第六百三十三話 勝利の使者、彼方より
「戦況はどうだ? ナーレス」
「芳しくはありませんね」
レオンガンドの問いに対して、ナーレス=ラグナホルンはそう即答した。各方面から届けられる情報を冷静に分析した結果を、ありのまま、包み隠すことなく伝えたのだ。下手に事実を隠蔽して、楽観的な嘘の情報を流布するよりも、現実を認識するほうがいいと判断したまでのことだが、レオンガンドは、ナーレスの返答を予期していなかったのか、しばし呆然としたようだった。
銀の獅子の甲冑を纏い、同じく銀の甲冑を装着した軍馬に跨る青年の姿は、まさに獅子王といっていい。しかし、その間の抜けた表情は、世間の獅子王像からはかけ離れたもののように思えた。どちらもレオンガンドという人物の一面ではあるのだが。
「必ずしもこちらの思い通りにはなっていない、というのが現状です。マルウェールから離れた敵の数は想定していたよりも少ないのですが、その戦闘力が想定を遥かに上回るものであり、こちらの火力で押しきれないようなのです」
「さすがの軍師も、皇魔の力量は見抜けなかったか」
「というよりも、魔王軍を構成する皇魔の質がわからなかったのが大きいですね。こちらは、用意できる限りの戦力を投入しました。《蒼き風》や紅き羽といった名高い傭兵集団は元より、《大陸召喚師協会》の武装召喚師まで。ザルワーン戦争とは比べ物にならないだけの金額を投じて、戦力を整えたのです」
「ラシュフォードを説得するのに骨が折れたぞ」
レオンガンドは、渋い顔でつぶやいた。ぼやきにも聞こえたが、それも当然かもしれない。ガンディアの金庫番たる財務大臣ラシュフォード=スレイクスは、レオンガンド派とはいえ、資金運用に関しては極めて厳しい人物であり、国のためであっても浪費は許さず、レオンガンドに対しても容赦しないところがあったのだ。ログナー戦争にザルワーン戦争と立て続けに大きな戦いがあり、ガンディアはそのたびに多大な資金を投入している。
『これ以上の資金投入は財政の破綻を招きますよ』
ラシュフォードの冷ややかな言葉は、刃のように研ぎ澄まされていたものだ。事実ではあるのだろう。ログナー、ザルワーンの領土を得、財源も多くなった。しかし、財源は無限ではないのだ。新たに兵を募り、軍団を整え、装備を整え、マルウェールなど要所の増築や補強にも、多額の費用が必要だった。財務大臣が渋い顔をするのも、無理はなかったのだ。
そんな財務大臣であっても、クルセルクとの決戦が避けられぬものだということは理解していたのだろう。レオンガンドの涙ながらの説得によって、彼もまた、涙ながらに国庫の重い扉を開いた。
果たして、ガンディア軍は、これまでにないほどに充実した戦力を得ることができた。
「それでも、まだ足りないか」
「ええ。足りませんね」
一進一退の攻防が、続いている。
クルセルク軍が国境を侵し、ザルワーン地方北東の都市マルウェールの攻略に取り掛かったことが、この戦いの始まりである。マルウェールにはザルワーン方面軍第一、第二軍団を配備していたものの、それはクルセルクに面した都市の中で、もっとも少ない戦力であり、クルセルクが食指を伸ばすのに適していた。そして実際、クルセルクは、マルウェールに軍を派遣した。
マルウェールを攻囲したのは一万の皇魔だったが、数はすぐに三万まで膨れ上がったようだ。三万である。クルセルクの戦力が情報通りならば、半数の皇魔をマルウェールに集めることができたということになる。マルウェールは、ナーレスの期待通りの働きをしたのだ。
しかし、三万もの皇魔が、マルウェールの攻略だけに留まっているわけもない。軍勢は、すぐにふたつに分けられた。ひとつはマルウェールの攻囲を続け、もうひとつは別働隊としてガンディア領土の侵略を始めた。
