第六百十一話 ギルバート=ハーディ(二)
突如として丘の上から降りてきた黒い濁流は、行軍中ということもあって縦に伸びきっていたガンディア軍の先頭集団を飲み込み、壊滅的な打撃を叩き込んだかと思うと、返す刀で中列の横腹をも貫いた。
ギルバート=ハーディ率いる騎兵隊の長駆からの奇襲突撃は見事に成功したのだ。ガンディア方面軍第一軍団、第二軍団からなる本隊は半壊の様相を呈し、第一軍団などは軍団長が命からがらで後方に退く始末であった。
「さすがはミオンの突撃将軍といったところかな」
「感心している場合では……」
「ここは素直に相手を褒め称えるべきだよ。俺はてっきりイシウス陛下の護衛に従事するものと思っていたんだ。しかし、ギルバート将軍は戦場のひと……だったか」
エイン=ラジャールは、黒い激流の先頭で馬上刀を振るうギルバート=ハーディの姿を遠目に見遣りながら、彼の勇姿を目に焼き付けんとした。降り注ぐ豪雨が、彼に降りかかる返り血を洗い落としていく。愛馬を駆り、戦場を蹂躙するギルバートの姿は、まさに人馬一体といってよく、彼が騎兵の名手と謳われるだけのことはあった。
エインは、だからこそ惜しんだ。
「将軍が味方なら」
「クルセルクとの戦いも、少しは楽になりましたか?」
「少しは、ね」
部下の問いを控えめに肯定すると、彼は、前進を命じた。彼には、三人の部下と、護衛として二十人の兵がついている。三人の部下は、彼が参謀局に転属するにあたってログナー方面軍第三軍団から引き抜いてきたものたちである。彼女たちは常にエインの側にいて一挙手一投足に注目していたためか、エインがなにをしようとしているのか、なんとなくわかるということから、参謀局に連れてきたのだ。彼女たちは、エインの手足として働いている。
「ぜ、前進ですか?」
「うん。ここからじゃよく見えないからね」
尻込みする兵士に向かって、エインは笑顔で告げた。降りしきる雨の中、青ざめていた兵士の顔がさらに青ざめていくのが見えた。
前方、ガンディア軍はようやく態勢を立て直すことができたものの、ミオンの騎兵隊の猛威の前に為す術もないといった様子で、一方的に嬲られていた。戦死者は如何程だろう。エインは、唇を噛みながら考える。無駄な出血。無為な戦死。これが参謀局の初陣というのは、今後に響くのではないか、と思ったりもしたが、今回ばかりはほかの誰にもどうすることもできなかっただろう。
ナーレスがついていたとしても、同じ結果に終わったはずだ。参謀局長である彼はいま、レオンガンドらとともにザルワーン方面に向かっているはずだった。クルセルクと戦うのだ。ガンディオンにいては、情報の伝達に遅れが生じる。
ガンディアは、クルセルクとの決戦に向かって動き出している。
ミオン征討など、物の序ででしかないのだ。
故にエインは悔しいのだ。そんな、ついでのような戦いのために多大な損害を出してしまった。もちろん、エインひとりの責任ではない。エインは、作戦の立案を行っただけであり、その可否を決めるのは軍団長たちである。ガンディア方面軍第一、第二、第三軍団の軍団長たちは、協議の末、エインたち参謀局の戦術を使うことに決めたのだ。
それに、ミオン軍の奇襲を察知できなかったことと、戦術の良し悪しは必ずしも関係のあることではない。
(雨が、敵に味方したか)
彼は天を仰いだ。黒く重い雲の群れが降り注がせる豪雨が、轟く馬蹄の音を掻き消し、地が揺れるのを誤認させた。結果、ガンディア軍は激流に飲まれ、半壊の憂き目を見た。ギルバートの騎兵隊は勢いに乗じてガンディア軍を殲滅せんとした。ガンディア軍も態勢を立て直すと、反撃を試みた。
一方的な戦いもそこまでだった。
黒い激流と化してガンディア軍を蹂躙していたミオンの騎兵隊だったが、あるときからその勢いに衰えが見え始めた。ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》が、その本領を発揮し始めたからだ。戦場に落雷があったのではないかと勘違いするほどの閃光がいくつも走ったかと思えば、四人の武装召喚師が次々とその力を解き放っていった。
セツナがカオスブリンガーを振り回せば、敵騎兵たちがつぎつぎと上空に打ち上げられた。馬ごと一刀両断されたものも少なくなかった。豪雨の中、血の雨が降り注いだ。ルウファのシルフィードフェザーが騎兵の突撃を足止めし、そのまま吹き飛ばした。ファリアのオーロラストームが雷撃の雨を降らせて敵集団を沈黙させた。ミリュウの伸縮自在の太刀が敵部隊を一薙ぎで薙ぎ払った。また、セツナを監視しているらしい死神も、大鎌を振り回して敵騎兵を斬殺した。
形勢は、瞬く間に逆転した。
「さすがはセツナ様」
エインは、セツナたちの戦いぶりを大声で褒め称えることで周囲の兵士たちを鼓舞しようとした。もっとも、エインの周囲には彼の護衛くらいしかおらず、ほとんど意味をなさなかったが。その上、エインが鼓舞するまでもなかったのだ。
