第六百十六話 夢と現実(三)
マルス=バールは、耳を塞ぎたかった。
ミオンが破滅に飲まれていく音を聞きたくなどなかったのだ。迫り来る軍靴の音が、この国に終わりを連れてくるのは明白な事実だった。そして、耳を塞いだところで、瞼を閉じたところで、破滅的な最期を回避することなどできないという現実も、理解している。
だだ、それでも、彼はこの現実を受け入れたくなかった。
「やっと。やっとだぞ」
護衛の騎士を連れて王宮の地下に向かいながら、彼はひとりごちた。地上では聞こえていた雨音も、風の声も、雷鳴も、地下までは届かなかった。しかし、城内に響く喧騒は、聞こえてくる。ガンディアの軍勢と剣を交えるものたちの声もあれば、断末魔の叫び声もあった。マルス=バールを探せと猛る声が鼓膜に突き刺さり。彼は、不意に足を止めた。が、立ち止まっている場合ではないことにすぐに気づく。
階段を降り、さらに深く潜る。
王宮の地下からは、ミオン・リオンの外へ脱出することができるのだ。脱出口を作ったのは、無論、彼ではない。ミオン・リオンは歴史の古い都市である。彼が手を加えるような余地は、殆どなかったといっていい。ただひとつ、天座塔だけは、彼の意思が加わっている。
天座塔をミオンの国王の居場所に相応しく作り変えたのは、マルスだ。彼は、イシウスに天からミオンを治めて欲しかったのだ。イシウスにはそれだけの器量があると、踏んでいた。経験さえ積めば、いずれはレオンガンドを凌駕する逸材となりうるだろう。
マルス=バールは、主君をそのように評価していた。
「やっと、ミオンは軌道に乗り始めたのだぞ」
財政の安定、政情の安定、人心の安定――国を運営する上で重大な要素が安定し始めたのは、つい最近といって良かった。それらをマルスひとりの手柄というつもりはない。彼の手足となって働いたものたちと、イシウスという後ろ盾があったからこそ、なにもかも彼の思惑通りに運び、ミオンの再建はなった。
それによって、同盟国に肩を並べることができるようになった。
これで、胸を張って、前に進むことができる。
マルス=バールは、自負と確信を抱いた。
だが、現状はどうだ。
ミオンは、滅びに瀕している。
「やっと……」
地下通路は、入り組んでいるわけではない。地上との連絡がいくつかあるものの、基本的には一本道であり、そういう意味でも古い構造といってもいいのだろう。マルスが建設に携わったのなら、もっと複雑なものにしていたかもしれない。そして、いざというときに困るのだ。
もっとも、複雑な迷路だった場合、追手を巻くのには有効活用できたかもしれないが。どのみち、マルスには関係のないことだ。
「それもこれも、宰相殿が選択を誤ったからでございましょう」
女の声は、地下通路に響いた。
「誤った……だと? わたしが!?」
マルス=バールは、地下通路の前方に気配を感じて、騎士たちに目配せした。マルスの息のかかった騎士たちだ。彼のために命を惜しむことはなかった。狭い通路に並んだ騎士たちは剣を抜き連ねると、ひとりが携帯用の魔晶灯を掲げた。
冷ややかな光が、地下空間の暗闇を吹き払う。
「貴公がガンディアを裏切らなければ、このような事態には発展しなかった。違いますか?」
白の鎧を纏った女騎士がひとり、奇妙な形状の剣をぶら下げるようにして、立っている。涼やかな目に宿るのは冷酷な殺意であり、明確な敵意だ。女は、マルスを殺すつもりなのだ。
(白聖騎士か……)
マルスは、頭の中の冷静な部分で、女の素性を断定した。ルシオンの紋章が刻印された白の鎧は、白聖騎士隊でのみ採用されているものであり、ハルベルク王子の親衛隊ともいうべき白聖騎士隊以外には身に付けることなどできなかった。剣は、制式採用されているものではない。
「ガンディアの、レオンガンドの増長を放置することなど、できるわけがない! 彼は、大陸小国家群を統一すると宣言したのだぞ……!」
ザルワーン戦争終結後、レオンガンドの統一宣言は、ガンディア周辺を駆け巡った。レオンガンドの発言を大法螺と笑うものもいれば、ミオンのように緊張を覚える国も少なくはなかっただろう。ガンディアは、ザルワーンを飲み込んだのだ。その気になれば、近隣諸国を切り取ることくらい造作も無いだけの地力を持った。
同盟国とはいえ、他人事ではなかった。
統一とはつまり、そういうことではないのか。
ミオンがガンディアに飲まれる未来を見たとき、マルス=バールは決意した。元より、ガンディアの“うつけ”を排斥することに協力していた人間としては、ラインス=アンスリウスらと共謀することになんの問題もなかった。セツナの暗殺失敗で意気消沈していたラインスも、彼の協力に喜んだものだった。
レオンガンドの暗殺。
今度こそ、成功させなければならない。
でなければ、ミオンに未来はない。
