第六百三十八話 黒禍(二)
「やっぱり、雑魚は雑魚かなーって」
両手に握った剣を持て余し気味にしながら、シュレル=コーダーはつぶやいた。周囲には味方の兵士などひとりもいない。それどころか、人間ひとりいなかった。皇魔ばかりが、彼の周りを取り囲んでいる。四つ目の小型皇魔に骸骨獣、緑の小鬼に銀の鳥。人型の化け物も少なくはない。レスベル、ベスベル、リュウフブス、ウィレド。多種多様な皇魔が、魔王の旗の下、彼を包囲していた。
孤立無援とはこのことだが、望んで、彼はこの状況を作り上げていた。
「雑魚なんて、頼りようがないじゃない」
彼には、味方の将兵を雑魚と言い切るだけの理由があった。
敵は数多の皇魔だ。皇魔は、一体一体が人間とは比較にならない力を持っている。持って生まれた力の差が、成長とともにさらに開いていくのだから、仕方のないことだ。種が違うのだ。人間がどれだけ鍛えても、野生の猛獣に敵わないのと同じだ。人間がどれだけ鍛錬を積み、戦闘経験を積み重ねたところで、皇魔を上回ることなどできない。
一部の超人は、皇魔にも太刀打ちできるようだが、そのような例外をすべての将兵に求めることはできない。
だからこそ、シュレルのような化け物が必要となる。シュレル=コーダーとヴィゼン=ノールンのような、異能の持ち主が重要となる。
もっとも、この戦場で活躍しているのは、彼だけではないが。
「雑魚のお守りはさ、武装召喚師に任せておけばいいってことで」
両手の剣の柄を握りしめて、構える。周囲の皇魔は、いまにもこの均衡を破り、飛びかかってきそうなほどに殺気を漲らせていた。
ブラテールたちが吼えると、その咆哮が幾重にも響いた。周囲のグレスベルが、一斉に動き出した。四方から間合いを詰めてくるのだが、その後方でブリークが雷球を発生させ始めたのも確認する。
シュレルは、目を細めた。
踏み込み、前方から飛び込んできたグレスベルに一太刀浴びせると、小鬼が絶命したのを確認もせずにその脇を擦り抜け、充電中のブリークの顔面に剣先を突き入れる。左右からブラテールが噛み付いてくるが、両腕を振るって、ほとんど同時に斬り伏せると、彼はさらに前進した。皇魔の群れの中へ。ブリークの雷撃は脅威だったが、これで無力化できたも同然だった。ブリークにせよ、他の皇魔にせよ、魔王軍の仲間を巻き込むような攻撃はしないようなのだ。
皇魔とは、様々な生き物の総称である。ブリークとベスベルはまったく別の生き物であり、ブラテールとグレスベルも別の種族だ。協力して人間を襲うなどということはなく、共同戦線を張るなど、偶然以外にはありえない。仲間意識などあるはずがなかった。
しかし、クルセルクの皇魔たちは、軍事的な訓練を受けたためなのか、それとも魔王の支配が強力なのか、仲間意識が強く、瀕死の仲間を庇うこともあれば、連携して攻撃してくることもあった。それは、ブリークの雷球のような広範囲攻撃を封じる上で、重要なことだ。レスベルやベスベルも、持ち前の長射程攻撃を行うことができないのだ。もし、皇魔たちに仲間意識がなければ、戦場はもっと混沌としたものになっていただろうし、見境のない皇魔たちの攻撃によってこちらが壊滅していたかもしれなかった。
ベスベルが振り下ろしてきた拳を飛んで避けると、その太い腕に着地する。青鬼が唖然とした瞬間を逃さず首を刎ね、再度跳躍。背後から伸びてきたレスベルの足をかわしながら、前方のわずかばかりの空隙に着地、両手の剣をでたらめに振り回すことで周囲の皇魔を切り刻んだ。悲鳴とも怒号ともつかない声が響く中、シュレルは、猛烈な殺意を感じてすぐさまその場から飛び退いた。人間の常識を超えた跳躍力も、戦闘力も、ヴィゼン=ノールンと同調しているからにほかならない。
