第六百四話 彼と死神(四)
「本日は大陸暦五百一年、十二月三十一日でございますよ、ご主人様」
「五百一年ももうすぐ終わり、なのか」
いわでものことをいってきたレムに対して、セツナは、適当に相槌を打った。十二月三十一日も後数時間で終わろうとしているのだ。改めていわれるようなことでもなかった。
エンジュールに到着したのは昨日の昼間のことであり、それから一日以上が経過していた。セツナは相変わらず領伯でありながら、領伯らしいことを一切していなかったが、司政官ゴードン=フェネックが上手く差配してくれていると信じていた。実際、ゴードンの評判は上々であるということが、レムからの報告で把握している。
レムは、護衛というよりも、セツナ専属の使用人になりきっているらしく、セツナのために情報を集めてくれたりもしていた。エンジュール内でのフェネック夫妻の評判の良さは、とてもザルワーン人に向けられるものとは思えないほどのものらしく、ゴードンの人心掌握術の凄さがセツナにさえ理解できた。
ログナー人がザルワーン人を忌み嫌っているのは、ザルワーンがログナーを支配していたからであり、ザルワーンによる統治が最悪に近いものであったからである。そして、そういう風に仕向けたのがナーレス=ラグナホルンであるという事実は、ガンディアの深部に関わる人間しか知らないだろう。セツナは、ナーレス本人からではなく、ルウファから聞いたのだが。
そんなザルワーン人嫌いのログナー人たちの上に立って日々汗をかいているゴードンは、今朝もセツナの元に挨拶に訪れていた。不要なことだといっても、彼は聞き入れなかった。
司政官は、ガンディア政府から都市や地域の管理を一任されており、その立場は領伯に勝るとも劣らないといってもいいのだが、ゴードンは、セツナから領地を任された以上、臣下の礼を取らねばならないと言い張っていた。彼の生真面目さは、秘書にさえ苦笑させるほどのものだが、その生真面目さがエンジュールの住人に受け入れられる素地となったのかもしれない。
今朝、挨拶に訪れたゴードンは、妻であるシーナ=フェネックをセツナに紹介してくれた。福々しい女性で、雰囲気がゴードンによく似ていた。
『夫婦ってよく似るものだっていうけれど、本当にそうね』
『あたしもセツナに似ていくのかしら』
『いつ御結婚成されたのでございますですか?』
司政官夫妻に対する三者三様の反応には、セツナは口を挟む気も起きなかった。藪蛇になりかねない。
「ご主人様にとって、五百一年は飛躍の年でございましたね。どこの馬の骨だったのかはご存知上げませんが、バルサー平原の戦いで名を挙げたということは知っておりますですよ」
「……その口調はどうにかならないのか?」
セツナは、使用人らしく振る舞っているつもりのレムに半眼になった。彼女がセツナの護衛任務について以来、ずっとその口調だったし、何度となく突っ込んでいるのだが、聞き入れられた試しがなかった。
「なにか、問題でもございますか?」
「いや、ないけどさ」
「ないなら、いいじゃないですか」
「……そりゃそうだけどさ」
そういわれれば、不承不承でも納得せざるを得ない。実際、問題はなかった。耳障り、ということもない。彼女の声は、死神壱号のときよりも気持ち高めだが、その死神壱号の声が決して高音ではないため、聴きやすくはあったのだ。
セツナは、肩を落として嘆息しながら、レムがテーブルの上を片付けていくのを見ていた。
《炎の月》亭の広間には、当然、使用人が配されており、セツナたちの命令を今か今かと待っているのだが、夕食の食器の片付けなどはレムが率先して行い、ファリアとミリュウが彼女に対抗するので、使用人たちの出番はほとんどなかった。レムは、厨房から料理を運んでこようとさえしたが、使用人たちが全力で拒絶したものだ。彼らも自分の仕事を守るのに必死なのだろう。
そういうわけで、ファリアとミリュウの姿が見えないのだ。ふたりは厨房まで食器を運んでいっており、レムとは入れ違いになっている。
「どこの馬の骨……か」
「そうでございましょう? セツナ=カミヤなる武装召喚師がガンディアで燻っていたという話すら聞き及んでおりませんもの」
「そうだよな、レムは知らないんだ。普通は、そうか」
