第六百十二話 ギルバート=ハーディ(三)
「ギルバート=ハーディ!」
セツナが無意識に相手の名を叫んだのは、そうでもしなければやっていられなかったからかもしれない。
軍馬と一体化して戦場を駆け巡り、数多の兵を討ち取ってきたミオンの突撃将軍が、敗色の濃さに気づいたとき取った行動は、セツナへの突撃だったのだ。人馬一体の神業は、彼が突撃将軍の二つ名で知られるにたるものであり、セツナは、その凄まじさに目を細めたものだ。
降りしきる豪雨の中、彼と軍馬は歩みを止めない。ギルバートは、馬上刀と呼ばれる大刀を両手で握っている。手綱を操ってはいないのだ。だから、人馬一体といわれるのだろう。彼の呼吸に合わせて馬が動いている。馬はまるで彼の足そのものであり、ギルバートそのひとは、半人半馬の上半身となっているようだった。
距離は、五十メートルもない。
大上段に掲げた大刀からは大量の雨水が伝い落ちていく。
「セツナ・ゼノン=カミヤ!」
ギルバートの怒号が聞こえた。セツナの後方から、数多の矢が放たれ、ギルバートに殺到する。彼に供回りはもはやなく、自軍弓兵の目標は、彼ひとりに絞られていた。雨中を貫く無数の矢は、しかし、ギルバートを射抜くことはなかった。ギルバートが馬の腹を蹴った。彼の姿が掻き消えたかに見えるほどの加速があった。五十メートルの間合いが、一瞬にして縮まる。眼前に、軍馬に跨ったギルバートの姿が出現した。
「勝負!」
叫び声とともに大刀が閃く。が、大刀が切り裂いたのは虚空であり、セツナはそのときには中空にいた。地を蹴り、飛び上がっていたのだ。セツナの目線の高さが、ギルバートのそれとちょうど同じになる。ギルバートの視線が地面からこちらに流れてくる。驚愕は一瞬。なにもかもを理解したようなまなざしは、あまりに優しい。
(なんでそんな目なんだよ!)
セツナは、奇妙な苛立ちの中で、振りかぶっていた黒き矛を真一文字に振り抜いた。カオスブリンガーの切っ先は、ギルバートの上半身を腕ごと両断する。甲冑もろとも、たやすく切り裂いてしまう事実に、いまさら驚くこともない。馬が嘶いたのは、セツナが着地して、ギルバートの胴体が地面に落ちてからだった。土砂が舞い上がった。
馬は、ギルバート=ハーディの下半身を乗せたまま、セツナから離れていった。かと思うと、悲鳴が聞こえた。弓兵に射殺されたようだった。ギルバートが馬を操ったと誤認したのかもしれないし、そうではなくて、セツナとギルバートが交錯した瞬間には矢を放っていたのかもしれない。
いずれにせよ、殺さなくていいものまで殺した気がして、セツナは、頭を振った。フードは外れていて、豪雨が髪や顔を濡らしていた。雨の勢いは返り血を洗い流してはくれる。それだけでも有り難いものなのかもしれない。
(ありがたがってる場合かよ)
セツナは、自分の馬鹿さ加減に怒りを隠せなかった。この状況下で、返り血のことを気にするなど、救いようのない阿呆なのではないか。いま考えるべきは、もっと別のことなのではないか。
とも思ったが、別のことを考えるには気が重いのも事実だった。その場で屈み込み、その気の重さの原因の最たるものである亡骸に目を向ける。ギルバート=ハーディの上半身。当然、絶命しているのだが、その表情はどこか満足気だ。
「なんで笑っていられるんだよ」
雨音にかき消される程度の声で、セツナはつぶやいた。ギルバートは、己の最期を悟った瞬間、セツナに対して慈しみに満ちたまなざしを向けてきた。その事実がどうにも解せなかった。自分を殺そうとする相手に向けるような目ではなかった。己の死に直面したものがする表情ではなかった。
虚しさが、セツナの心を埋め尽くした。勝利の実感よりも、喪失感のほうが大きいのは、なぜなのだろう。なにを失くしたというのだろうか。
(あなたのことはよく知らない。知る機会もなかった。でも、それでも、無念じゃないのか。こんな最後で喜べるのかよ。笑っていられるのかよ)
彼の主君であるミオン国王イシウスがなぜガンディアと敵対するような行動を取ったのかはわからない。止むに止まれぬ事情があったのかもしれないし、そうしなければならなかったのかもしれない。しかし、イシウスに仕えるものたちにしてみれば、たまったものではないだろう。つい昨日まで味方であり、頼りにしてきた相手と戦わなければならない。しかも、勝ち目は薄い。いや、勝てる可能性など、皆無に等しい戦いを強いられるのだ。
逃げ出したくなったとしても不思議ではないし、ダラム要塞が早々に投降してきたのも納得できるというものだ。