第一、第二軍団は、《獅子の尾》が戦局を覆したことで態勢の立て直しに成功しており、陣形を整え、敵騎兵隊の迎撃に動き出していた。第一軍団長マーシェス=デイドロが吼えれば、第二軍団長シギル=クロッターが持ち前の勇猛さを発揮して敵軍団に飛び込んでいく。軍団長の勇姿を目の当たりにすれば、いかなガンディア兵であっても立ち止まってはいられない。我先にと敵に立ち向かっていく。
騎兵隊の陣形は、為す術もなく壊乱していった。
「凄い! 最初が嘘のような状況ですね!」
「騎兵の運用は難しいんだ。突撃による破壊力は凄まじいものがあるけれど、反面、防御力は極めて脆い。成功したとしても、多量の出血を覚悟しなければならない。それを理解した上での突撃だったんだろうけれど」
エインは、豪雨の中、前進を続けながら部下たちに説明した。三人の元部隊長は、参謀局第一作戦室長の補佐として働いているものの、戦術への理解が深いわけではない。これから深めていってもらわなければならなくなるだろうが、いまはそれでも構わなかった。エインの呼吸に合わせて行動してくれるだけで十分だと、彼は考えている。
歩いている内に、様々な情報がエインに届き、ガンディアの優勢を明確なものにしていく。彼に戦況を伝えるのは、参謀局第一作戦室所属の伝令兵であり、彼らの報告によって理解できるのは、《獅子の尾》の凄まじいばかりの活躍だった。
「敵を見誤ったね」
とはいったものの、ギルバート=ハーディほどの人物が、そのような失態を犯すだろうか。
エインはギルバートのひととなりを知っているわけではない。が、評判は聞き及んでいる。質実剛健という言葉がよく似合う武人であり、ガンディア軍の将兵からも尊敬の念を集めているという。彼は騎兵の運用の名手であり、エインとしては彼から騎兵の極意を学びたいと思っていたのだが、ミオンがガンディアを見限ったことで、エインの目論見は水の泡となった。
ギルバートは騎兵の運用法のみならず、人馬一体の秘儀を極めた武人でもあった。現在、戦場を駆け抜ける騎兵は、ギルバートとわずかばかりの供回りだけであり、残りの騎馬兵は、立ち往生している間に討ち取られるか、戦場からの離脱を試みて打ち倒されるかという有り様だった。
ガンディア軍を半壊させた騎兵隊は、《獅子の尾》の逆襲によって壊滅的な打撃を被ったということだ。もちろん、《獅子の尾》だけが奮起したわけではないのだが、大逆転のきっかけを作ったのはセツナたちであることに間違いはなかった。
前方に無数の死体が転がっている。ガンディアの兵の死体もあれば、ミオン騎兵隊の亡骸もある。黒き矛の餌食になったものは、まだしも幸福なのかもしれない。苦痛を長く味わうこともなく逝けるのだから。真っ二つに両断された死体を横目に見遣りながら、彼はそんなことを考えた。
(これだ)
恍惚とした表情になるのも、仕方がない。
黒き矛の戦場は、いつもこれだ。これなのだ。無慈悲なまでの暴圧が吹き荒れたあと、残っているのは無残な亡骸であり、黒き矛が刻む爪痕の獰猛さは、だれにも真似のできない代物だと、彼は勝手に思い込んでいる。
ほかの武装召喚師も凄い。それは理解している。
ルウファ・ゼノン=バルガザールは、豪雨の中を飛び回って敵騎兵を撃破していた。死を歌う堕天使のような戦いぶりには、歓声を送ってもいいだろう。だが、セツナには敵わない。
ミリュウ=リバイエンは、真紅の太刀を自在に操り、迫り来る敵集団を一撃のもとに薙ぎ払い、打ち上げたりもした。太刀はさながら鞭のようにしなり、豪雨の中で蠢く龍のようですらあった。しかし、セツナには程遠い。
ファリア・ベルファリア=アスラリアは、怪鳥のような射程兵器を乱れ射ち、騎兵をつぎつぎと射ち落としていった。やはり、セツナとは違う。
武装召喚師ではないが、死神壱号も武装召喚師に負けず劣らずの活躍を見せた。黒の大鎌が虚空を薙げば、数多の騎兵が両断されて死んだという。セツナにもっとも近いのかもしれないが、違うだろう。
セツナは。
(セツナ様は……)
エインは、足を止めて、視線を巡らせた。降りしきる雨の中、セツナの姿を発見するのは至難の業だ。そもそも、エインは常人なのだ。武装召喚師のように強化された視覚を持つわけではない。どれだけ視力が優れていたとしても、召喚武装を手にした人間には敵わない。
数多の死体で埋め尽くされた戦場。闘争の音色は消え始めている。ミオンの騎兵隊は全滅したといっていい。半壊状態からここまで持ち込めたのだ。騎兵の脆さが浮き彫りになった、というよりは、《獅子の尾》の異次元じみた凶悪さを再確認したといったほうがいいだろう。
彼は耳を澄ました。轟々たる雨音の中に、馬蹄が混じっている。大地を踏みしめ、駆け抜ける馬の足音。その力強さは、並の軍馬が発するものではない。ギルバート=ハーディと彼の愛馬が到達した騎兵の極み、人馬一体の秘儀が発する音。
(いた)
音の方向に目を向けると、ギルバートが、セツナに向かって突撃する瞬間だった。