「当然でございます。わたくしは、ご主人様の熱烈な信者ではございませんですもの。ご主人様の前歴など、知ろうとも想いませんわ」
レムは、しれっとした顔で告げてきた。刺を含んだような言い様もまた、いつものことではあるのだが。
「なんかいちいち辛辣だな、おい」
「気に入らないのでしたら、そういってくださいまし。ご主人様の仰られるとおりに致しますわ」
「いいよ、気持ち悪いし」
「酷い!」
「どっちがだよ」
片付けかけていた食器をテーブルに戻して両手で顔を覆うレムの様子に、セツナは頭を抱えたくなった。と、広間に駆け込んできたミリュウが、セツナの隣の席に座って、こちらの顔を覗きこんできた。
「なになに? なんの話?」
「そんなに慌てなくても、セツナは逃げないっていってるのに……」
どこか疲れたようにつぶやきながら広間に入ってきたのはファリアだ。これで領伯一行が勢揃いしたことになる。貸し切りの温泉宿の広間は、当然のように空白が目立ち、寂寥感さえ漂っているのだが、それも仕方のないことだ。たった四人なのだ。
「ご主人様の前歴について、ですわ」
「前歴?……ああ」
レムの発言に最初に反応したのはファリアだ。彼女は、セツナが異世界人であることを知る数少ないひとりだった。つぎに、ミリュウが嬉しそうに胸を逸らした。
「ふふーん、そうよね、知らないのよね、あんた」
「なんで勝ち誇ってるのよ。知らなくて当然でしょ」
「そうでございますわ。ご主人様のことにおいて、おふたりよりも知っていたとすれば、それはおふたりの名誉にもかかわることでしてよ」
レムは冷ややかに言い返したが、その表情にはどこか悔しさのようなものが滲んでいるように見えた。普段の言動から察するに、ミリュウとは気が合わない彼女にとっては、ミリュウに勝ち誇られるのが気に食わないのかもしれない。歯ぎしりさえ聞こえてきそうな、そんな横顔だった。
「そうなるのか?」
「さあ?」
「ふふふ……いい気味よ! セツナのことは、あたしが一番良く知っているんだからね! って、ああん……」
ミリュウが変な声を発したのは、セツナが、彼女が首に回そうとしてきた腕をかわして、そのまま椅子から離れたからだ。セツナは、彼女が腕を絡めてくる気配が読めるようになっていた。それさえわかれば、逃れることも容易だった。別にミリュウに絡みつかれるのが嫌だ、というわけでもないのだが。
ミリュウは悲しそうな目でこちらを見てくるが、セツナは、彼女の視線を振りきって食器に手を伸ばした。片付け切らないことにはゆっくり休むこともできない。
「ま、ミリュウが俺のことを一番良く知っているのは嘘じゃない。俺よりも詳しいんじゃないかな」
「どういうことですの?」
レムは、ごく自然に尋ねてきたが、セツナにはその自然さが不自然に思えた。
「そんなことを教えるとでも思っているのかい?」
「あら、わたくしはご主人様のことを知りたいだけですのに」
「知ろうとも想わないといったのはどこのだれだっけ?」
「そんなこと、いいましたっけ?」
「いったよ。そして、それがあんたの本音だろうな、レム。ジベルの死神。死神壱号」
告げると、レムは笑みを浮かべたまま、セツナが手にしていた食器を掴み、力づくで奪い取った。少女のような外見とは裏腹に、その膂力はセツナを軽く上回っている。超人的な力、とは言い切れない。セツナの筋力は、ようやく一般的な兵士に並んだといったところなのだ。
「わたくしはレム・ワウ=マーロウですわ。死神壱号などと呼ばないでくださいまし。でないと、ご主人様を愛せなくなってしまいます」
レムの漆黒の瞳は、見ているだけで、なにもかもを吸い込まれそうになる。闇だ。絶望的な暗闇が、そこにある。深く、暗く、重い。
(敵……敵か)
セツナは、彼女の絶望的な目を見つめながら、夢の中の言葉を反芻した。黒き竜の言葉。いまになって思い出している。敵。絶望の名を冠する、黒き矛の敵。即ち、セツナの敵。
倒すべき敵。
(あんたか?)
胸中で問うが、目の前の少女は微笑を湛えたままだ。なにを考えているのかなど分かるはずもない。
(それとも、あんたの本当の主か?)
クレイグ・ゼム=ミドナス。
死神零号。
黒の仮面を纏ったあの男こそ、黒き矛の敵なのだろうか。