第六百十八話 夢と現実(五)
嵐が、ミオンの大地を駆け抜けていった。冷雨が逆巻き、雷鳴が幾度となく天地を揺るがした。
国中を荒らした暴風雨は、神の怒りだというものもいた。唯一にして至高の神ヴァシュタラの怒りは、天変地異となって人々に降りかかるという。
「神の怒り……か」
ふと言葉に出してしまったのは、王宮を揺るがす物音が、とても天然自然が発生させているとは思えなかったからかもしれない。これまで、この世界で自然を脅威に感じたことはなかったこともあり、住みやすい世界だと認識していたのだが、その考えを改めなくてはならないかもしれない。
仮にこの天災が神の怒りだとして、その怒りはだれに向けられたものなのだろうか。
さんざ利用した同盟国を征討せんとしたガンディアか。同盟国を裏切り、あまつさえ敵対も辞さなかったミオンか。レオンガンドか、イシウスか、はたまた、数多の罪なき兵士を殺戮したセツナか。
脳裏を駆け抜けるのは、ギルバート=ハーディ率いる騎兵たちの勇姿だ。ガンディア軍の隊列を蹂躙し、数多の兵を血祭りに上げていく光景は、忘れ得ぬものとしてセツナの記憶に刻まれた。
ギルバート=ハーディとの一騎討ちも、忘れることはないだろう。
ただ一閃。
それだけのことだが、だからこそ、網膜に焼き付いているのかもしれない。
「どったの?」
「え……?」
問われて、セツナは顔を上げた。ミリュウが、背を曲げてまでこちらの顔を覗きこんできていた。赤い髪の美女。不思議そうな表情は、いつになく幼く見えた。セツナよりも随分年上のはずなのだが、なぜか同年代の少女のように感じることがある。
ミオン・リオンの王宮の一室。《獅子の尾》に充てがわれた部屋には、《獅子の尾》の関係者以外だれもいなかった。もちろん、レムの姿もある。彼女も、いまや《獅子の尾》の関係者なのだ。セツナの護衛をするということは、そういうことにならざるをえない。ミリュウは嫌だろうが、仕方のないことだ。
王命である。
「なんか深刻そうな顔してるからさ」
「そう? なんでもないよ」
セツナはそういってごまかした。戦いが終わったばかりだ。余計なことをいう必要はなかった。いまは体を休めることに集中していればいい。明日にも、このミオンの首都を出発する予定になっている。休んでいられるのは、いま、この瞬間だけといってもよかった。
「変なの」
「ご主人様が変なのは端からわかりきっていたことでございましょうに」
「うんうん」
「そこは否定しないのかよ」
いつもレムの発言に牙を剥き出して反論するはずのミリュウが同意したことに、セツナは椅子から転げ落ちそうになった。レムは、窓際に立っている。窓ガラスは暴風雨に叩かれ、割れんばかりに揺れているのだが、彼女は気に止めてもいないようだった。むしろ、風雨の音が心地いいとでもいいたげですらある。
「だってぇ、こんな美女が抱きついてもなんの反応もしないなんて、変としかいいようがないじゃない」
「反応しないどころか、避けますよね、ご主人様」
「そうそう、そうなのよ。全身全霊で愛を伝えようとしているのにさ」
肩を落とすミリュウの様子を見遣りながら、セツナは、小さく笑うしかなかった。
(反応しないわけじゃないんだけどな)
それどころか、ミリュウの愛情表現にはどきどきしっぱなしなのだが、表情にも態度にもださないだけだった。態度に出せば彼女が調子に乗るのはわかっているが、それだけで反応しないようにしているわけではないのだ。
強くあろうと思っている。
そのために自制心を鍛えていくのは、決して悪い判断ではあるまい。
(強く……強くか。いったいなんのために?)
