第六百二十二話 誘引策
「それでは、戦いようがないというのが、わたしの見立てです。戦力差は圧倒的。覆しようがないといっていい。皇魔の軍勢は、減れば減るだけ補充されるというのですからね。こちらは、そうではない。減れば減るだけ、戦力を失っていくだけであり、物量戦などできるはずもない。いまから徴兵しても、遅い」
徴兵ならばとっくにしていた。徴兵して、この戦力なのだ。約二万。ガンディア、ログナー、ザルワーン三国分の戦力としては多少心許ないかもしれないが、通常ならばそれでも十分なのだ。追加で徴兵するほどのこともない、とナーレスが言い切ったのは、そういうことだろう。レオンガンドは、ナーレスに全幅の信頼を寄せている。
「我々が勝つために必要なのは、連合軍の戦力を十全に理解し、使い切る勇気でしょう。出し惜しみはなしです。もちろん、最初から全力を出しきっては息切れするのは目に見えていますが、緒戦を落とすわけにもいきません。緒戦に勝ち、その勢いのまま、クルセルク領に雪崩れ込む。自国を戦場にするのは、最初が最後にします」
「いいたいことはわかるが……具体的には、どうするのだね?」
「ご存じの方もおられると思いますが、現在、マルウェールには最低限の戦力しか置いていません。ザルワーン方面軍第一、第二軍団のみが、マルウェールの守備についています。これがどういう意味かわかりますね」
「餌か」
そういったのは、デイオン=ホークロウだ。
会議がやや茶番染みたものになってしまうのは、ナーレスの立案した戦術が将軍たちには知れ渡っているからだろう。開戦間際、この期に及んで軍議を開き、戦略を立てるほど愚かなことはない。
「ご明察。マルウェールの守備がもっとも薄いとなれば、クルセルクが食いついてくるのは間違いないでしょう。なにせ、敵に軍略はないのです。数に物を言わせた戦い方しかできないというのなら、その力をもっとも発揮できる戦場を選ぶのが必定」
ナーレスの言にアルガザードが悠々と頷いたときだった。会議場の扉が勢い良く開かれたかと思うと、兵士がひとり、肩で息をしながら飛び込んできたのだ。
「報告!」
「何事だ?」
「マルウェールに接近中の軍勢あり! 皇魔の群れだということです!」
会議場がざわついたが、ナーレスの策を聞いていたこともあり、冷静さを欠くものはいなかった。
「予定通り、マルウェールに食らいついてくれたようですね」
「では、どうする?」
「もちろん、マルウェールを放置するつもりはありませんよ。敵軍がマルウェールに食らいついた頃合いを見計らって、攻勢に転じます。とはいえ、マルウェールの戦いで欲するのは勝利ではありません。勝利の鍵を握るのは《獅子の尾》」
「セツナたちか」
レオンガンドは、ナーレスが《獅子の尾》をミオン征討に向かわせたことを思い出した。《獅子の尾》は、ガンディアの最重要戦力である。彼らをミオン征討如きに使うのはもったいないという声は、大きかったが、軍師の意見に押し切られる形で、《獅子の尾》はミオン征討に同行した。大した戦闘もないままミオンの征討はなり、
「《獅子の尾》をミオンに行かせたのは、失敗だったのではないですか?」
「《獅子の尾》がここにいないからこそ、クルセルクはガンディアを戦場に選んだ。違いますか?」
「それはそうだが……」
「《獅子の尾》がマルウェールに入っていれば、クルセルクの攻撃対象は分散したか、アバード、ジベルのいずれかに絞られたでしょう。敵の動きを見る限り、多方面作戦をするつもりもなさそうですしね。そうなった場合、アバードかジベルに多大な被害が出たでしょう。なにせ、相手は何万もの皇魔です。アバードとジベルの戦力では、耐え切れない」