外法を施術されたことによって発現した能力。異能といわれる。外法の拡散、そのような能力を持つ人間が数多に生まれたが、多くは自我を破壊されて、死ぬか、死者同然の状態に陥ったものだ。シュレルとヴィゼンが生きているのは、幸運以外のなにものでもない。
爆音が、さっきまでシュレルの立っていた空間を破壊した。その周囲の小型皇魔が爆発に巻き込まれて吹き飛んでいく。仲間意識のかけらもない行動は、皇魔本来の行動といえば、そうなるのだが。
シュレルは、着地とともに立ち上る爆炎の中に漆黒を見た。それは、次第に人の形を成していく。いや、人間などではない。鬼だ。黒い、鬼。
「こいつ、あのときの……!」
レスベルともベスベルとも異なる、漆黒の外皮に鎧われた鬼の姿は、シュレルの記憶に鮮明に焼き付いている。ただの皇魔よりも凶暴な力を持ってはいたが、必ずしも倒せない相手ではなかった。逃げられはしたが、終始シュレルが優勢だったはずだ。
鬼が、こちらを見て、表情を歪めたようだった。口を開く。牙が覗いた。
「覚えていてくレたか」
「喋れるんだ。へーえ……」
感心の声を上げる一方、シュレルは背中に嫌な汗が流れるのを認めた。皇魔が人語を解し、話すなど、聞いたこともなかった。皇魔と人間が交渉することなどできるはずがないというのは、五百年の長きに渡って作り上げられた常識であり、だれもそのことを疑いはしなかった。疑ったところで、その常識を覆すような新たな事実が発見されることもなかった。
人間と皇魔は、互いに忌み嫌い、殺し合うだけの関係だったからだ。いや、人間が一方的に殺されることの割合のほうが多かっただろう。
アズマリア=アルテマックスによる武装召喚術の発明と、それに続く《大陸召喚師協会》の誕生、そして武装召喚術の普及が、皇魔と人間の強弱関係に変化をもたらそうとしている、らしい。武装召喚師は、大陸を人間の手に取り戻すための力としても、期待されている。もっとも、小国家群で武装召喚師が重用され始めたのはごく最近の話だし、それも戦力として、であることが多い。
話がそれた。
ともかく、皇魔が大陸共通語を理解し、口にしていることは、衝撃以外の何物でもなかったのだ。混乱しなかったのは、同調の影響が大きい。ヴィゼンとの同調によって得られるのは、圧倒的な身体能力だけではないのだ。
「言葉を、覚えた。でなけレば、師事することもかなわない」
「師事……」
「武装召喚術、学んだ。貴様を倒すためだ」
黒い鬼は、両手を掲げてきた。歪んだ青の手甲が、その凶悪な両手に装着されている。ルベンでの戦いでは見なかったものだ。彼の言葉を信じるならば、彼の召喚武装ということになる。
シュレルは、緊張とともに周囲を一瞥した。周囲の皇魔は、黒い鬼の号令でも待っているのか、シュレルに注意を向けたまま、動かなくなっていた。もしかすると、黒い鬼は指揮官なのかもしれない。少なくとも、他の皇魔より上位の立場に違いない。
「ぼくらに負けたのがよほど堪えたんだね」
「そうだ」
(あっさり認めるんだ。厄介だな)
シュレルは、両手の剣を構え直して、相手の出方を窺った。言葉が通じる以上、挑発も無意味ではないと思ったのだが、どうやら黒い鬼には無駄のようだった。黒い鬼の紅い目が、ぎらぎらと、燃えるように輝いている。
「我はガ氏族の戦士サラ! 貴様を屠リ、先の戦いの汚名を雪がん!」
黒い鬼が、気合とともに地面を蹴った。土煙が舞うほどの衝撃が大地に走る。同時に、鬼は、矢のような速度でシュレルに飛びかかってきていた。間合いは瞬く間になくなり、青い手甲が迫ってくる。
「武人ってやつ?」
