第六百十三話 眠れぬ日々
雨が、一向に止む気配を見せないまま、降り続いている。
黒く重厚な雲の群れがミオンの上空を覆い隠しており、陽の光も星月の輝きも、この無意味な戦争を照らそうとはしなかった。
意味のない戦いだと、だれもが思っているのだ。
かつての同盟国を攻め滅ぼすことにどんな意味があるというのか。あれだけ頼り、戦力として利用してきた国を、ただの一度の裏切りで見捨てるというのか。
もちろん、ミオンを征討しなければならないという事実も認識している。
たった一度の裏切り。
その裏切りの重さが、この戦争を引き起こした。
黒衣の宰相マルス=バール。
彼がクルセルクと手を結び、レオンガンドらの暗殺を企てたことが引き金だ。企みは失敗に終わり、レオンガンドはミオンに事実の解明、あるいは釈明を求めた。そして、マルス=バールが首謀者ならば、その首を引き渡せといった。
レオンガンドは、当然、ミオンはこの申し出を受け入れるものだとばかり思っていた。宰相ひとりの命よりも、ガンディアとの同盟を優先するはずだと、思っていた。ミオンの国王が賢明ならば、当然そのようにするはずだった。
しかし、ミオンはレオンガンドの申し出を受け入れなかった。マルス=バールがクルセルクと繋がっていることを認識しながらも、彼を罰しもしなかった。ガンディアとの同盟よりも、国を再建した宰相の命を取った。ミオンの存亡よりも、宰相の存続にすべてを賭けたのだ。
レオンガンドは、怒るよりも唖然としたらしい。
それほどまでにミオンの判断は不可解だった。小国のミオンがガンディアとの同盟を解除することに道理はない。利もなければ、益もない。そして、国王暗殺の首謀者を匿ったまま、縁を切るということは、すなわち敵対するということでもある。
ルシオンの王子ハルベルク・レイ=ルシオンは、レオンガンドがミオンの征討を決めたことを諌めたようだ。義理の兄弟として、同盟国の王子として。内政干渉といえばそれまでだが、ミオンがルシオンにとっても同盟国である以上、黙ってはいられなかったのも仕方のない事だろう。ミオンを失うということは、ルシオンにとっても痛手なのだ。
ハルベルクは、レオンガンドを諌めるだけでなく、ミオンの国王イシウスにもガンディアに従うべきだという旨の書簡を送った。が、ミオンはこれを拒絶。ハルベルクの活動も虚しく、ガンディアとミオンの間に戦いが起きた。
ルシオンは、ガンディアとの同盟関係を優先した。ルシオンにミオンに属する義理はなかったのだ。ルシオンの王子妃はガンディアの元王女だ。ガンディアとの繋がりのほうが深いのはだれの目にも明らかだが、ガンディアとの関係を優先したのは、そういうことだけが問題では無いのだろう。
ミオンにつくことになんの益もないのだ。ガンディアは、ログナー、ザルワーンを下して巨大化した。クルセルクとの戦いを前に、小国家の盟主という立ち位置に祭り上げられてもいる。そんなガンディアよりも、クルセルクとの繋がりを明らかにしたミオンを取る道理はない。
(道理……)
天幕を叩く雨音を聞きながら、セツナは、この戦争についてひとり考えていた。
ガンディア軍は、ミオン・リオンを目前にしながらも強行軍を控え、休憩を挟むことで、ミオンとの決戦を少しでも有利に運ぶ心づもりだった。休憩のためにはこの雨の中陣地を設営しなければならなかったのだが、部隊の大半が森の中で休憩することを選択したため、設営された天幕の数はそう多くはなかった。
王立親衛隊《獅子の尾》には、専用の天幕が用意された。少し手狭だが、雨露をしのげるとなれば文句もなかった。ミリュウなどは狭いほうが嬉しいらしい。そのほうがセツナの近くにいられるから、とのことだったが、どんな広い空間でも側にいるのは気のせいだろうか。当のミリュウは、隣で寝息を立てているのだが。
皆、寝入っている。
疲れた、というのが本音だろう。
ダラム要塞での戦いは、全力を発揮するまでもなく終わったが、ギルバート=ハーディ率いる騎兵隊との戦闘は、一歩間違えれば全滅もありえたということもあり、皆、全力で戦ったのだ。セツナも、久々に力を振り絞った。力を振り絞り、数多の騎兵を殺戮した。
ギルバート=ハーディも、殺した。
