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第六百三話 ファリアとミリュウ

「激動の一年、振り返って、どうよ?」

 ミリュウ=リバイエンが唐突に話を切り出してきたのは、《炎の月》亭に辿り着き、休憩がてら露天温泉に直行し、一時の安らぎを得ている最中のことだった。真っ昼間である。快晴とはいえ、冬の寒空に変わりはなく、外気も冷え込んでいるのだが、地の底から吹き出す熱気は、その寒さに対抗しうるだけの熱量があり、湯の中に浸かっていると、冬のまっただ中だということも忘れてしまいそうだった。

《炎の月》亭は、エンジュールの東側の山間にある温泉宿であり、できたばかりということで湯治客や旅行客で賑わっていたというのだが、司政官が無理をいってセツナ一行の貸し切りになったらしかった。金額的な補填は当然役所から支払われるだろうが、高名な領伯が年越しを過ごしたとなれば、それを宣伝文句に客寄せできるかもしれないということもあり、《炎の月》亭としても悪い話ではないと踏んだのだろう。

 黒き矛のセツナの名を利用すれば、元が取れること請け合いだ。

 なんといっても、この一年、いや、この半年でガンディアが強国になることができたのは、セツナの活躍によるところが大きいのだ。セツナがいなかったとしても、ログナーくらいは平定できたかもしれないが、ザルワーンと互角以上の戦いを繰り広げることができたかというと、首をひねらざるを得ない。

 セツナがいて、彼が多くの力をガンディアに与えた。ファリアがガンディアに参戦するきっかけも、セツナだったし、カイン=ヴィーヴルことランカイン=ビューネルもそうだろう。ルウファ=バルガザールが正式にガンディア軍に参加する運びになったのも、セツナがきっかけだった。

 ミリュウも、そうだ。

 彼女こそ、セツナがいなければ、ガンディアの味方になることなどなかった人物の筆頭だった。

 ファリアは、ミリュウのどこか悪戯っぽい表情を見て、空を仰いだ。《炎の月》亭の露天温泉は、男湯と女湯で完全に分かれており、セツナはただひとり、男湯で疲れを取っていることだろう。彼のことがまっさきに思い浮かんでしまう辺り、自分も相当重症なのだと理解して、彼女は笑ってしまった。

「そうね……本当、笑ってしまいたくなるくらい、変わったわ」

「リョハンの戦女神ファリア=バルディッシュの孫娘、ファリア・ベルファリア=アスラリア!」

「そうやって箔付けしていないと立っていられないくらい弱い人間だった、ただそれだけのことなんでしょうね。でも、わたしにはそれだけだった。それだけしかなかった。ファリアの孫娘であることだけがわたしのすべてで、ファリアを受け継ぐものとして成長しなければならないと思っていた。ううん、それはいまでもそう。いまでも、お祖母様を尊敬しているし、ファリアの名を汚してはならないと想っているわ」

「親を尊敬し、家族を愛せるのは、素晴らしいことよ。あたしには、無理だもん」

 ミリュウは、そういって、寂しそうな笑みを浮かべた。赤く染めた髪から雫が落ちて、湯面に波紋を作る。まるで彼女の涙のように思えて、ファリアはミリュウの手に触れた。

「あなただって、お父上を愛しているのでしょう?」

「……どうなのかな? わかんないや」

 ミリュウは、ファリアの手を両手で挟んで、慈しむように撫でた。普段は、大人びた外見に似合わない少女染みた言動を取ることが多い彼女だが、本質的には、慈愛に満ちた女性なのかもしれない、とファリアは思った。

「ただただ、憎んでいた。あのひとを憎悪することだけが、あたしに与えられた権利だったもの。憎しみを糧にしなければ、あの地獄を生き抜くことなんてできなかった」

(魔龍窟。人の世の地獄……か)

「あの人だけじゃない。世界そのものを憎んだわ。この世を呪い、呪うことで、自分も嫌いになっていった。なにもかもが壊れていく中で、あの人を殺すことを考えるときだけ、あたしは自分を取り戻すことができた。十年。深い深い闇の中で、時の流れすら感じることはできなかった。体だけは成長しても、心は止まったままだった」

 ミリュウを始め、魔龍窟の武装召喚師たちは、十年もの長い間、地下の闇に幽閉されていたという。その十年の地獄を生き延びたのは、たった五人だけだ。ジナーヴィ=ライバーン、フェイ=ヴリディア、ザイン=ヴリディア、クルード=ファブルネイア。ミリュウ=リバイエンを除く四人は、ガンディアとの戦争で命を落としている。

 いくら強力な武装召喚師を育成するためとはいえ、あまりに非効率であろう。それ以前に非人道的にも過ぎるやり方だった。ザルワーンが《大陸召喚師協会》を認めない理由の一端が、そこにあったのかもしれない。《協会》は、魔龍窟のような存在を認めないものだ。

 ミリュウの瞳が揺れていることに気づいたのは、そのときだ。

「でも結局、あたしにはあのひとを殺すことなんてできなかった。できるはずがなかったのよ。だって、あのひとは、あたしの父上で、お父様で、ととさまで……許せないのに、殺せなかった。なにもできなかったよ」

 ファリアは、崩れ落ちるようにして抱きついてきたミリュウの体を受け止めた。湯が撥ね、湯気が踊るように渦を巻く。ミリュウの肩が震えている。嗚咽が聞こえた。泣いているのだ。

「わたしもよ。わたしも、アズマリアを討つことができなかった。アズマリアを討てば、母を殺すことなるから、できなかった。父の仇を討つと決めたのに。決めていたのに。それがファリアの使命だと、知っていたのに」

