第六百二十四話 火蓋
「クルセルクは、軍師殿の思惑通り、マルウェールに兵を差し向けた。数は一万はくだらないとはいえ、マルウェールもしばらくは持ち堪えるだろう。改修し、城壁は堅固になった。簡単には突破できまい。しかし、だ。敵をマルウェールに釘付けにしておくことができないのもまた事実。制圧できないのであれば、黙殺すれば良い。それだけの戦力を保有しているのがクルセルクという国だ」
グラード=クライドが、ザルワーンの大地を見遣りながらいった。クルセルクの戦力が圧倒的なのは開戦前からわかっていたことだし、その事実に対していまさら臆することもない。それは、彼が最終勝利者はガンディアであると信じているからでもある。
いまや自分の属する国なのだ。自国の勝利を信じずに戦うことはできない。ガンディアとの戦いも、最初はログナーの勝利を信じて疑わなかったものだ。実際、セツナ=カミヤさえいなければ、ログナーが勝利していたというのは、様々な観点からみて間違いなかった。いくらザルワーンの軍勢が手を引いたところで、あの時点でログナーが負ける要素は皆無に近かった。が、負けた。どれだけ勝利を信じていても、勝利の可能性が高くとも、敗北を喫することだってありうる。この戦いもそうだ。絶対に負けないとは、言い切れないのだ。無論、軍団長ともあろうものが、敗北の可能性を示唆することなどあってはならないし、士気高揚のためにも絶対勝利を掲げるのも当然のことではあったが。
「そうすると、敵がつぎに狙うのは龍府ですかねえ」
ドルカ=フォームは、北東から北西に視線を移動させた。北東にはマルウェール、北西には龍府がある。
ガンディア軍ログナー方面軍のうち、グラード率いる第一軍団と、ドルカの第四軍団は、ザルワーン地方の中央にほど近いゼオルに、混成部隊として配備されていた。そして、クルセルクの侵攻に合わせてゼオルを出発、マルウェールの南西に横たわる平原に布陣した。それもこれも、軍師の策通りであり、彼らはナーレス=ラグナホルンの戦術に従って動いていた。
第一軍団も第四軍団も、兵数千二百の軍団である。ザルワーン戦争後の再編成により、ザルワーン戦争で喪失した戦力が補填されるだけでなく、増強されていた。それは、ログナー方面軍に限った話ではない。ガンディア方面軍も、各軍団千二百人前後に統一された。その再編成による増強を喜んだのは、ガンディア方面軍第五軍団だろう。第五軍団は、第四軍団とともにバルサー要塞に駐屯する軍団であったためか、総勢五百人という、他に比べれば人数の少ない軍団だったのだ。
再編成による変化は、兵士の増員だけではない。医療部隊や輸送部隊の人員が増加し、充実していった。負傷兵の治療や戦闘の長期化による食料の不足を心配する必要がなくなり、兵士たちは、ますます目の前の敵に専念できるようになった。
軍団長の顔ぶれも、多少は変わった。ザルワーン方面軍の軍団長は全員が新顔だったし、ガンディア方面軍は、第三、第四軍団の副長が軍団長に昇格している。第三軍団は前任の団長が戦死したためだが、第四軍団は前任の軍団長が参謀局に転属したためだ。同じく、ログナー方面軍第三軍団長も参謀局に転属し、アラン=ディフォンが新たな軍団長として任命されている。着任早々、大戦争というのは、喜んでいいのか、嘆いていいのかわからないところではあるだろう。
一月十五日午後。
「どうだろうな。龍府に本部が置かれていることを知っていれば、龍府に差し向けるかも知れん。が、クルセルクの狙いがガンディアの征圧ならば、龍府を無視し、南下する可能性も高い」
「南下となれば、我々にぶつかりますね」
「そうなれば、我々を蹴散らそうとするだろう」
「そのままログナーを蹂躙し、ガンディアへ至る……と? それは、許せませんな」
ドルカは、生粋のログナー人だ。いまやガンディア国民として、ガンディアの軍人として生きることを選んだが、ログナーの大地を愛する気持ちは、ほかのログナー人同様に抱いている。ニナ=セントールの視線の熱さは、彼女もまた、生粋のログナー人であるということの現れだろう。祖国の大地を愛するのは、この時代、当たり前のことだった。
