第六百十五話 夢と現実(二)
天座塔は、ミオン・リオン王宮の北側に聳える白亜の塔のことだが、その塔に至るには宮殿内を通過するのが一番の近道であるといい、ハルベルクは、供回りを率いて宮殿内部を急いだ。
勝手知ったる我が家というほどではないにせよ、ミオン・リオンの王宮の内部構造は手に取るようにわかっていた。同盟国であり、さらにイシウス国王に呼ばれることが多々あったからだ。ハルベルクは、ルシオンの情勢が落ち着いている間のほうが国外を飛び回らなければならず、むしろ忙しいといっていい有り様だったが、そのことで不満を漏らしたことはなかった。
レオンガンドとイシウス。同盟国の国王と言葉を交わし、意見をぶつけ合うことができるのは、ルシオンの王子だからこその特権ともいえたのだ。本来ならば、ルシオンの国王である彼の父ハルワールの役目だ。しかし、ハルワールは、次の王であるハルベルクこそルシオンの顔になるべきである、と公言しており、諸外国との交渉事にはハルベルクが駆り出されることになっていた。
ハルベルク・レウス=ルシオン。
ルシオンの王子は、いま、これまでの人生で突きつけられたことのない問題に直面していた。
天座塔に至るまで、戦いらしい戦いは起きなかった。小競り合いさえ起きなかったのだ。先行した白天戦団が蹴散らしたというわけでもない。死体ひとつなかった。天座塔に戦力が配置されていないということに違いないのだが、それは、イシウスがミオンの勝利を信じていたから、ではあるまい。
ミオンとて国内には情報網を張り巡らせているはずであり、マードレル、ダラム要塞が落ちたことなどとっくに把握しているはずだ。ダラム要塞を落としたガンディア軍と、マードレルを制したルシオンの軍勢がミオン・リオンに迫っているということも理解しているに違いなかった。ベレルの騎士団も、こちらに向かっている。
そういう状況下で戦力を配置していないのは、どういうことなのか。
(なにを考えておられるのか)
ハルベルクは、イシウスの意図が読めなかったものの、だからといって足を止めるわけにもいかず、配下とともに党の階段を駆け上った。塔の分厚い壁の向こうには豪雨が降りしきり、強風が逆巻いている。時折混じる雷鳴が、嵐を予感させた。
天が荒れている。
やがて、天座塔の最上階に辿り着いた。階段を登り切った先に狭い空間があり、一方に扉がある。扉の向こう側の一室に、イシウスがいるという。
「待て」
ハルベルクは、おもむろに扉に近づく騎士を制した。
「少し、待ってくれ」
考える時間が、欲しかった。
「殿下……」
扉に手をかけようとしていた女騎士が、ハルベルクの心中を察したように扉から離れた。白聖騎士隊の中でも、特に優れた剣の腕を誇るレーニャ=ヴィスコットである。彼女は、その腕を買われて、ハルベルクの外交に護衛として付き添うことが多かった。当然、イシウスとも面識があったし、イシウスは、彼女の剣の腕を褒め称え、特製の剣を与えた。レーニャにとっても、思い入れの深い出来事だっただろうことは、想像に難くない。
イシウスは、本質的には素直で穏やかな少年なのだ。頭も良く、決して幼くはない思考の持ち主だった。現実もよく見えていた。だからこそ、マルス=バールの一手に国を任せることができたともいえる。
自分の身の程というものをわきまえていた。
(だというのに、どうして……!)
