第六百二十七話 大義
反クルセルク連合軍のうち、ジベル軍を中核とする軍勢がジベル領の北端に位置するサンゴート砦を発したのは、一月十五日明朝のことだった。
クルセルクの軍勢がジベル領ではなくガンディア領マルウェールへ進軍を開始したという情報が入ったのは、十三日中のことだったが、即座に動き出すわけにもいかなかった。ジベル軍だけが突出してクルセルク領に進出すれば、クルセルクに残存する部隊によって包囲殲滅されるだけだ。しかも、十三日の時点では、ジベルを中核とする軍勢は人員が揃っておらず、先走ることさえできなかった。
「足並みを揃える、という意味では、ちょうど良かったのだ」
ハーマイン=セクトルは、ミオン征討軍の到着を今か今かと待ちながら、そのようなことをひとりつぶやいたりもした。焦りは禁物だったが、ナーレス=ラグナホルンの戦術通りに動こうとすれば、焦燥感を抱きもする。
急がなければ、ガンディアの国土が焦土と化すような戦術だ。
(肉を斬らせるにも程がある)
ハーマイン=セクトルは、ナーレス=ラグナホルンの戦術の大胆さに驚嘆し、唖然とした。戦力を分断するためとはいえ、自国領を餌に敵を誘き寄せるなど、狂気の沙汰としかいいようがない。無論、通常ならば、ナーレスといえども取るはずのない策であることは明白だ。敵がクルセルクで、戦力差が圧倒的だからこそ、やらざるを得ないと思い切ることのできた策だ。失敗すれば、ガンディアの国土は瞬く間にクルセルクのものとなる。
失敗するわけにはいかない。
『ガンディアの領土であろう。なにを恐れることがある』
アルジュ・レイ=ジベルは、他国の領土がどうなろうとしったことではない、といった。ハーマインにも、彼の考えは理解できる。しかも、ガンディアだ。ベレルとの戦いに調停者として現れ、戦争を終結させると、素知らぬ顔でベレルを支配下に収めたあの国だ。憎き敵国、といっても間違いはない。ジベルの領土を奪ったといっても過言ではないのだ。
だが、それはそれだ、とハーマインは考える。
ナーレス=ラグナホルン。天性の軍師の呼び声高い彼のことは、よく知っていた。彼がガンディアのような小国にとどまっているのが勿体ないと思っていたほどだ。
ナーレスがレオンガンドの愚かさに嫌気が差してガンディアを離れたという話を聞いたとき、真っ先に飛びついたのがハーマインだった。ナーレスはハーマインの呼びかけには応じなかったが、ハーマインの中でナーレスの評価は変わらなかった。
ザルワーンに流れ着いたナーレスが、瞬く間に名声を得ていく様を横目で見遣りながら、ほら見たことかとガンディアを嘲笑ったのも、いい思い出だ。結局は、それさえもガンディアの思惑だったのだが。
ともかく、ハーマインはガンディアこそ嫌いだったが、彼の国の軍師であるナーレス=ラグナホルンには惚れ込んでいた。そのナーレスがクルセルクの決戦に向けて考えだした戦術が、自国領を餌に敵戦力の大部分を誘引し、クルセルク領土の攻略を連合軍の他の部隊に任せるというものだったのだ。ナーレスは、アバードやジベルといった連合軍参加国の戦力を信用し、ガンディアを餌にした。
『信用には、応えなければなりません』
『そんなものにどれほどの価値が有るのか』
『この戦いに勝つには、ガンディアの戦力は必要不可欠。そして、戦争に勝てば、ガンディアがさらに巨大化するのは必然。ガンディアとの間に信頼関係を構築するのは、大事なことです』
『ガンディアを毛嫌いしていたのは将軍ではないのか?』
『感情と理性は別のものですよ、陛下』
『……まあ、よい。戦いは将軍に任せる。好きなようにせよ』
アルジュが呆れたのは、ハーマインの変心ぶりに、だろうが。
そんなことはどうでもいいことだと、彼は、いつも以上に青ざめた顔の主君を見つめながら思った。
十四日夜半、連合軍ジベル軍団の戦力が揃った。ジベルからは、暗躍部隊である死神部隊のほか、赤き角、青き角、白き角、黒き角の四つの戦闘団が投入され、本当の意味でジベル軍が中核を成しているということがだれの目にも明らかだっただろう。
ルシオンからは王子ハルベルク・レイ=ルシオンに率いられた白聖騎士隊、白天戦団が参加。ベレルの豪槍騎士団に重盾騎士団も参加しており、ベレルの国土防衛はどうなのかと勝手に案じたりもした。ガンディアからはガンディア方面軍第一、第二軍団に加え、王立親衛隊《獅子の尾》が到着。また、元ミオンの銀騎士部隊もガンディア軍とともに戦線に加わっている。
ミオン征討からほとんど休みなく駆けつけてきたものたちの様子は、ひたすらに鬼気迫っていた。
ハーマインは、軍議を開く時間さえ惜しんだ。
元より、戦術自体は各軍に浸透しているのだ。わざわざ再確認する必要もなかった。ただ、ミオンからジベル最北まで駆け通しだったものたちを少しでも休ませるため、真夜中に出発するという案は見送らざるを得なかった。強行して疲労を蓄積させるのは、悪手以外のなにものでもない。
十五日未明、ジベルの将軍ハーマイン=セクトルを総指揮官とする軍勢が、サンゴート砦を出発。昼過ぎにはクルセルクとの国境を突破。国境のすぐ近くに作られていた防衛拠点で一戦を交えるも、大きな戦いに発展することもなく勝利を収めた。
総勢一万六千を超える大軍勢である。国境防衛の戦力を蹴散らすには十分過ぎるほどの攻撃力があった。国境防衛というよりは、国境付近の監視といったほうがいいのだろう。戦力というにはあまりにも脆弱だ。それはクルセルクのみならず、多くの国に言えるものだが。
国境は四方八方にある、線である。戦力は有限であり、全面を守り切ることなどできるはずもない。となれば、国境の各所に監視拠点を設けるしかない。隣国の動きを常に監視することで、急な侵攻にも対処できるというものだ。
(国境での戦闘は捨てたか?)