「いずれにせよ、ガンディアの国土を戦場にするのは、この初戦だけだ。ザルワーン以南を皇魔の群れに穢させるわけにはいかん」
グラード=クライドが、胸の前で両拳をかち合わせた。真紅の手甲が火花を散らせ、金属音が響いた。ログナーの青騎士ウェイン・ベルセイン=テウロス謹製の召喚武装ディープクリムゾンは、赤騎士グラードの象徴だった。ログナー王家の騎士は、いまやガンディアの軍団長になってしまったが、彼のことを未だに赤騎士と呼ぶものも少なくはなかった。特にログナー人は、ログナー時代のことを懐かしむように、そういった。
グラードは、迷惑に思っているのかもしれない。
ログナーは既に滅びた。ガンディアの領土となったのだ。懐かしんでいられては、ログナー時代に未練があるように取られるのではないか。ガンディア国内は、少し前から、ガンディア王家の敵をあぶり出すことにやっ気になっている。それもこれもログナー解放同盟やラインス=アンスリウスの活動によって、ガンディアが痛撃を受けたからに他ならない。
ログナーを愛しているからこそ、ログナー人には黙っていて欲しい、というのがグラードの本音かもしれない。
ドルカは、己の邪推に胸中で苦笑した。
「わかっていますとも、グラード軍団長」
「ゆくぞ、ドルカ軍団長。マルウェールを離れた皇魔どもを、包囲覆滅する」
グラードは軍議を打ち切ると、混成部隊に出撃を命じ、ザルワーン各地に伝令を飛ばした。ザルワーンの大地に布陣しているのは、なにもドルカたちだけではないのだ。ログナー方面軍第二、第三軍団は、ナグラシアの北東、ジベル領土メリス・エリス付近に陣取っているはずだし、ザルワーン方面軍の第三、第四軍団はマルウェール北西に、第五、第六軍団は龍府北東、第七軍団はスルークに配置されていた。そして、龍府にはガンディア方面軍第三、第四、第五軍団が控えている。
マルウェールは、餌だ。
圧倒的な兵力を誇るクルセルク軍の動きを制御するためだけの、囮だ。が、グラードがいったようにクルセルクの軍勢を足止めすることはできないだろう。なにせ、最低限の戦力した配備していないのだ。マルウェールを無視し、動き出したクルセルク軍の背後を突いたところで、痛撃さえ与えることはできないだろう。むしろ、手痛い反撃を食らうのが落ちだ。そして、マルウェールの守備部隊は、城壁外に打って出ないようにと念を押されている。ナーレスの戦術において、マルウェールに戦果を求めてはいなかった。
クルセルクに、アバードやジベルではなく、ガンディアの国土に戦力を差し向けさせるのが目的なのだ。少しでも多くの戦力をガンディア方面に割いてくれれば、アバード、ジベルによるクルセルクへの攻撃が捗るというものだが。
「敵は皇魔だけで六万を超えるということだが」
「その大半をマルウェールにぶつけてきたとしても、クルセルクの国土を守るだけの戦力はある……と」
「いかんともしがたい戦力差だね」
馬上、ドルカはニナに向かって肩を竦めた。グラード=クライドを指揮官とする混成部隊は、一路、マルウェールを目指して動いていた。
クルセルクが動いたという情報が、タウラル要塞に陣取るシーラ・レーウェ=アバードの元に届いたのは、一月十四日の真夜中のことだった。
日付が変わるような時間帯に叩き起こされて不機嫌だったシーラだが、クルセルク軍が動き出したという情報には全身で喜びを表し、侍女たちに諌められたりもした。
「戦争が始まることを喜んでいるんじゃないぞ」
シーラは言い訳ついでに麾下の軍勢に出撃命令を下すと、タウラル要塞で待機していたイシカの軍隊にも使いを出した。イシカの軍隊を率いるのはサラン=キルクレイドという老将であったが、シーラは、彼の生気溌剌とした振る舞いを見てからというもの、遠慮というものを忘れていた。
サランは小国家群でも最高峰の弓の名手といわれ、弓聖の二つ名は、遠く帝国にも響き渡っているという。
そんな人物に遠慮するほうが失礼だとシーラは考えていたし、サラン自身、そのようにいってもいた。
十五日黎明、シーラたちアバードの戦闘部隊は、サラン率いるイシカの軍勢ともどもタウレル要塞を出発した。
反クルセルク連合軍の戦いが、ついに始まったのだ。