セツナは、いやいやするミリュウを眺めながら、胸中で自問した。なんのために力を欲するのか。なんのために強くあろうと思うのか。なんのために。
なんのために。
ひとつは、カオスブリンガーを制御するためだ。
そして、それがすべての理由を解決する手段だった。レオンガンドの力になるためにも、自分の居場所を守るためにも、黒き矛を制御するだけの力は必要だった。そのためだけに自分を鍛えあげるのは、間違いではない。
黒き矛は凶悪だ。
その力の強大さは、日々、実感している。この力を完全に制御することができるようになれば、セツナの前に敵はいなくなるだろう。それは、ガンディアの強化にも繋がるだけではない。主君であるレオンガンドの夢の邁進にも繋がるのだ。
夢。
レオンガンドの夢は、小国家群の統一だ。
大陸小国家群をひとつに纏め上げることで、三大勢力との間に均衡を構築しようというのが、レオンガンドが戦を起こす理由だった。
何百年もの長きに渡って維持されてきた小国家群ではあるが、三大勢力が動き出せば、たちまち消し飛ばされるほどか弱いのだ。ガンディアという国を維持していくのならば、レオンガンドの夢を叶える必要がある。
「夢」
「ん?」
まっさきにミリュウが反応したのは、彼女が、セツナの背後から伸し掛かるようにして抱きついてきていたからに過ぎない。椅子の背もたれが壁になってくれているおかげで、鼓動が早まるような事態にはならなかったが。
「みんなには、夢とか目標ってある?」
「夢?」
「急にどうしたんですか?」
本を読んでいたファリアと、エミルといちゃついていたルウファが不思議そうな顔をした。エミル=リジルだけでなく、マリア=スコールもこの戦いに同行している。マリアがこの場にいないのは、負傷兵の手当に赴いているからだ。医療部隊の人手が足りないというわけではなく、ただじっとしているのが嫌なだけなのだろう。
「いや、ちょっと気になってさ」
言葉を濁したのは、問い返されるとは思っていなかったからではない。答えるのも憚られる気がしたからだ。
夢について考えてしまうのは、つい二時間ほど前の出来事が印象に残っているからに他ならない。
「ギルバート=ハーディ将軍を討ったのは、やはりセツナ殿でしたか」
「ハルベルク殿下……」
ハルベルク・レウス=ルシオンに話しかけられたのは、戦いの虚しさに浸るようにして、主のいなくなった王宮の謁見の間にひとり佇んでいたときのことだ。レムを巻くのは苦労したが、それだけの価値はあったのだろう。レムが側にいる限り、監視されているという感覚を拭うことはできない。彼女は、ジベルの死神なのだ。味方ではあっても、気の置ける仲間ではない。
独りになりたかった。
なぜかはわからないが、そんな気分が、セツナの胸中を埋め尽くした。
気が付くと、ミリュウを振りきり、レムを巻き、謁見の間に佇んでいた。
「セツナ殿はさすがにお強いですね」
ハルベルクも、ひとりだった。従者ひとり、側近ひとり連れていない。あまりに不用心だったが、制圧が完了した王宮でそこまで神経質になる必要はないということだろう。レムがセツナを探しまわっていない理由も、そこら辺にあるのかもしれない。時折、ミリュウの泣き声にも似た叫び声が聞こえるのが心苦しかった。
「それだけが、取り柄ですから」
セツナは、ハルベルクの賞賛を否定しなかった。
ハルベルクが屈託なく笑ったのは、セツナの反応があまりにあっさりしていたからかもしれない。
ハルベルクは、玉座の前まで歩いてきた。彼もセツナも鎧を脱ぎ、武器も持っていなかった。ハルベルクは護身用の短刀こそ帯びているものの、セツナに至っては丸腰だった。もちろん、セツナには、武装召喚術があるのだが。
戦いは終わったのだ。武装する必要はなかった。
「……正直に言うと、羨ましいのです」
「羨ましい? 俺が、ですか?」
「ええ」
ハルベルクは肯定とともに微笑んだが、セツナは驚きを隠せなかった。
ルシオンの王子であるハルベルクに羨ましがられるような立場にも、状況にもない。一般の人間からみても、決して羨むような人生ではないと思うのだ。領伯に任じられ、美しい女性たちに囲まれているという点だけを見れば、羨望するに足るのかもしれないが、それは一面にすぎない。そして、ハルベルクがそんな一面だけを見て、羨むはずもない。