ハーマインは、何事も無くクルセルク領に入ることができたことが不思議でならなかった。敵は、圧倒的な戦力差を誇るクルセルクなのだ。皇魔だけで連合軍の総戦力に対抗しうるという。そこに正規軍が加われば、数で圧倒されるのが目に見えるほどの物量差。
まともにぶつかり合って勝てる相手ではない。
そのことは、ハーマインでなくともわかっていることだし、ましてや稀代の軍師ナーレス=ラグナホルンが認識していないはずがなかった。
だからこそ、ナーレスはガンディア領土に敵を招き入れた。
マルウェールの常駐戦力を最小限に抑え、ジベルやアバードの要所に戦力を整えさせることで、敵の攻撃目標をマルウェールに限定させた。ジベルやアバードで激闘を演じるよりも、容易く落ちるであろうマルウェールに軍を差し向けるのは、クルセルクとしても悪い手ではない。たとえ、マルウェールが囮だとしても、数を頼みにするクルセルクにしてみれば、なんのことはないのだ。
物量で押し潰せばいい。
(クルセルクはそう考えるはずだ。圧倒的な物量差は、覆しようがない)
しかも、クルセルクが動員するのは、人間ではない。皇魔なのだ。何百年もの昔からこの大陸を蝕んできた人類の天敵は、強靭な肉体を凶悪な戦闘力を誇り、人智を超えた能力を持っていた。小型の皇魔ですら、凶悪だ。
(勝てるか。ナーレス)
「勝ちますよ」
まるでこちらの心中を見透かしているかのようにいってきたのは、ガンディア軍参謀局の少年室長だった。エイン=ラジャールといったか。元はログナーの兵士だった彼は、ガンディアのログナー併呑後、ガンディア軍ログナー方面軍の軍団長に抜擢され、ザルワーン戦争で戦術家として頭角を表したという。昨今、ナーレスが新設した参謀局に転属したことはよく知られているが、それもこれも、ザルワーン戦争における彼の活躍が評価されたからだが。
ナーレスはエイン=ラジャールを後継者として育てようとしているのではないか。連合軍界隈では、そのような憶測が飛び交っている。
「この戦い、我々が勝たなければ、ガンディアはおろか、大陸の命運さえも危ういのです」
「魔王が大陸を皇魔で埋め尽くすか。ぞっとしないな」
「そうならないようにするために、クルセルクを滅ぼすのです」
「正義は我らにある、ということか」
「大義がなければ、ひとは死ねませんよ」
エインは、ハーマインですら肝が冷えるほどの凍てついた目を見せた。
「逆をいえば、正義の為にならばひとは死ねる。死ぬ気になって、戦える。故郷が皇魔に蹂躙される未来を思えば、だれだって死力を振るうでしょう?」
「確かにな」
(死ぬ気で戦わなければ勝てない、ということか)
ハーマイン=セクトルは、言葉には出さずにいって、納得した。死力を尽くさなければ、多勢に無勢を覆すことなど、できるはずもない。
目指すは、クルセルク南部の都市セイドロック。
セイドロックとゴードヴァンを落とせば、いまザルワーン方面に流れているクルセルクの軍勢と本国の連絡を断つことができるのだ。
ゴードヴァンには、アバード・センティアの部隊が向かっているはずだった。また、タウラル要塞の部隊は、ゴードヴァンの北に位置するランシードに強襲をしかける手筈になっていた。