第六百三十五話 女神と天侍
視界が開いたとき、真っ先に飛び込んできたのは青だ。
快晴の空は、滲んだ青さを湛えており、上天の太陽を絢爛に輝かせていた。雲が遙か遠方に浮かんでいるのが見えた気がするが、きっと気のせいだろう。肉体に襲いかかった重力が、そんな遠方の景色を認識させなかった。
(落ちる……?)
疑問符が浮かんだ時には、彼女の肉体は地上への落下を始めていた。
「ひぃやあああああああああああああああああああああああああっ!」
無意識の内に悲鳴をあげていたことに気づいたのは、迫り来る地上を目撃したときであり、また、地上を埋め尽くす皇魔の群れを目の当たりにした直後のことだった。合流地点に到着したのは、疑いようがない。そして、予定通りの戦闘が繰り広げられていることも、確認できた。クルセルクの戦力が皇魔だということも、聞いた通りだった。敵が皇魔でなければ、リョハンが肩入れする必要はなかったのだが、皇魔だと確認した以上、黙殺することはできない。
皇魔は、人類共通の敵なのだ。
すぐ近くから、あっけらかんとした声が聞こえてくる。
「相変わらずいい声で泣くなあ」
「マリク君、君は少し口を慎みたまえ」
「まあまあ、元気なのはいいことですよ」
「さっすが大召喚師様、話がわかるう!」
「貴様……!」
「なんでみんなそんなに呑気なのよおおおおおおおおお!?」
彼女は、悲鳴を上げながらも、なにもしなかったわけではなかった。両腕を地面に向けて振りかざし、全神経を手の先に集中させる。両腕の腕輪が彼女の意思を吸い上げるとともに光を発し、両手の先に力を収束させた。収束した力は、一瞬の後、爆発的に膨張し、光の奔流となって地面に吸い込まれていった。光が地面に突き刺さると、閃光が嵐のように吹き荒れ、落下予測地点周辺の皇魔を薙ぎ払う。悲鳴は聞こえなかった。爆音にかき消されたのだろう。
粉塵が視界を埋め尽くす中、明らかなのは、落下が止まらないことだ。地上は、もはや目前に迫っている。いかに鍛え上げているとはいえ、超上空から落下すればひとたまりもなく死ぬだろう。それが人間の証明だというのは、あまりにも馬鹿げているが。
「爆乳の破壊力はすさまじいね」
「んなこといってる場合なの!?」
「クオールには後で説教しなければなりません」
「そんなことどうでもいいっしょおおおお!?」
同僚の戯言に危機感が皆無なのはいつものことではあったが、それにしても冷静すぎるのではないかと思ったのは、彼女がこの中で一番常識人だからなのかもしれない。落下する五人の中で、彼女だけが取り乱している。異常な光景だと言わざるをえないのだが、いい加減になれるべきだといわれれば、反論の余地がないのも事実だった。このような不測の事態は、いつだって起こりうるのが彼女の職場なのだ。
「皆さん、準備はいいですね?」
おっとりとした声には、強い力があった。
「はーい」
「へ?」
「いつでも」
「は」
「では、いきますよ」
そういったのは、ファリア=バルディッシュだ。見ると、深いシワの刻まれた、それでいて神々しいまでに凛々しい老女の横顔に、意識を持って行かれそうになった。ファリア=バルディッシュが身につけていた白の長衣が淡く輝いたかと思うと、彼女を含めた五人の体も光に包まれていた。重力が消えたような錯覚が安心感を伴って、彼女の意識を覆う。
どっと疲れを覚えたのは、同僚たちが冷静に振る舞っていられた理由を悟ったからだ。落下速度の低下は、ファリア=バルディッシュの召喚武装・天流衣の能力だった。つまり、冷静に考えれば、落下死する可能性など最初からなかったということだ。
彼女の砲撃によって大きく抉れた大地に着地すると、脱力のあまり倒れそうになる。
「はりきりすぎですよ」