無意識につぶやきながら、シュレルは、両手の剣を旋回させた。激突音とともに火花が散る――はずだった。が、散ったのは、シュレルの両手の剣だった。両方の剣の刀身が真っ二つに叩き折られたのだ。左右、鬼の両手の同時攻撃をぎりぎりのところで受け止めたのが仇になった。シュレルは即座にしゃがみ込んで鬼の腕をかわすと、折れた剣の切っ先を鬼の腹に突き入れた。手応えはない。
「っぽいね。ヴィゼンの苦手なやつだ」
シュレルは、黒い鬼が飛び退いたのを認めると、踏み込んで距離を詰めた。召喚武装の使い手を相手にして、間合いを広げるなど愚策でしかない。折れた剣ではまともな戦闘には発展し得ないが、鬼の打撃が強力なのは、ルベンでの戦いでも思い知っている。
サラとかいう鬼は、ビュウ=ゴレットの剛剣をも打ち砕いたらしいのだ。そこに召喚武装が加味されているということを考えれば、どんな丈夫な武器をもってしても、破壊されるのが落ちだろう。召喚武装であっても、同じことかもしれない。
「否定はしないよ」
「なにを独りでぶつぶつと!」
「悪いね、これが性分なんだ。そして、ぼくはひとりじゃない」
サラの手甲による連撃の尽くを軽い身のこなしだけで回避しつつ、シュレルは告げた。
「ふたりでひとり」
言葉を発しているのはシュレル自身だが、その言葉を紡いでいる意識は、シュレルのものであったり、ヴィゼン=ノールンのものであったり、まちまちだった。シュレルとヴィゼンに発現した異能は、ふたりの精神や能力を単純に同調させるというものではないのだ。
「まあ、一足す一が十にも百にもなるんだけどさ」
シュレルは、右手の剣をサラに投げつけると、鬼が体を捌いてかわした隙を見逃さず、その懐に潜り込んだ。右掌で鬼の硬い皮膚に触れ、息吹とともに押しこむ。一瞬の間をおいて、鬼の体が吹き飛んでいった。全霊の掌打は、外皮ではなく、内臓への攻撃だった。鬼の身体が人間と同じような構造をしているのならば、効果的なのだが。
「こレでこそ、我が宿敵!」
鬼は、空中で回転して、その場に着地してみせた。おそらく召喚武装の能力だろう。でなければ説明がつかない。
「熱いのは苦手だっていたでしょー」
ヴィゼンの文句を聞き流しながら、シュレルは額の汗を拭った。周囲には、数え切れないくらいの皇魔がいて、黒い鬼は無傷といってもいい状態。こちらの攻撃手段は限られている上、折れた剣による斬撃も、掌打による内臓攻撃も効果が無いときている。
「打つ手なしかな」
「諦めルのか? 失望させルな!」
サラが怒号とともに両手を突き出した。シュレルは咄嗟の判断で右に飛んだ。瞬間、爆音と熱衝撃波が彼の体を吹き飛ばす。皇魔の悲鳴が聞こえた。怒り狂った奇声は、シュレルに向けられているらしい。理不尽さを感じずにはいられないが、上官に対して怒ることができないのは皇魔も同じと考えれば、多少は親しみを覚えることができるのかもしれない。
そんな親しみ、なんの意味もないが。
「この状況、どうしろっていうのさ」
なんとか着地して、猛烈な殺気に向き直る。サラが、両手をこちらに向けていた。今度は、左に飛んだ。爆音と熱衝撃波が、小型皇魔を吹き飛ばし、ついでにシュレルの体を運ぶ。着地にこそ失敗したものの、痛みは軽微だ。爆発の直撃を喰らうよりはいい。
立ち上がり、サラを視界に収めようと視線を動かしたとき、目の前に黒い影が飛び込んできていた。鬼の踵が、シュレルの顔面を抉ろうとした瞬間、轟音とともに、視界が開けた。
「へ?」
シュレルは、なにが起こったのかわからず、瞬きした。唖然としている間にも、血煙が視界を赤く塗り潰していく。
圧倒的な暴力が、周囲の皇魔たちを血祭りにあげていることだけは理解できた。
「なんだこレは……!」
サラの怒りの声に同情を禁じ得なかったのは、シュレルも、恐怖に似た感情を抱いたからにほかならなかった。
黒き矛が、戦場に血の嵐を起こしていた。