 前回、エンジュールを訪れたときのことだけではない。王都ガンディオンでの遭遇のことも、いっている。あのときこそ最大の好機だったのだ。アズマリアは、ファリアとオーロラストームの能力を知らなかった。狙撃するには、最大最後の機会だった。それをみすみす逃してしまったのは、アズマリアの肉体がミリア=アスラリアだということが脳裏を過ったからにほかならない。

 最愛の母の命を断つことなど、できなかった。

 エンジュールでの再会は、その事実をファリアに再確認させ、絶望のどん底へと叩き落としただけだった。

「アズマリアを討てば、それで終わりになるはずだった。なにもかも、それで終わるはずだったのよ。それなのに、わたしは母を殺すことを躊躇ってしまった。あの魔人を生かしておくことになんの利益もないというのに。この世界にとっての害悪以外のなにものでもないというのに」

「……でも、あの女がいなかったら、セツナがこの世界に召喚されることはなかったのよね」

「……うん」

 小さく、認める。

 厳然たる事実だ。その現実を否定するのは、夢物語を真実だと言い張るくらい無理があった。アズマリア=アルテマックスの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンがあったからこそ、セツナは異世界からこのイルス・ヴァレへと召喚されたのだ。アズマリアがいなければ、彼は元の世界で、普通の生活を送っていたに違いない。

 それは、彼にとっては幸福な人生だったのかもしれない。彼は、戦争とは無縁の地域に生まれ育ち、それなりに幸せな日々を送っていたというのだ。小国家群統一を掲げるガンディアとは、まったく異なる生活環境といっていいだろうし、好き好んで殺戮しているわけではないセツナにしてみれば、元の世界で生活している方が幸福だったのではなかろうか。

「ファリアには悪いけど、あたしは、それは嫌だな」

 ミリュウが、ファリアの肩に頭を置いたまま、つぶやくようにいった。

「セツナがいたから、あたしは、十年の闇から抜け出すことができたのよ。セツナがいて、黒き矛があって、あたしに光を見せてくれたから。あたしを照らしてくれたから。あたしを、闇の底から拾い上げてくれたから」

 ファリアは、静かに語るミリュウに、心の深いところで嫉妬を覚えている自分に気づいて、愕然とした。それは、ミリュウとセツナの出逢いがファリアの目の届かないところであったからではない。ミリュウは、ファリアも知らないセツナの過去を知っているのだ。彼がどこで生まれ、どう育ち、どう生きてきたのかを、垣間見ている。

 セツナの記憶に触れたことが、ミリュウを病的なまでのセツナ好きに変えてしまったのかもしれないが、だとしても、自分の知らないセツナを知っているというのは、嫉妬に値する。

「たとえば、ザルワーンがガンディアに勝っていたとしても、セツナがいなかったら、あたしはいつまでも闇の中を彷徨っていたんでしょうね。お父様への憎悪を募らせながら、世界を呪い続けながら」

「わたしだって、セツナのいない世界なんて考えられないわよ」

 ファリアは、ミリュウに対抗するようにいってしまったことに気づいてはっとしたが、この場にいるのがミリュウだけだということを思い出して安堵もした。ミリュウは、セツナがいる前では暴走しがちだが、ファリアとふたりきりのときは大人しいものなのだ。きっと、セツナが好き過ぎて、自分を抑えられないのだろう。そう考えると、ただただ愛らしいと思えるのだが。

「セツナがいて、黒き矛があって、わたしはここにいるのよ。セツナがいなかったら、わたしはガンディアから離れていたかもしれないし、アズマリアに戦いを挑めたとして、返り討ちにあっていたかもしれない」

 アズマリアに挑むことができても、殺せないのだから、殺されるしかないのだ。

「可能性の話をするなんて無意味なことだけれど」

 もしもあのとき、などという話をしたところで、益があるわけでもない。あのとき、別の選択をしていれば、などと考えるだけ無駄なのだ。現実は変わらない。過去を変えることなどできないのだから、現在も変わらないのだ。変えることができるとすれば未来だけなのだが、その未来が不定形である以上、どうすれば正しいのか悩み続けるしかない。

 より良い未来に辿り着けるよう、努力するしかない。

「でも、ひとつだけ、断言できることがあるわ。わたしは、セツナに出逢えてよかったと想っているのよ」

 ファリアは、自分の心臓の上に手を当てながら、告げた。

「彼がいたから、わたしは、自分を見失わずに済んだもの」

 あの日、あの時、あの場所で、彼が発した言葉が幾重にも脳裏に響く。セツナの声は、いくらでも思い出すことができた。明確に、明白に、頭の中で再生される。それが恥ずかしいことのように感じられるのは、どういうことなのだろう。

 自分の気持の変化が理解できなず、ファリアは呆然とした。

「あたしもよ、ファリア。でも、セツナだけじゃ駄目なのよ。ファリアもいてくれないと困るの」

「どうして?」

「だって、ファリアがいなくなったら、セツナが哀しむもの」

 ミリュウが、ファリアの肩に乗せていた頭を離すと、こちらに向き直った。

「いつか言ったでしょ? セツナにとってファリアは女神のようなひとだって」

「女神……」

「あたしじゃあセツナの女神にはなれないものね」

 ミリュウは、少しばかり悲しそうに、しかしながらその悲しさを吹き飛ばすほどの明るい笑顔でいった。

 その笑顔の儚さが、ファリアの胸に突き刺さった。


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