装召喚師だ! 武装召喚師に違いない!」
「確保しろ! その男たちも奴らの仲間だ!」
口々に喚く兵士たちを尻目に、ランカインはオリスンを立ち上がらせた。地竜父の力による地震は、既に微弱なものへとなりつつあった。ザルワーンの兵士たちが驚き慄く様を眺めている暇はなかった。急がなければならない。陣形を立て直されれば、それこそすべてが無駄となる。ラクサスたちの陽動も、ランカインたちの行動も、水泡と化すのだ。
「行くぞ」
「は、はい」
ランカインは、オリスンの返事を待たずに駆け出していた。揺れは収まり、周囲の兵士たちが立ち直ろうとしている。が、それらには一瞥もくれることなく、ランカインは己の網膜に焼きついた逃走経路のみを見ていた。オリスンの速度は気になるものの、速度を落として道を失うわけにもいかない。
「待てええええいっ!」
雨音さえ掻き消すほどの叫び声とともに、ひとりの兵士がランカインの視界に飛び込んできた。骨董品のような甲冑を身に付け、大身の槍を携えた男。声からして若くはない。
ランカインはその甲冑には見覚えがあったが、特に気にも留めなかった。すぐに思い出せないということは、ランカインにとって重要な人物ではないということに違いなかった。
「よくも謀りおったな! アーレス殿下の御志を汚した罪、万死に値するっ!」
「言葉だけでは狗も殺せんよ」
ランカインは冷笑した。男の存在をまったく気にせずに前進を続けていた。宿舎の近辺。調査の間に地形の把握は済ませている。宿舎の北に面した大きな通りの向こう側に目的の馬小屋がある。距離というほどのものもない。
「貴様!」
男の怒気を孕んだ大声は、耳障り以外のなにものでもなかった。まるで子犬がきゃんきゃんと泣き喚いているようで不愉快極まりなかった。
ランカインは、兜に隠れがちの男の眼を覗き見た。怒り狂う老人の瞳はあまりにも透明であり、そこに一切の不純物は見当たらない。主君への忠誠のみで立っているような男なのだろう。それ自体は素晴らしいことかもしれない。しかし、ランカインには理解のできない生き方には違いなかった。
彼は、男の眼を見据えた。問う。
「死ぬか?」
「ひっ……!」
ランカインの眼になにを見たのか――男が腰を抜かして動きを止めた瞬間、ランカインは、その男の目の前を擦り抜けるように通過した。後続のオリスンを気にしながら、速度を上げる。地鳴りは収まり、周囲の兵士が次々と体勢を立て直す。
が、時既に遅く、ランカインは馬小屋の手前に到達していた。雷光が、闇の中に馬小屋群を浮かび上がらせる。ザルワーン軍によって接収されたその施設は、バルゼルグ将軍旗下の部隊が用いる軍馬によって占領されているといっても過言ではない。バルガザール家所有の二頭の馬――エメリオンとロクサリアもその中に紛れているのだろうが。
ランカインは、オリスンの無事を気配と足音で把握すると、後方から迫り来る兵士たちの数に口を歪めた。心音が高鳴る。打ち付ける豪雨と雷鳴と軍靴の旋律が、彼の心を昂ぶらせていく。足を止めた。背後へと向き直る。眼前に物凄い形相のオリスン、その後方から十数人の兵士たちが追ってくるのが見えた。
彼は、地竜父を軽く構えると、オリスンに聞こえるように告げた。
「先に行け」
「は、はい!」
ランカインは、オリスンの返事を待たずして手斧を振り被った。オリスンが驚きながらもランカインの横を通り抜けていく。ザルワーンの精兵たちが、吹き荒ぶ雨風の中を突き進んでくる。精鋭中の精鋭。猛将グレイ=バルゼルグによって鍛え上げられたザルワーン最強の部隊。
心が躍った。
彼は、己の運命に感謝したい気分だった。ザルワーンに所属していたころは、バルゼルグ将軍の部隊と交戦するなど考えられないことだった。
とはいえ、闘争を楽しむことは許されない。優先すべきは任務の遂行であり、そのためにはこの包囲網から脱出しなければならないのだ。
王命こそが、今の彼のすべてだった。
ランカインは、地竜父を足元の地面に叩きつけた。道路を砕く必要はない。ただ、地竜父の力を大地に伝えればよかった。地竜父に秘められたもうひとつの力。
彼は、告げた。
「黒色岩舞」
地竜父が吼えた。手斧の刃から生じた力が、波紋となって水浸しの地面を走る。大地が揺れ、水飛沫が上がった。敵兵の雄叫びが聞こえた。わずかな震動では、もはや兵士たちは動じないのかもしれない。ランカインは、嬉々とした。
さすがはバルゼルグ将軍が手塩にかけて育て上げた兵士たち。どのような事態にも即座に対応し、打開するよう訓練されているのだろう。
(いいな。素晴らしい。素敵だ)
バルゼルグ将軍の仕事振りとそれに応えている兵士たちを賛美しながら、ランカインは立ち上がった。敵兵の群れに背を向ける。
「虚仮威しだ! かかれえっ!」
「おおおおっ!」
兵士たちの威勢の良さが、彼には眩しく感じられた。背後から殺到してくる無数の敵意も、いつになく心地良い。しかしそれもすぐに終わる。夢のような一時。堪能することは叶わない。
再び、地震が起きたのだ。さっきよるも激しい揺れと轟音は、地中より無数の岩石が隆起してくるという証だった。それが、ランカインが《黒色岩舞》と名づけた地竜父の力である。
悲鳴が上がった。次々と噴出する大小無数の岩石が敵兵の群れを瞬く間に打ちのめし、無力化していったのだろう。振り返って確認するまでもない。ただの人間では、広範囲に渡って作用する力を避けきることなどできない。万が一、岩石を避けたものがいたとしても、岩石群に阻まれて接近もままならないはずだ。
周辺の街並みが大きく変わってしまっただろうが、気にする必要はない。
ランカインは、馬小屋に向かったオリスンを追いかけた。
直後。
「なんといいますか、武装召喚師って敵に回したくないですなあ」
「おまえか」
前方に佇む男を一瞥しても、ランカインは足を止めなかった。ブロード・ソードを構える男は、こちらの反応に対して冷ややかに目を細めたようだったが。
男の名は、リューグ。野盗集団《銅の鍵》の一員であり、くだらない冗談やつまらないことばかり口にする男。
彼は、剣の切っ先をこちらに突きつけてきた。鋭い剣気がランカインの頬を撫でる。ランカインは笑った。強い相手だ。刃を交えるに足る――。
「行くぜ!」
リューグの掛け声が、彼の耳朶に心地良いほどだった。