ここで、ひとつの誤算があった。
皇魔の中に召喚武装を身につけているものがいるという情報が、マルウェールからナーレスの元に届けられたのだ。カイン=ヴィーヴルによれば、武装召喚師に間違いないという。皇魔は、ただでさえ凶悪な戦闘力を持っている。中型以上ともなれば、鍛えあげられた軍人でも数人がかりでやっと戦えるというものである。
そんな化け物が武装召喚術を身につけたというのだ。
それは、魔王軍は、武装召喚師を揃えた連合軍を大きく上回る戦力を有している、ということにほかならない。
そもそも、戦力では連合軍を上回っていたのが魔王軍なのだ。その戦力差を武装召喚師を網羅し、戦術を駆使することで補おうとしたのが、ナーレスの戦術だった。兵の質も数も敵が上。ならば、より強い力をぶつけることで、その質量を上回ろうとした。
マルウェールを餌にし、敵軍をガンディア領内に誘引したのも、膨大な敵兵力を分断することで少しでも勝機を得るためだったのだ。それは、敵が皇魔と人間で構成されているという前提の戦術である。皇魔の武装召喚師が存在するなど、考慮したものではなかった。
(押し負けるのではないか)
ナーレスの危惧は、現実のものとなりつつある。
マルウェール南西の街道付近に展開した魔王軍。ガンディア軍は、ザルワーン各地に潜ませていた軍勢を集結し、包囲網を構築することで対抗した。
ガンディア軍の主力は、《大陸召喚師協会》から借り出した武装召喚師たちだ。《協会》も、魔王ユベルと皇魔の軍勢については対処しなければならないと考えてはいたのだ。
しかし、《協会》、そして《協会》の総本山であるリョハンは、その圧倒的な力によって国家に干渉するなどということをよしとしなかった。空中都市リョハンは、それこそ、三大勢力に対抗しうるだけの戦力を有している。ヴァシュタリアの勢力圏内で長年に渡って独立不羈を貫いているということは、そういうことだ。リョハンの戦力をもってすれば、大陸小国家群に覇を唱えることも不可能ではないだろう。だが、リョハンは自治領の維持こそすれ、領土の拡大や勢力範囲の拡張などは一切行わなかった。
リョハンは、武装召喚師が大陸に混乱を招くことを望んでいないのだ。《協会》という組織が武装召喚師を管理したがっているのも、リョハンの理念に基づくものだった。そして、その理念は、アズマリア=アルテマックスの討伐にも通じている。この世に混乱を撒き散らす魔人を討つことは、リョハンと《協会》の理念を体現することにほかならない。
魔王が用いる皇魔の討滅も、だ。
魔王が皇魔さえ用いなければ、《協会》も積極的に協力してくれるということはなかっただろう。《協会》は、武装召喚師の仕官を斡旋することもあるが、同時に国家間の力関係が崩れることを恐れてもいた。小さな国であっても、武装召喚師を大量に雇い入れることができれば、大国にも打ち勝つことができる。
その悪しき前例を作ったのがガンディアだった。
ガンディアは、武装召喚師の力を頼みにログナーとザルワーンを下している。《協会》がガンディアとの間に距離を置こうとするのもわからないではない。
もっとも、状況はそれを許さなかった。魔王軍の実情を知れば、《協会》も動かざるを得ない。人類の天敵と呼ばれる皇魔を何万も従える国の存在を看過することなど、できるはずがなかった。とはいえ、《協会》が独自に動くわけにもいかない。そうなれば、リョハンに野心があるのではないか、といういらぬ疑いを持たれることになる。《協会》とリョハンは表裏一体の存在だ。《協会》が動くということは、そのうらにはリョハンの意思が動いているということなのだ。
リョハンは、クルセルクを潰すことなどできない。が、皇魔の軍勢を見過ごすこともできない。そんなとき、連合軍は戦力を欲した。利害が一致した。もちろん、《協会》から大量の武装召喚師を駆り出すのだ。膨大な費用が投じられた。