セツナの脳裏には、ギルバートと交錯する瞬間が蘇っていた。突撃将軍の人馬一体の秘儀は、黒き矛を手にしたセツナですら捉えきれないほど変幻自在に戦場を駆け回ったものだ。そしてギルバートは、数多のガンディア兵を殺戮した。馬上刀は、相手を断ち切るものであるため、どれだけ兵を叩き切っても切れ味は鈍りにくかったのだ。
交錯の瞬間、ギルバートは、笑っていた。なにがおかしかったのか、セツナにはわからない。なにもかもが馬鹿げている、とでもいいたかったのか、どうか。死者の想いなど想像するしかないのだが、ギルバートの胸中ほど想像しがたいものもないのではないか。
(道理か)
道理に抗い、ガンディアとの戦いを選択したのはミオンだ。ガンディアは、最後までミオンとの同盟関係の続行を望んでいた。マルス=バールの首さえ差し出してくれれば、それでよかったのだ。それだけで、レオンガンドはミオンを許した。本来ならばそれだけでは許されないようなことをしたのだが、レオンガンドは、ミオンを失うことこそ恐れたのだ。
しかし、ミオンはレオンガンドを嘲笑うようにガンディアとの同盟関係を解除した。
ミオンの突撃将軍ギルバート=ハーディは、国王の判断をどう受け止めたのだろう。どう受け止め、どう考えたのだろう。絶賛しただろうか。非難しただろうか。それとも、なにもいわなかったのだろうか。
(いわなかったんだろうな)
ギルバート将軍ならば、そうしたのではないか。
セツナが彼の立場にあっても、同じだ。セツナは、レオンガンドの政策、戦略に意見をいったことはない。セツナはレオンガンドの決定に唯々諾々と従うだけなのだ。レオンガンドが敵と認定した相手を滅ぼす。ただそれだけが自分の役割だと、彼は信じている。だからこそ、この不毛な戦いにも参加し、率先して敵を倒してきた。
「眠れないんですか?」
ふと気づくと、レム・ワウ=マーロウの顔が目の前にあった。顔が上下逆さになっているのは、彼女が頭側からセツナの顔を覗きこんでいるからだ。鼻息が届くほどの距離だ。影になった表情もよくわかる。
「眠らないんだよ」
「どうしてです?」
「死神が寝るまでは寝ないことにしているのさ」
「寝首をかかれるのが怖い、ということですか」
彼女は冗談めかしていってきたが、セツナは素直に頷いた。
「うん」
レムの驚く表情を見ることができたのは僥倖だったのかもしれない。眠気に抗い続けるのは正直疲れるのだが、彼女が寝息を立てるまでは眠れないのも事実だった。
レムが彼の護衛任務を引き受けてからずっと、この調子だった。
寝不足なのもやむなし、といったところだが、笑い話でもなかった。
日に日に、疲れが蓄積している。
「ご主人様らしくございませんね」
「そうかな」
「黒き矛のセツナは、もっと恐ろしいものだと思っていたのに」
「本音が出たな」
「たまには、本音もいわないと、疲れます」
「疲れたならとっとと寝てくれ。俺が寝れない」
「……仕方ありませんね。ご主人様のご命令とあらば、眠るとしましょう」
彼女は至極残念そうにいうと、セツナの額に口付けして、定位置に戻っていった。セツナは唖然としたまま、天幕の闇に視線を彷徨わせた。ふざけているのか、などと声を荒らげることはできない。皆、眠っているのだ。起こすわけにはいかなかった。
だから、そんなことをしてきたのかもしれない。
レムは、ミリュウだけでなく、セツナと、セツナに関わる人間をからかうのが楽しいらしい。
レムが寝床に戻り、寝息を立て始めるまで数秒の間も必要としなかった。
彼女は、眠るとき、糸が切れた操り人形のように一瞬にして眠りに落ちる。一瞬にして、深い眠りに落ちるのだ。そうなると、ちょっとやそっとのことでは起きなかったし、だからこそ、セツナは多少の安堵を覚えることができる。
死神の監視を逃れられるのは、眠る直前のこの瞬間だけといっても過言ではなかった。
風呂でさえついてこようするのだから、困りものだった。
(命令とはいえ、従順すぎないか?)
クレイグ・ゼム=ミドナスとレム・ワウ=マーロウの関係を考えながら眠ることも、ままあった。絶望的な目をした少女は、なぜ、死神となり、死神零号に支配され、使役されるのか。そんなことが気になってしまった。
善意も悪意も関係なく、自分に関わってくる人間のことを気にしてしまうのは、昔からの悪い癖なのかもしれない。
セツナは、ぼんやりと、そんなことを思いながら、瞼を閉じた。闇の向こう、赤く輝く無数の目が見えた気がした。黒き竜。カオスブリンガー。
彼はただ、うんざりとした。