ファリア=バルディッシュが、彼女の倒れかけた体を支えながら微笑んだ。彼女は、慌てて飛び離れると、背筋を伸ばして敬礼した。何年経っても、これだ。女神の優しさに感激するよりも、まず、自分の失態を呪ってしまう。そして、それは必ずしも間違いではない。女神の手をわずらわせることなど、あってはならないのだ。
女神とは、当然、ファリア=バルディッシュのことだ。女神は、こちらの反応にきょとんとしていたが、すぐに理解したのか、ふっと笑った。緊張は、消えない。
齢六十を越え、なお現役の武装召喚師として前線に立つ彼女は、生きる伝説としてひとびとの記憶の中にあるはずだ。リョハンの戦女神。彼女が陣頭指揮を取り、ヴァシュタリアからリョハンの自由を勝ち取ったのは、あまりにも有名だ。リョハンに生まれ落ちたものは、彼女を実在する女神として仰ぐことになるが、それはだれかが強要したものではなかった。自然発生的に、ファリア=バルディッシュを女神と仰ぐものが現れた、という。
ヴァシュタラの神に対抗するには女神が必要だった、というものもいる。
実在する女神は、いまは大召喚師や、大ファリアと呼ばれることが多い。ファリアという名は、彼女の孫娘の名前でもあるからだ。彼女の孫娘ファリア・ベルファリア=アスラリアは、転じて、小ファリアやベルファリアと呼ばれている。
小ファリアは、この国にいるという。
ガンディア。
リョハンに生まれ育った武装召喚師なら、一生関わることのなさそうな国だった。リョハンそのものが、大陸小国家群の国々と積極的に関わろうとはしていなかった。リョハンは、三大勢力のひとつであるヴァシュタリアにも対抗出来るだけの戦力を有している。
大陸小国家群の長年に渡る均衡を破壊することも容易だった。だが、大ファリアを含め、リョハンを運営する護山会議は、他国への干渉には消極的だった。一国に肩入れすれば、その国を繁栄させることも可能だ。リョハンを小国家群最大の国家にすることも不可能ではない。だが、そんなことのために武装召喚術を発展させてきたわけでも、広めてきたわけではないのだ。
高潔な意思が、リョハンを動かしている。
「それにしても、凄い数だな。魔王の皇魔……魔皇魔?」
「我々が出張るだけの価値はあったわけですね」
「もちろん。一国家間の戦争に手を出すなど、リョハンにはあるまじきこと。我々の役割は、皇魔の排除のみ。その条件を承諾したからこそ、我々はここに来たのです」
大ファリアが、腰に帯びていた太刀をすらりと抜いた。濡れたように輝く刀身には、六つの星が浮かんでいる。閃刀・昴。大ファリアの召喚武装のひとつであり、戦女神の代名詞ともいえる代物だった。
「相手にするのは皇魔だけ、ね。クルセルクが人間を投入してきたら、どうするの?」
「当然、無視します。その結果ガンディアの人々が負傷しようと、リョハンには関係のないこと」
「なるほどねえ。結構辛辣だ」
「それが、リョハンと連合軍の契約ですよ」
同僚のみならず大ファリアに対してもぞんざいな口調で話しかけるのは、リョハンにおいても彼――マリク=マジクをおいてほかにはいなかった。大ファリアにそのような態度で臨もうものなら、袋叩きに合うのが関の山だ。しかし、彼は特別だった。彼が大ファリアと血縁関係にあるというわけではない。彼は齢十五歳の若さで、四大天侍のひとりに選ばれた天才中の天才だったからだ。物心ついたときには古代言語を諳んじていたというし、十歳にして独自の術式を編み出し、リョハンに衝撃を与えた。肉体こそまだまだ発展途上ではあるが、鍛錬を怠らない彼のことだ。心配する必要はないだろう。
問題があるとすれば、その言動と性格だが、こればかりはどうすることもできそうになかった。四大天侍の一員となってからというもの、四大天侍筆頭シヴィル=ソードウィンによる厳格な教育を受けてきたはずなのだ。それでも、彼の性格は矯正されなかった。シヴィルも諦め始めている。