「マルウェールならば、耐え抜けると?」
「第一波は、ね」
ナーレスは、冷淡に告げた。第二波は耐え抜けない、と暗に言っているようなものだった。だれかが唾を飲み込む音が聞こえた。
「見渡すかぎりの皇魔の群れ。いやあ、嫌になるなあ」
ミルディ=ハボックは、マルウェールの城壁から北東の大地を眺めながら、だれとはなしに嘆息してみせた。
大陸暦五百二年一月十五日。
ガンディア王国ザルワーン地方の都市マルウェールには、クルセルクが差し向けたのであろう皇魔の群れが接近しつつあった。冷ややかな朝靄の中、天から降り注ぐ陽光が、大地を埋め尽くす魔物の群れを照らしている。魔物の行軍だというのに妙に神々しく感じるのは、あまりに明るいからだろう。くらければおどろおどろしく、禍々しくも思えたに違いないのだが。
「まったく、ガンディアというのは恐ろしい国ですね。我々に囮を押し付けるのですから。まるでひとの命をなんとも思っていないようなやり方だと思いませんか」
ミルディの嘆息への反応は、すぐ背後からだった。本心ではないにせよ、軍団長が口にしていいような言葉ではあるまい。幸い、周囲には気心の知れた人間しかおらず、軍の上層部に告げ口されるような恐れはないにせよ、気をつけたほうがいいことは確かだ。
もっとも、気をつけようが気をつけまいが、この戦いを生き延びれなければ無駄なことなのだが。
(無駄なことだと思っているのか?)
振り返りながら、相手の心中を察した。絶望が迫ってきている。愚痴のひとつやふたつ、こぼしたくなっても仕方がなかったし、諦念の中にあったとしても不思議ではなかった。勝ち目のある戦いではない。
それでも、ミルディは言わずにはいられなかった言葉がある。
「ザルワーン人のいえたことですか」
「……それもそうですね」
ミルディの返答を相手は否定しなかった。彼もわかっているのだ。むしろ彼ほど実感として理解している人間も多くはないのではないか、とも思える。ザルワーンが如何に非人道的な国であったのか、国の中枢に近い立場から見てきたのが、その人物だった。
「やあ、ユーラ軍団長。調子はどうです?」
「どうもこうもありませんよ。わたしは凡人ですからね。こんな要所を任せられるとは思いも寄らなかった」
苦笑したのは、ユーラ=リバイエンという青年だ。その名の通り、ザルワーンの支配者であった五竜氏族に連なるリバイエン家の人間である。中でも彼はザルワーンの最後を飾った国主ミレルバス=ライバーンに才能を見出され、彼の腹心として薫陶を受けてきており、ザルワーンの実体をもっともよく知っている人物のひとりだった。
ザルワーンは腐敗こそしていなかったが、国を強くするために手段を選ばなかった。人の道を外れた方法を用いてでも、国を強化しようとしたのだ。そのために数多の五竜氏族の子女が犠牲になった。
(魔龍窟)
ユーラも、ミレルバスに才能を見出されていなければ、人の世の地獄に投げ入れられていただろう。魔龍窟を生き延びたのはたったの五人であり、そのうち、ザルワーン戦争を生き抜いたのは、彼の従姉に当たるミリュウ=リバイエンだけだった。
そういう事情を知っているから、ミルディは五竜氏族に生まれなくて良かったと心底思っている。五竜氏族の末席にでも名を連ねていれば、いまごろ本当の地獄に落ちていたかもしれないのだ。
(もっとも、いつ死ぬかの違いにすぎないかもしれないが)
ふと、そんなことを思ってしまうのは、死が目前に迫ってきているからかもしれない。
「要所……まあ、要所ですね。クルセルクは、我らが軍師殿の思惑に嵌ったわけだ」
「ナーレス=ラグナホルンは恐ろしい人物ですよ」
「はい。承知していますとも」