「そう。レオンガンドは、排除しなければならない。それが我が主の望みなれば」
「? なにをいっている……ハルベルク殿下がそのようなことを望むはず――」
マルス=バールは、そう口走ってから、女騎士がなにものなのかを理解した。ルシオンの白聖騎士風情が、ミオン・リオンの地下通路を知っているはずがないのだ。この地下通路を知っているのは、ミオンの国政に携わるわずかばかりの重要人物と、ただひとりの部外者だけだった。
「まさか……ジゼルコート伯――!」
彼はそのとき、女騎士の剣が揺らめくのを見た。
「マルス=バールは、地下に逃げたということです!」
「地下に?」
リノンクレアは、部隊長ソニア=レンダールからの報告に眉を潜めた。地下に逃げ込んだところで、この嵐が止むのを待つことしかできないのではないか。と思ったりもしたが、別の答えも思い浮かんで、彼女は胸中で頭を振った。
ミオン・リオンの宮殿はいま、嵐のただ中にある。
嵐を巻き起こしているのはルシオン軍であり、後から到着したベレルの騎士団である。豪槍騎士団と名乗るものたちは、自分たちの活躍によってベレルの王女イスラ・レーウェ=ベレルの地位向上がなされるものと信じているらしく、その士気たるやルシオンの比ではなかった。おそらく、この戦いで最も戦意の高い軍勢に違いない。それには、ミオンがベレルにとって思い入れの少ない国だという事実も大いに関係しているのだろうが。
ルシオンにとっては、長い間同盟関係を結んでいた国なのだ。士気が上がらないのも、無理はなかった。それでも自軍に死者が出たとなれば、引くに引けなくなり、戦意も上がるものだ。なんとしてでもこの戦いを終わらせる必要がある。
「こちらから地下に続いているようですが」
「ふむ。行ってみよう。外へ通じているのかもしれん」
リノンクレアは、ソニアに促されるまま、王宮の地下に降りていった。そして、辿り着いたのは地下通路であり、その狭い空洞に満ちた血の臭いに気づき、部下を集めた。通路の途中に、マルス=バールの死体が転がっていた。
無残に切り刻まれた死体は、彼がこの国の宰相であるという事実さえも忘れさせた。
「酷いことだ」
リノンクレアは、マルス=バールという人物が嫌いではなかった。情熱を持ってミオンの再生に当たり、全生命を賭してでも成し遂げるという覚悟があったのだ。彼は、決して悪人ではなかった。このような仕打ちは、あんまりだと思ったが、かといって彼が自分たちを殺害しようとした事実も消せないものであり、彼女は、マルス=バールという人物の不可解さに眉間の皺を深めた。
死体は、マルス=バールひとりだけではなかった。彼の護衛と思しき騎士たちの死体もあったが、戦った形跡はなかった。剣こそ手にしているものの、振るった様子がないのだ。暗殺、ではあるまい。あるまいが、だれに、どうやって殺されたのかなど、推測する必要もないことだ。
リノンクレアは、マルス=バールたちの死体の回収も指示すると、地下通路を引き返した。
(兄上……)
ガンディアを裏切ったマルス=バールは死んだ。だが、それでもミオンは許されないだろう。
イシウスがレオンガンドの申し出を蹴った時点で、ミオンに未来は失われてしまったのだ。ハルベルクの言葉も、イシウスには届かなかった。
イシウスは、リノンクレアにとっては年の離れた弟のような存在だった。
ミオンを訪れる度、彼とよく話をした。
イシウスは、リノンクレアの前では笑顔を絶やさなかった。
天使のような少年だったのだ。
「殿下の元へ向かう」
「はっ」
リノンクレアは、いてもたってもいられなくなったのだ。
リノンクレアが天座塔の最上階に辿り着くと、白天戦団のバルベリド=ウォースーンが沈痛な面持ちで彼女を迎え入れた。彼の表情を見る前から、天主の間でなにがあったのかはわかっていたし、覚悟はしていた。
天座の塔を登る階段の途中から、血の臭いが漂っていたのだ。濃厚な血の臭いは、だれかが死ぬほどの血を流したことの証明だった。
覚悟とともに部屋に踏み込むと、まず、ハルベルクの背中が目に入ってきた。彼は、剣を手にしていた。刀身からは血液が滴り落ち、床に紅い水たまりを作っている。血液が落ちる音が、雨音の中でもはっきりと聞こえた。
室内は、静寂に包まれている。
沈黙は、死者が言葉を話すことがないからなのか、それとも、この場にいる誰もが、語る言葉を持たないからなのか。
両者なのだろう。
リノンクレアは、室内に混在する多数の死体を目の当たりにして、息を止めた。イシウスのものと思しき亡骸が玉座にあり、王の亡骸を守るようにして、親衛隊の騎士たちの死体が転がっている。激しい戦いがあったのは、ハルベルクが負傷し、白聖騎士の何名かが命を落としていることからもわかる。
「終わったよ。なにもかも」
ハルベルクは、リノンクレアを振り返ると、苦しげにつぶやいた。