「ま、ぼくはなんでもいいけどさ。暴れられるならね!」
マリク=マジクが、不敵に笑った。つぎの瞬間には、彼の小柄な体は彼女の視界から消えている。マリクも、大ファリア同様、この場に連れてこられる前に召喚を済ませていたのだ。それは、彼女も同じことだ。
クオール=イーゼンは、五人を戦場のまっただ中まで運ぶと約束し、その通りにしたのだ。予測よりも遙か上空ではあったが、戦場の中心近くではあった。
「さて、わたくしたちも行きましょう。どれだけ彼が強くとも、二万千二十五体の皇魔を殲滅することなど不可能です」
「一万も倒せば、敵は退くと思われますが」
シヴィル=ソードウィンは、無論、マリクが一万体の皇魔を撃滅しうるといっているわけではない。いくら規格外の武装召喚師とはいえ、それだけの数の皇魔を相手にすれば、息切れするのは目に見えている。彼女が初撃で消耗したように、強大な力を振るうということは、それだけ消耗が激しいということなのだ。
「クルセルクに引き返せば、本国の軍勢と合流し、また盛り返すでしょう。出来る限り多くの皇魔を撃破しなさい。慈悲を掛ける必要はありません」
「御意」
シヴィルは、最敬礼で肯定すると、隆々たる巨躯を隠すような黄金の長衣を翻して、飛んだ。落下地点を覗きこんでいたギャブレイトの頭頂部に、黄金の拳が叩き込まれる。金色に輝く巨大な拳は、彼の召喚武装ローブゴールドが変形したものだ。その威力は、見た目以上に強烈だ。ギャブレイトが断末魔を上げることもできずに死んだ。
そうする間にも閃光や爆音、衝撃波が戦場を揺らした。マリクの仕業だろう。
「ニュウちゃんもいかないと、ダメよ」
「え?」
唐突に大ファリアにダメを出されて、ニュウはきょとんとした。大ファリア特有の呼び方には慣れたものの、やはり心に来るものがある。あの偉大な女神に名前を呼ばれることほどの幸せはない、と彼女は信じている。
ニュウ=ディー。それが彼女の名前だった。
「あなただけ、ここに残っているつもりなのかしら?」
大ファリアのいたずらっぽい笑みの意味に気づいて、ニュウははっとなった。周囲を見やると、四大天侍のひとりカート=タリスマの姿も消えていた。寡黙ながらも仕事熱心な彼のことだ。マリクが飛び出していった直後、なにもいわず戦場に向かったのかもしれない。
轟音と衝撃が吹き荒れ、皇魔たちの怒号や悲鳴が散乱している。
「も、もちろん、いきますよ!」
「早く片付けて、休ませていただきましょう。老体に長旅は堪えるわ」
「は、はい!」
大ファリアの冗談に全力で同意しながら、ニュウは、両腕を左右上方に掲げた。小型の皇魔が、この落下地点に群がりつつあることを察知したのだ。それは、大ファリアも認識しているようだが、彼女は長刀を握ったまま微動だにしない。閃刀・昴は、小型よりも大型を相手にするほうが相応しい召喚武装だ。小型を一掃するのは、ニュウの召喚武装ブレスブレスの役割だろう。
両手首に巻き付いた銀の腕輪が、彼女の意思を吸い上げていく。意思は力となって掲げた手の先に収束し、一瞬後、炸裂した。無数の光弾が左右の皇魔の群れに着弾し、爆風とともに吹き飛ばす。その爆風の中から、ギャブレイトの巨体が飛んできた。
ニュウは、疲労感にぐったりとしながら、微塵も不安を覚えなかった。大ファリアが跳んでいる。視界を両断する純白の衣は、まるで白い翼のようだった。ギャブレイトが吼え、大ファリアに突撃するが、大ファリアはその軌道を読みきっている。紙一重でかわし、その瞬間には、彼女の長刀が閃いていた。
(一刀六斬。それが、閃刀・昴の能力……)
ギャブレイトの巨体は、一瞬にして細切れになっていた。肉片とともに、血と体液が瀑布のように降り注ぐ。
「いくわよ、ニュウちゃん」
「はい!」
ニュウは、大ファリアの後に続いて駈け出した。