ハルベルクは、叫びたかった。叫んで、問い質したかった。いますぐにでも問い質して、できるならば、考えを改めさせたかった。
しかし、いまさら、どうなるものでもない、ということも理解している。
戦いは起き、互いに血を流している。
ルシオンも何人もの兵を失い、騎士の中からも死者が出た。ミオンはひとりの将軍がガンディアに降ったといい、もうひとりは、ルシオンの武装召喚師が殺した。
血が、流れ過ぎた。
もはや、止めようがない。
止まりようがない。
ハルベルクは、長い逡巡の末、扉の前に立った。みずからの手で扉を押し開け、突入し、少年王の姿を目の当たりにした。
「ハルベルク殿下か」
イシウス・レイ=ミオンは、玉座に腰掛けていた。炎を象徴するような鎧兜を身に纏っているものの、着せられているという印象を拭いきれない。炎は、ミオンの象徴でもある。ミオンの紋章は炎の盾なのだ。炎の盾こそ手にしてはいないが、炎の甲冑を身につけた国王の姿は、ミオンそのものといっても過言ではなかったのかもしれない。
ミオンはいま、戦火に包まれている。
「まさか、ルシオンが一番乗りとは……思いもよらなかった」
「陛下……ご無沙汰しております」
ハルベルクは、イシウスを取り囲む親衛隊に注意をしつつ、イシウスの目を見た。魔晶灯の冷ややかな光は、彼の目を淡く輝かせている。なにを考えているのかなどわかるはずもない。感情の動きを読み取ろうにも、少々離れすぎている。
天座塔の最上階は、第二の謁見の間といっても良かった。マルス=バールがイシウスの権威に箔をつけるために作り上げた空間であり、イシウスが好んで使用することはなかった。広い空間だ。もちろん、本来の謁見の間に比べるとかなり小さいが、それでも、二十人の親衛隊員が武器を構えられる程度の空間はあった。
そして、ハルベルクの騎士たちが武器を抜き連ねるだけの空間もある。
「うむ。レオンガンド陛下とナージュ妃殿下の婚儀以来か。息災であったか?」
「ええ。リノンクレアともども、病を患うこともなく、こうしてここまで来ることが出来ました」
「……そうか、リノンクレア妃殿下も来られたのか」
イシウスが目を細めた。懐かしそうな、あるいは、眩しそうなまなざし。彼はなにを見ているのか。現実を見ていないのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
「ふふ……ハルベルク殿下でよかったな。リノンクレア様なら、わたしはわたしでいられなかったかもしれない」
「なにを……仰るのです」
「殿下。わたしはね、ずっとあなたが羨ましかったのだ。レオンガンド陛下を兄と仰ぎ、リノンクレア様を妻としているあなたのことが、羨ましく、妬ましかった」
イシウスの告白に、ハルベルクは天地がひっくり返るほどの衝撃を覚えた。
「レオンガンド様も、リノンクレア様も、わたしにとっては憧れだった。ガンディアという国そのものが憧れだった、といったほうが正しいのかな。この場合。ガンディアは、わたしを救い、わたしをこの国の王にしてくれた国だ。憧れるのも、当然だろう?」
「ならばなにゆえ、ガンディアを裏切ったのです」
「知っての通り、わたしにはシウスという兄がいた。父の死後、本来ならば兄が王位を継承するはずだった。兄は決して愚物ではなかったが、必ずしも良君にはなれない、そんな人物だった。多くのものが兄を擁立したのは、継承権の正当性からいえば、当然のことだったし、わたしもそれでいいと思っていた。シウスが王位を継げばミオンは滅びるだろう――周囲の声も、わたしには関係のないことだった。しかし、マルス=バールという男が、わたしを擁立するために動いたことで、事情が変わった。彼は、並々ならぬ決意と使命感を持っていた。ミオンを滅ぼしてはならないという強い想いが、彼を突き動かしていた。彼は、愛国者だったのだろう。わたしは彼に感化され、兄と戦うことを決めた。戦いに勝てたのは、ガンディアとルシオンがわたしを応援してくれたからだが」
イシウスが玉座から立ち上がった。親衛隊が構えを強くするが、イシウスに戦いを行う気配は見えない。
「わたしが王になったのは、マルス=バールという男がいたからこそだ。そして、マルス=バールがいたからこそ、ミオンは再生した。ガンディア、ルシオンと並び立つだけの国に、生き返ったのだ。彼は、この国を立てなおしてくれた功労者だ。そんな彼を、ただ一度の過ちで切り捨てることなどできぬ。断じて!」
「そのために、国を失うとしてもですか」
「マルスを切れば、遠からずミオンは潰れる。同じことだ」
イシウスは、自嘲を込めて笑った。その笑顔に清々しささえ感じたのは、気のせいではあるまい。あるまいが、ハルベルクには割り切れない感情が残った。