かくして、ザルワーンとクルセルクの戦場には、数え上げればきりがないほどの武装召喚師が投入された。
武装召喚師たちは、多大な戦果を上げた。小型皇魔は一蹴し、中型皇魔さえも対等以上に戦ってみせた。大型の皇魔に至っては、武装召喚師でなければ手がつけられなかった。武装召喚師たちが気炎を吐けば、常人である兵士たちも奮起する。皇魔の攻撃も、武装召喚師に集中するからだ。皇魔を殺せば殺すほど、敵対心を集めていく。
そのまま推移すれば、ガンディア軍の勝利も見えてくるはずだった。ところが、皇魔の中に武装召喚師がいるという情報が届くころ、状況は変わっていた。召喚武装を纏った皇魔は、人間の武装召喚師を上回る火力を見せつけたのだ。
ザルワーン方面軍第七軍団が壊滅、ガンディア方面軍第三軍団が半壊したという報告が、ナーレスの耳に届いている。
ナーレスは、前線に行こうとするレオンガンドを必死に抑えながら、戦場の各地に伝令を飛ばした。大将軍や左右将軍が手勢を率いて突撃する分には構わないが、レオンガンドには、この混沌とした戦場を進ませるわけにはいかないと考えていた。レオンガンドが前線に向かえば、士気は上がるだろう。それはわかっている。だが、敵は皇魔で、しかも武装召喚師がいるというのだ。用心に越したことはなかった。レオンガンドも、その点は理解してくれており、《獅子の牙》とともに後方での待機していた。
「ここからではよく見えんな」
レオンガンドは、度々左右に漏らしたが、ナーレスは取り合わなかった。レオンガンドが討たれれば、ガンディア軍は総崩れとなるだろう。そうなれば、クルセルク領に突撃したものたちはどうなる。皇魔の群れの中に取り残されて、各個撃破されていくのではないか。そんな恐ろしい未来も視野に入れながら、ナーレスは采配を振るっている。
やがて、マルウェールを包囲中の魔王軍が、さらに部隊を分け、ガンディア軍と戦闘中の軍勢に合流させた。およそ一万の増援は、ガンディア軍に絶望を与え、ナーレスの肝を冷やさせた。魔王軍が勢いを盛り返すと、各地の戦況が著しく悪くなった。
「一度後退し、態勢を建て直したほうが良いのではないか?」
「後退したところで、どうなるものでもありませんよ」
レオンガンドが耳元で囁いてきたものの、ナーレスは顔色ひとつ変えずにいった。後退し、都市に籠もるというのもひとつの手だが、それをするにしても敵が攻撃の手を緩めたときでなければならない。いま、敵は大攻勢の真っ只中なのだ。この状況で敵に背を向けることはできなかった。相応の犠牲を払うのならば、不可能ではないが、どちらにせよ、現実的な話ではない。
その上、ナーレスの目は、遙か前方に立ち込める戦塵が不可解に撓む瞬間を見逃していなかった。
「それに」
「それに?」
「勝利の使者が到着したようですよ」
極至近距離で落雷でもあったような爆音が轟き、衝撃波が粉塵を伴ってナーレスたちの間を駆け抜けていった。熱を帯びた力の拍動。電流が走り、眼の奥に火花が散った。悲鳴を上げるものもいれば、驚きのあまり腰を抜かすものまでいたが、無理からぬことだった。戦場には数多の武装召喚師たちが、様々な召喚武装を振り回しているが、これほどまでの異変が起きたことはなかったのだ。
「勝利の使者……」
「遅くなってすみません。なにせ、ここはリョハンから遠い上、人数も多かったのでね」
そんな言葉とともに、漆黒の羽がナーレスの視界を彩った。力を帯びた羽は、風に流れるでもなく、意思でもあるかのように舞い踊り、その人物を神秘的に演出している。
「ということで、戦女神御一行、魔王の皇魔を滅ぼすため、ここに推参です」
黒い翼を生やした男は、そういって、ナーレスに笑いかけてきたのだった。