それなのに、ギルバート=ハーディは、みずから死地に飛び込んできたのだ。ガンディア軍を蹂躙した後、笑みさえ浮かべて死んでいったのだ。
セツナには、到底理解できることではなかった。
(あなたのことをもう少し、知っておけばよかったな)
ふと、そんな気分になったのは、彼が長い間味方であり、言葉を交わす機会も十二分にあったからだろうが。
セツナは、王宮晩餐会で交わした彼の言葉さえ思い出せない自分に軽い失望を覚えただけだった。自分の周囲のことだけが、彼の脳内を埋め尽くしている。それだけで精一杯なのだ。そんなことではいけないと肝に銘じていても、頭が追いつかない。
自分には足りないものが多すぎるのだ。
セツナは、ギルバート将軍の亡骸を見つめながら、自身の更なる成長を誓った。
「セツナ様あ!」
聞き慣れた声に目を向けると、エイン=ラジャールが駆け寄ってくるのが見えた。エインと彼の部下たちだ。死体や負傷兵を避けながら駆けつけてくるさまは、主を見つけた子犬のように思えてならない。
「無事ですか!」
「見りゃわかるだろ」
「素っ気ないですねえ。さすがはセツナ様」
「なにがだよ」
「そういうところも好きですが」
「……ともかく、なんとか勝てたようだな」
セツナは、エインの発言を黙殺するようにしていった。黒き矛を手にしていることで、ダラム平原の現状は手に取るようにわかっている。ガンディア軍の死傷者は多数あれど、勝利しているということに違いはなかった。敵軍の生き残りは極めて少ない。百人足らずの生存者は、降伏の意を示しており、戦いがこれ以上続くことはなさそうだった。
エインが、セツナの手前で屈みこんだ。彼は、ギルバート=ハーディの亡骸を目の当たりにして、なにを思うのだろう。戦術家の目には、どのように映るのだろう。
「ギルバート将軍……惜しい人をなくしました」
「敵だったんだ。仕方がない」
「ええ。仕方がないんですよ。敵となって立ち向かってきたんです。倒すしかなかった」
「うん」
セツナは、エインの言葉に頷きながら、彼の部下が兵士たちに将軍の亡骸の処置を命じるのを聞いていた。彼は、手厚く葬られるべき人物だと、セツナでさえ思った。
「しかし、俺の失態だな、これは」
「なにがです?」
「ん……もっと早く気づいていたらさ、こんなに被害は出なかったんじゃないかって」
ガンディア側の死者の数はまだ明らかになっていないが、三百人以上は落命しているだろう。重軽傷者はそれこそ数え上げたらキリがないほどいる。それは、ミオン騎兵隊の凄まじさを物語っているのとともに、こちらの反応の遅れが致命的だったということでもある。
「それはそうですけどね。でも、セツナ様のせいじゃないですよ」
エインはそういったが、セツナには、そう思い込むことはできそうになかった。黒き矛を召喚していれば、もっと早くギルバートたちの接近に気づけたのは、疑いようのない事実だ。もちろん、行軍中ずっと召喚しているというのは、現実的な話ではないのだが。
「こちらが勝てたんです。それでいいんですよ。ミオンの主力を壊滅させることができたんですし。ミオン・リオンには、もはや戦力と呼べるものすら残っていないでしょう」
「クルセルクの後ろ盾がなければね」
ミリュウがそんなことをいいながら、屈んでいたセツナに伸し掛かってきた。セツナは危うく押し潰されそうになったが、なんとか耐え抜き、ゆっくりと立ち上がる。それから、黒き矛を送還した。ミリュウがいる手前、刃物を持っているのは危険だ。
「ミオン・リオンに皇魔が潜んでいたとしても、こちらには《獅子の尾》の皆様がいますから」
「気楽にいってくれますね」
そうつぶやいたのはファリアだろう。満更でもなさそうなのは、彼女が《獅子の尾》の実力に対して相応の自負を持っているということなのかもしれない。
「ガンディア最強の部隊ですよ? ミオンの騎兵隊を倒せたのだって、皆さんがいたからです。もし、この戦いに皆さんがいなかったらと思うと……」
「確かに、俺達がいなかったら、押し負けてたかも」
「ガンディアは弱兵でございますものね」
「これでも強くなったほうなんですけどね」
エインは、レムの辛辣な言葉に肩を竦めてみせた。
彼のいう通り、ガンディア兵の弱兵ぶりを思う存分見せつけるという結果に終わったザルワーン戦争以来、ガンディア軍は、練兵に勤しんでいた。兵の質は、ザルワーン戦争時よりも上がっているのは間違いないはずだった。ログナー兵には負けるかもしれないが、ザルワーン兵に引けを取らない程度には強くなっているはずだ、というのが軍師の評価だ。
「相手が悪かった、ということだろ」
「そうです! その通りです!」
セツナの発言に、エインがにっこりと微笑んだ。