ガンディアの軍師ナーレス=ラグナホルンがザルワーンにもたらした災厄を思えば、彼がいかに恐ろしい人物であるかがわかろうというものだ。ナーレスに骨抜きにされたことが、ザルワーン最大の敗因なのだ。もし、ザルワーンが万全ならば、ガンディアにあのような敗北を喫することはなかったのではないか。虚しい仮定だが、そう考えずにはいられなかった。
無論、ザルワーンが勝っていたとしても、クルセルクとの決戦は避けられなかったことはわかっている。クルセルクはザルワーンの隣国である。ザルワーンが南進を続けるとしても、クルセルクにとって目障りなのは間違いがなかった。いずれ、衝突し、決戦を繰り広げただろう。
「このために堀も城壁も二重にしてあるんだ。多少は持ち堪えられましょうな。ただ、そういつまでも、とはいきますまい」
マルウェールは、ガンディア軍によって大幅に改修されていた。城壁はより堅固なものに増強され、城壁の周囲には堀が穿たれた。その堀の周囲をさらに分厚い城壁で多い、深い堀が城壁を囲んだ。マルウェールの大改修は、なにもクルセルクとの決戦だけを見越したものではない。アバードやジベルと戦争することになった場合も、このマルウェールが要所となるのだ。
マルウェールの要塞化は、必然だった。そのために多額の資金が投じられたが、無駄にはなるまい。
「皇魔にこの城壁を突破できますか?」
ユーラが、前方に聳える第一城壁を見遣りながらいった。ミルディもユーラも第二城壁に登っていたのだ。
そのとき、ミルディの視界に軍装の男が入り込んだ。
「ルベンは、皇魔によって城壁を破壊されたと聞きます。皇魔が城壁に囲われた都市を忌避するのは、破壊できないからではないのではないでしょうか」
「やあ、副長殿。状況は?」
「報告によれば、午前中にも防衛線に接触し、正午には第一城壁に到達する見込みです」
ザルワーン方面軍副長ケイオン=オードは、ミルディに対して姿勢を正して、いった。彼は、ザルワーン戦争における聖龍軍軍師としての働きが認められたのだ。ミルディが征竜野の戦いでの活躍が認められ、軍団長に抜擢されたように、だ。
ガンディアは、人材不足を補うため、ガンディア軍に痛手を与えた人物ほど厚く遇した。ユーラ=リバイエンが軍団長に抜擢されたのは、政治的な理由もあったに違いないが、かといって彼以上に最適な人物もいまい。龍眼軍の部隊長よりは、ザルワーンの中枢に関わっていた人物のほうが、格は高い。ザルワーン軍人を扱うには、やはり知名度や格が必要なのだ。
ミルディは、ユーラが第二軍団の兵卒を手足のように扱うさまを見るたびに、自分が第一軍団の掌握に手間取ったことを考えさせられたものだ。結局、ケイオン=オードの名を利用するのが手っ取り早かったという事実も、彼に自分の知名度の無さを痛感させた。ケイオン=オードは、神将セロス=オードの息子であり、ザルワーン軍人からは将来を嘱望されてもいた。彼のいうことならばよく聞いたのだ。
「は、防衛線は一蹴される前提か」
「五百では、時間稼ぎにもなりませんよ。わずかでも気勢を削ぐことができれば御の字です。が、それも効果があるかどうか。ともかく、防衛部隊には接触後、即時撤退と言い含めてあります。防衛部隊を受け入れた後、城門は完全封鎖し、籠城戦に入る予定です」
「予定通り、か」
「はい。すべて、ガンディア軍参謀局の戦術通り」
つまりは、軍師ナーレス=ラグナホルンの戦術通り、ということだ。ザルワーン方面軍第一軍団千二百と第二軍団千二百だけで抑えられるわけもないのは、百も承知の戦術なのだ。ただ、クルセルクの軍勢を誘引するためだけであり、勝機などはない。
囮だ。
ミルディは、遥か北東の大地を見遣りながら、刻一刻と迫り来る破滅の足音に身震いした。