「セツナ殿の強さが、義兄上の、レオンガンド陛下の夢を前に押し進めている。黒き矛カオスブリンガーと、セツナ・ゼノン=カミヤの活躍があって、はじめて、ガンディアは強国となりえた。セツナ殿がいなければ、ガンディアはいまだログナーと領土を争っていたでしょう。ルシオンもミオンも、ガンディアの北進に本腰を入れる予定などなかったのですから」
「そうだったんですか?」
「ログナーがガンディアの領土となったとき、三国同盟の均衡が崩れたのはご存知ですね? ルシオンもミオンも、ガンディアを盟主と仰がざるを得なくなったのです。もちろん、それは悪いことではない。ガンディアが国土を拡大すれば、同盟国であるルシオンやミオンにも恩恵があるのですから、ガンディアを応援することに躊躇はなかった。ガンディアがザルワーンとの戦争に踏み切ったのには驚きましたが、事情を知れば、あのとき、戦う以外の選択肢はなかったともいえます」
ザルワーンに潜伏し、工作していたナーレス=ラグナホルンが拘束された以上、一秒でも早く行動を起こさなければならなかったのが、当時のガンディアなのだ。でなければ、五年の長きに渡り続けていたナーレスの弱体工作が無為になってしまう。勝てるかどうかはわからない。が、あのとき、ザルワーンとの戦争に踏み切っていなければ、次の機会は何年先になっていたのか。
「ガンディアはザルワーンを下した。それも、セツナ殿が先頭に立って、風穴を開けたからでしょう。違いますか?」
「……俺ひとりの力じゃないですよ」
「ええ。それもわかっていますよ。《獅子の尾》の武装召喚師たち、《白き盾》、《蒼き風》という傭兵たち、ガンディア軍、ミオンの騎兵隊、それに我がルシオンが力を合わせて掴み取った勝利だということも、知っていますよ。ですが、セツナ殿が全軍の勝利を後押ししたのは間違いない」
ハルベルクの断言を否定しなかったのは、ここに至るまで、散々言われ続けてきたことでもあったからだ。だれもが、そういっている。だれもがセツナの活躍を褒め称えている。ザルワーンの人間でさえ、セツナさえいなければ勝敗は変わっていた、といっているらしいのだ。そういった耳心地のいい言葉は額面通りに受け取らないのがセツナの常なのだが、かといってなにもかも否定できることでもなかった。
もちろん、そういった言葉に流され、浮かれているわけではない。ただ、受け入れ、認めるのだ。自分が殺してきた人間が数多にいるということを忘れないように。
ハルベルクは、こうもいってきた。
「そして、レオンガンド陛下が必要としているのは、セツナ殿なのだ」
「それが羨ましい……と?」
「ええ」
ハルベルクは、どこか眩しそうに笑った。その笑顔があまりに純粋すぎて、透き通ったもののように見えた。心がざわついたのは、そのせいかもしれない。
「セツナ殿には夢はありますか?」
「夢、ですか?」
「わたしには、夢があった。レオンガンド陛下と並び立ち、ともに乱世に挑むという夢が。子供じみていると思われるかもしれませんが……実際、子供の頃の夢ですからね。その夢だけを胸に抱き、前に進んできたつもりでした」
彼は、笑顔を消した。
「どうやらわたしは、夢を見失っていたのかもしれません。目の前の現実ばかりを追い続けてしまっていたのかもしれない」
ハルベルクの瞳には、決然たる意思が宿っているように見えた。
「あたしはねー、セツナと一緒にいられたら、それで十分かな」
ミリュウの熱烈な言葉に、セツナは現実に引き戻された。ファリアの呆れたような、それでいてどこか羨むような声が聞こえてくる。
「ミリュウは単純でいいわね」
「なによー。文句ある?」
「ないわよ。羨ましいってだけよ」
「ふふん」
「いいんですか、それで」
(俺には、夢なんてないんですよ。目の前の現実を追いかけることが精一杯で)
セツナは、仲間たちの会話を聞きながら、ハルベルクに伝えられなかった言葉を胸中に浮かべた。
夢を追うのは、レオンガンドに任せればいい。
強いて言えば、レオンガンドの夢を叶えるのが、セツナの夢なのかもしれない。